第12章 大王と大臣 その3 善徳
「大臣殿、あまりご子息を見損なってはいけませんよ。
ご子息の御仏の教えに対する造詣の深さは、並の学者では到底及びません。それに布教にも熱心で半島各国の仏教信仰にも理解が深い。
純粋に任那再興が半島の争乱を起こしかねないことに危惧することでしょう。表裏のない意見こそ、大王の野心を妨げる力に成るかも知れません」
再び腰を落とした馬子はうなだれるようにして考え込んだ。
病欠することは元々考えていたから構わなかったが、今の自分よりも善徳の方が役に立つと言われたことが腑に落ちかねたのだ・・・・・
「厩戸王子、私はどうしたら良いの?」
「伯母上はいつもの通り、大王に注文を付けに伺えば良いのです」
「一人で?」
「何か問題でも?」
「普段、話をしに行く時は大臣が一緒なのです。一人で大王に会うのは・・・・何しろ、私は泊瀬部が苦手で」
「そうはおっしゃいましても大臣殿はご病気です」
「厩戸王子、一緒に行ってもらえない?」
「母の間人妃が助言するのが良くない理由を申し上げましたが、私が顔を出すのはもっと良くありません」
「そうよね、分かってはいるのだけど」と困り果てた様子の額田部王女であった。
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数日後の朝参には蘇我大臣馬子の名代として息子の善徳が出席していた。
「あの大臣が病気か。寄る年波には大臣も勝てぬのかのう」とは大王は安堵したかのように呟いた。
それに続けて「それでは、任那復興に反対意見を出す者もいなくなった。
紀男麻呂宿禰(きのおまろのすくね)、巨勢猿臣(こせのさるおみ)、大伴嚙連(おおとものくいのむらじ)、葛城烏奈良(かつらぎのおならのおみ)の四名を将軍とし、早速準備に取りかかってもらおうかと思う」
「お待ちください」
大王は耳を疑った。普段は父の大臣の影に隠れ、いてもいなくても変わらぬはずの善徳の声だったからである。
「なんだ、善徳。父の大臣に何か言い含められて来たか。
聞いて上げるから、落ち着いて話してみなさい」
大王には明らかに嘲りの色が見え、それが大人しい善徳の正義感に火を点けた。
「畏れながら大王は本気で朝鮮半島に軍隊を送り込む気でいらっしゃいますか?」
「本気も本気、我が父の遺命を果たそうという孝行の心からの発案だ。大臣から何を吹き込まれて来たかは知らぬが、お前の親父以外は誰も反対する者はいないぞ」とせせら笑いを浮かべた。
善徳は我知らず立ち上がった。
「かの志帰嶋大王は御仏の教えを御学びになってはおりませんでした。三宝を広めようという御意志も抱きはなさりませんでした。
後代の我々が新しい意見を持つのは新しい知見を得たためであり、先代の人間の意見と違った意見を持つことは決して先人を貶めることではございません。そうでなければ新しい知識や技術を否定することになりましょう。頑なに古いやり方を守って、時代から取り残されることを祖先が我々に求めるはずがありません。八百万の神が護りし大八洲に、新たに仏教がもたらされたのも、そうした過程であることを私たちは先の争いを通して学んだのでございます。
そうでなければ大王の即位の正当性を自ら否定なさることに成りかねません。
今、我が国は仏教を学ぶために百済・高句麗のみならず新羅にも僧を送り、その知識を取り入れ、先進の知識も技術も導入の途にあります。つまり教えを請う立場にあります。
これは大陸から海を隔てた様々な国でも同じことが起こっているのでございます。この新進の機運から我が国だけが取り残されることになっては参りません。
四海の国は大小分け隔てなく、この波に遅れまいと懸命に注力しております。
この流れを志帰嶋大王が見通して遺命を託されたのではないことは明らかでしょう。
そのような先進の地に学僧を受け入れてもらった代わりに、大王は軍隊を送り込みなさろうと仰っております。そのような振る舞いに道理があるでしょうか。
道理があると仰るのならば、この愚昧な大臣の息子にも分かるようにご説明願いたい。
私目は父から甚六と呼ばれ、政治の話に付き合わせていただけず、しばらく朝参にも顔を出していませんでした。父の名代に出席したこの場で大王の詔を知らされましたが、まさに寝耳に水。全く以て納得がいきません。
畏れながらこの私にも分かりますように大王からご説明願えないでしょうか」
初めのうちは政治力学も知らぬ若造が、と侮っていた大王も話を聞くうちに、群臣達の意見が流されていくのを感じ取り顔色を変えた。
さして深い考えがあって発案した訳ではない。
大臣の息子のような論理的な議論に、大王では返事のしようもない・・・・・・
追い打ちを掛けるように善徳が言いつのる。
「父以外に反対意見がないというのならば、誰でも構いません。大王に代わって私目にご説明願いたい」
善徳の問い掛けに誰も答えようという者はなく、そのまま朝議は終了となった。
若い学究の徒が勝利した瞬間であった。
泊瀬部大王は奥の間に戻ると忌々しげに言った。
「油断した。常日頃、ぼんくらだと大臣に吹き込まれていたせいで若造に発言を許してしまった。
しかも、あいつは大王のわしに忖度もせずに、言いたいことを全て吐き出した。
おかげで遺命には価値がないかのような考えを群臣どもの頭に植え付けてしまったではないか!
