第12章 大王と大臣 その1 任那復興

迦楼夜叉騒動が収まると、ようやく本格的に森の伐採が始まった。

そうなれば飛鳥寺の建立は順調に進み始める。


それと呼応するように額田部王女の住む豊浦宮の近くにも桜井寺(豊浦寺)が創建され、やがて百済から帰ってきた修行僧達は新しい寺に住まうようになっていく。


こうした仏教の布教や信仰の広まりは、信仰の問題である以上に、来るべき大陸情勢に呼応すべく準備のはずだった。

漢帝国が滅んで以来、多くの国々が興っては滅び、分裂と統合が際限なく繰り返されるかに見えた大陸にも、新たな潮流が生まれいた。


それが隋帝国による統一である。


目まぐるしく興亡を繰り返した大小数多の帝国であったが、どうやら仏教というものは変わらぬ共通のツールとして、どの帝国でも周辺国との交流に使われ続けていた。


その一方で、大和の王権は大陸の大帝国よりも、半島情勢と密接に関係して発展してきた歴史がある。

新しい技術や知識の導入だけではなく、加羅の地で産出される鉄が必要だったせいだ。

鉄こそは、武器として以上に、農業生産力の向上に大きな力を秘めていたのだ。


朝鮮半島南部の任那と称された領域を失ったせいで鉄の調達が難しくなったことは、志帰嶋大王(欽明天皇)の時代には王権を根底から揺るがしかねない重大事であった。

だからこそ志帰嶋大王は「任那復興」を遺命としたのである。


だが、任那復興はその後も成し遂げられぬまま時代は過ぎる。


それどころか吉備や近江で鉄鉱石が採取されるようになり、朝鮮半島において支配領域を維持する重要性は小さくなっていった。

ものごとの価値はかように移り変わるもの。


大臣として朝廷の政策を担う蘇我馬子には状況の変化を受け入れるのは当然のことであったし、蘇我家の系統を汲む王族にも当たり前と感じる素地が出来ていた。


仏教の広まりに伴う儀式や外交儀礼の場になれば、仏教導入に貢献した蘇我大臣や額田部王女、ならびに厩戸王子が率先して使節と交流するのは自然なことであったし、取り立てて異議が申し述べられることもなかった。


この仏教信仰を通した交流が当時の国際感覚を醸成する場であったし、外交の最前線でもあったのだ。


それだというのに、仏教について興味の無かった泊瀬部大王は、仏教を通した国際交流にも関心がなかった。

仏教交流を通した儀礼の場でどのような情報が交換されるかを理解しようともしなかったし、そうしたことを伝えようとする者に対してあからさまに退屈や不快の念を示しさえした。


大王の念頭にあったのは自分の威厳と権威を示すこと。

それともう一つは、自分の後継者をどうするかということであった。


泊瀬部大王は王子時代から付き合いのあった大伴糠手子の娘・小手子を妃としていたが、彼女との間の王子では竹田王子や厩戸王子に血筋の点で適わない。

蘇我家からは河上小娘を妃としたが、彼女は蘇我本家の娘ではない。

その間に王子を成したとしても、有力な跡継ぎには足りないのだ。


「ならば」と大王が考えついたのは大伴氏の家系を高める方策であった。


何と言っても大伴氏の家名を貶めているのは志帰嶋大王の時代に小手子の祖父・大伴金村大連が失策を犯し、任那を失う結果になったことである。


本来ならば大伴氏は高御産巣日神(たかみむすひのかみ)を祖とし、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に付き従った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされ、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと=神武天皇)の東征で先鋒を務めたとされる道臣命(みちのおみのみこと)の末裔である。

神話以来の大王家との繋がりを持つ、名誉ある家系なのだ。


その権威を取り戻してやれば、小手子の息子でも大王になれるのではないか・・・・・


だが、時代はそんな大王の独善的な企みに付き合っていられるような悠長な時間を終えようとしていた。


大陸情勢は急速に安定化しつつあり、強大な隋帝国が生まれようとしている。

半島情勢にこの強大な帝国がどう干渉しようとしているのかを、半島の王権だけでなく、大和朝廷も見極めねばならない情勢である。


そのことについて大王が興味を持たず、臣下に任せっきりというのは困ったことであった。

大王の頭からは国際情勢の移り変わりや時代の趨勢という感覚は抜け落ちていた。


いや、完全に人任せであるなら、それはそれで良かったのかも知れない。


ところが、治世の四年目、八月になって朝参の集まりで大王は唐突に宣した。


「自分は任那を復興したいと思うが、おまえたちはどうか」


群臣達の間で静かに衝撃が走った。


既に外交方針としては、大陸に誕生した強大な統一王朝とどう付き合っていくかの方策を探る段階に進み出している。

半島内に大和の拠点をもう一度築く話はご破算になったと言うのが暗黙の了解なのだ。

だから、そうした方針変更についての話し合いや取り決めを明文化したことはない。


政権を担う者の間では自明であったからだ。


大王の突然の発言は「これまでの外交活動の報告を聞いていれば分かりそうなものではないか・・・・」と鼻白む思いであった。


皆が押し黙っているので大王は続けた。


「任那復興は我が父の遺言である。

それを今日まで実行できずに、議題にすら上らせずに来た。甚だ不忠なことであったとは思わぬか。

これまで皆の報告を黙って聞いてきたが、どうやら我が国は平穏無事にして、土地の開発は進み、収穫は増える一方らしい。そうなると租も調も集まり具合は父の代を遙かに凌ぐということだ。

ならば、今こそ遺命を果たす時ではないのか」


大王の言葉に、今度は本当に群臣達がざわめく。


即位以来、積み重ねてきた外交努力をひっくり返すような発言ではないか、と。


(くっ、仕方があるまい)と馬子が「畏れながら」と声を発した。


「現在、半島情勢は劇的な変化を遂げつつあります。

三年前に隋帝国は陳帝国を攻め滅ぼし、大帝国の完成を成し遂げました。

この隋帝国が誕生し、強大な王権を固めている。この強大な力がどちらに向かって働こうとしているのかを見定めずに、半島情勢に介入しようとするのは短慮でございます」


「これ、馬子。そのような建前の話は結構。

このわしが聞きたいのは、そもそもお前達に任那日本府を再興する気持ちがあるのかと言うことだ。

その点について思うところを正直に答えてみよ。

どうだ、馬子!」


「そもそも、海を越えた場所に我が国の領土として任那を維持することは不可能でございましょう。その無理を通すとなれば、朝廷の負担は大変なものとなります。

なぜ、任那を必要としたかと言えば、古来、朝鮮半島南部で産出する鉄が欲しかったからでございます。ですが現在は大和においても鉄の産出は可能となり、鉄不足に困窮しているということもございません。

そうであるならば、わざわざ大和が火種に再び火起こしをする必要がどこにあるでしょう。

むしろ、隋帝国に対抗するために半島諸国とは協調していく時代に変わったのです。どうか、そのために準備してきたことを覆すようなことを御命じになりませんように」

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