第13章 嵐の前ぶれ その1 小手子と志古媛

泊瀬部大王は大伴糠手子の娘・小手子との間に蜂子王子(はちのこのおうじ)と錦代王女(にしきてのおうじょ)の一男一女を成していた。


とは言え、既に彼女の元に大王が通うことは滅多になく、今では蘇我大臣馬子の娘・河上娘の元に足繁く通うようになっており、その寵愛が冷めたとしか思えない。


そんな風にめそめそとすることの多い小手子であったが、ある時に侍女の志古媛を呼び寄せたことがあった。そこで思わず小手子はこぼした。


「あの御方は近頃だと河上ばかり・・・・蜂子がかわいくないのかしら」


「そのようなことはないと思います。殿方というのは愛情とは別に、新しいものに興味を持たれるようですから、そこで嫉妬心を燃やすと却って心が離れる原因になるとか・・・・」


小手子は改めて志古媛の方をまじまじと見つめた。


「女には辛いことばかりですね」


「いいえ、お相手が大王なればこそ。私の父が他所に女でも作ろうものなら、母はつんけんしたまま、何の世話もしません。早晩、父が詫びを入れることになります」


志古媛の話に小手子は驚いたようだった。


「御妃様にはお分かりでないでしょうが、普通の男には妻の怒りほど怖いものはないようで、険の立った母を見ると父は顔色を変えて謝り倒すものでした」


「そう言えば、私の父も母の前ではからっきし弱い男でしたわ。

やっぱり大王というのは特殊な人間なのかしら」と、小手子は志古媛と顔を見合わせると二人して笑い合った。


でも、笑いが収まると、小手子は不安そうに漏らすのだ。


「若い女にとち狂っているのかと思うと、政治的な野心を剥き出しにして怖いくらいの時もあるし、つくづくあの御方のことが分からない」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


群臣との朝参会議で善徳にやり込められた大王は、紀男麻呂宿禰、巨勢猿臣、大伴嚙連、葛城烏奈良臣を個別に宮に呼び寄せ、朝鮮半島に渡海する軍勢を集めるように命じた。


大伴嚙連が「群臣を通さずとも宜しいのですか」と尋ねると、「糠手子も了解しておる」と言って納得させた。


大伴嚙が退出した後「下臣の分際で大王の言いつけに一々口答えしやがって、あいつらどこまで増長する気だ!まったくもって面白くない」と不満を鬱積させているところへ、今度は額田部王女の訪問が告げられた。

それを聞いて「今度は口うるさい婆さんの相手か」と内心で罵った。


もっとも、この時の額田部王女は数えで三十八才。

その美貌と知性の誉れも高く、「口うるさい婆さん」は単なる大王の罵りに過ぎない。


額田部王女が入ってくるだけで、その部屋が華やぐような雰囲気を彼女は持ち合わせていた。

おかげで大王は額田部王女の前に出ると気圧されるような気持ちになるのだ。


「これは、これは、額田部王女、今日は何の御用かな」


大王が精一杯に下出の挨拶をして見せても、彼女の表情は固いままだ。


その理由は額田部王女が泊瀬部大王を嫌いなせいなのだから、そもそも二人の出会い自体が不幸であった。


「額田部王女、堅塩姫はその子供のうちから大王と王妃を一人ずつ出しました。ですが、私の母・小姉君も間人妃が王妃になり、この私も今や大王です」


「何を言いたいのです」


「つまりは我が母もあなたの母君も何ら差異はないということです。

と言うことは、どういうことかお分かりか?

この私が額田部王女にへりくだる必要はないけれど、反対にあなたは大王に対して敬意を示す必要があるのではありませんか?」


額田部王女が驚いて大王の顔を見上げると、勝ち誇った笑みが浮かんでいるのが目に入り、急に恐ろしくなった。


その気持ちを押して頭を下げようとすると、大王が笑いを堪えながら付け足す。


「いや、もっとも額田部王女と私は異父姉弟ですから、形式張ったことは必要ないでしょう」


額田部王女は吐き気がしそうであった。


「ところで額田部王女、あなたは娘をお持ちでしたね。

確か、一人は厩戸王子に嫁いでいるのでは」


「その通りでございますが、菟道貝蛸王女(うじのかいたこのひめみこ)は亡くなっております」


娘のことを思い出すと額田部王女は悲しい気持ちになってしまうのだが、この時ばかりは「この大王の口から娘のことを聞きたくない」という気持ちが勝っていた。


「まだ一人、娘がありましたな」


この男、何を言い出すのか!とばかりに額田部王女は大王を睨み返した。


「私は父と同じように自分の息子達を大王にしたい。

そのためには大伴家を名家に復活させねばならない。それには任那復興は成し遂げる必要があります。元々は父の代の失政ですが、大伴家には取り返しの付かない汚点です。

だが、この件ばかりは相手もあることですから、成功するか分からない。

そこで考えたのです。あなたの娘を娶り、二人の間で子を成せば、任那再興の正否にかかわらず、その王子を後継ぎに出来る。

よい考えではないですか」


「なんということをおっしゃるのです!

大王のそんな欲のために兵達を送り込み、慣れない土地で命を懸けた戦をさせようというのですか!

そんな人間が大王だなどとは、戯言も大概に致しませんと!」


「まぁまぁ、怒るな。怒った顔も美しいとは、穴穂部の言葉だが・・・・・・怒るとその美しい顔に険が立つぞ」


額田部王女は泊瀬部大王の言葉に耳を疑った。

一体、兄弟して自分のことをどんな風に噂していたのか・・・・・・・・


突然として小姉君の息子に犯された元伊勢斎宮だった妹のことまでが思い出された。

それと共に彼女は激しい後悔に襲われた。


とんでもない人間を大王に推戴してしまったのではないか。

自分達は取り返しの付かない過ちを犯してしまったのではないのか。


「で、額田部王女、そなたの娘・・・・・・」


「痴れ者!恥を知りなさい、恥を!」


そう言うと、額田部王女は決然として立ち上がり、そのまま倉梯柴垣宮を後にした。


「何じゃ、あいつ。自分の用事を何も言わずに帰ったぞ」と大王は嘲った。

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