言い過ぎと咎め立てしても、若気の至りと言われれば許さざるを得んし・・・・馬子め、巧い手を考えおったな!」
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蘇我大臣馬子は凡庸な息子が大王に一泡吹かせたなどとは思いもよらず、病床に大伴嚙連(おおとものくいのむらじ)を呼び寄せていた。
大伴嚙が大臣の寝間に入ってくると、臥せったまま馬子は労いの言葉を掛けた。
「こんな格好で出迎えてしまって済まない」
「大臣殿、病気見舞いで参りましたのです。床に入られたままで構いませんぞ」
「済まないなぁ・・・・・こんな重大な局面で朝参に出向くことも出来ないとは」
「なに、身体をお休めになられれば、すぐにも回復されましょう」
大伴嚙の正直な物言いに大臣は深く溜め息をついた。
だが芝居を続けねばならないのを思い出して、気を取り直した。
「病気のせいか、すっかり弱気になってしまってなぁ。よく考えてみればそろそろわしも年だ。先のことは分からぬ・・・・・・・」
「そのようなことを申されてはいけませぬ。大臣様のおられぬ朝廷など、この私には考えられませぬ」
「いや、未来のことは、その未来に生きる若者達に委ねるべきなのかも知れないと考えるようになりましてなぁ・・・・・・・」
「なにを仰いますか。大臣様はまだまだお若いではありませんか。まだ死ぬようなことを心配される年齢ではございませんぞ」
「嚙殿、わしは死を怖れる気持ちなどない。大王の命令であればいつでもこの命を捧げる覚悟はある。そうでなければ、あの『丁未の乱』で前線に自ら赴くなどするはずもあるまい・・・・・・・」
そこまで言って、急に馬子は苦しげに息を吐いた。
「いや、わしはこのままでは死んでも死にきれない。
あの守屋の奴がわしをあざ笑う姿が目に浮かぶのよ。いかに権勢を揮おうとも国の方針が誤っていくのを止めることさえ出来ぬではないかと、奴は得意気に笑うだろうな・・・・いま死ぬのは耐えられぬわい」
床から馬子は大伴嚙を睨みつけるようにして問う。
「おい、お前の伯父はやはり金村の祖父さんの汚名を雪ぐ気なのかい。大伴氏の総意で動いているのかい」
問われた嚙は馬子と目を合わせたが、その馬子の目つきに病人の者とは思えぬ力がこもっているのに驚いた――もちろん本当の病人ではないのだから当然の話だが嚙にはそんな疑いは浮かびもしない――その眼力に、嚙は大臣の国の行く末を案ずる気持ちの発露を感じ取っていた。
「大臣殿、確かに父の代は祖父の失政を恥じておりました。ですが、既に志帰嶋大王の御代は遠ざかり、我らの代ではそれをどうにかしようと考えている者はいないでしょう。
既に我らは『丁未の乱』でも功を上げ、連としての勤めを果たしてございます。
今更、祖父さまの代の失敗をどうこうとは考える必要がございません。そのようなことは隠居してからグズグズと思い巡らす話に過ぎません」
「ふむ・・・・・・・糠手子はどうなのだ?」
束の間の沈黙の後、嚙は答えた。
「糠手子伯父にしても、その件を話題にするのはついぞ耳にしたことがありませんでした。叔父上の娘が嫁いでから、欲が出て考えが変わったのかと思います」
「ふぅーむ」と馬子は大きく息をついた。
どうやら大伴氏には家を上げて額田部王女や蘇我氏と争おうという意志はなさそうだ、と安堵したのだ。
とは言え、大伴糠手子は大王への助力を惜しまないであろう。
どうしたものやら思案のしどころである。
「大伴嚙殿、今日はお見舞いありがとうよ。
この馬子にも、ご奉仕すべきことが残っている気がしてきたわなぁ。この上はしっかり養生して、一刻も早く参内できるようにいたそう。
悪いが、少しばかり疲れた。このまま休むとするから、帰ってもらおうか」
「こちらこそご病気だというのに長居しすぎました。
大臣殿、早く戻ってきてくださいませ」
こうして大伴嚙連が邸を立ち去るのを見届けると、馬子は勢いよく起き上がった。
「おい、善徳はどこにいる。
あの唐変木は朝参してどうだったか少しも知らせてこない。もう昨日の話だぞ」
馬子の文句に家人が恐る恐る答える。
「善徳様は朝参から戻られますと法興寺に向かったきり。おそらくそこで昨晩はお泊まりになったのかと」
馬子は呆れたように頭を振る。
「寺のことになると、あいつは物事の軽重が分からなくなりやがる。どうしてあんな息子が育っちまったのか・・・・・・
おい、あいつに使いの者をやって呼び戻せ」
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