第11章 六甲の森 その3 馬術

「また、私たちだけね」とは茜の発言である。


「さぁ、どうするつもりだ」と拓磨が心配そうな声を出す。


「まず、馬を用意しよう。異界の馬がどれだけ俊敏なのかは知らないが、地上の馬ぐらいは用意しないと互角には戦えないだろう」


「だけど・・・・・・馬は必ずしも思うように動いてくれないじゃない?」


「茜、私を見損なうなよ。昔から私と拓磨で軽業師になれるんじゃないかと言うくらいに、馬の操縦は得意中の得意なのさ。

なぁ、拓磨」


「あ、あぁ・・・・・・ただ、麻呂子のお母様が曲乗りを嫌がって。

普段は優しいお母様が『王子がそんな危険なことを』と怒るのだ。だから、もう何年もあんなことはやっていないじゃないか?」


「そうだったか?ほんの少し前に麻呂子と曲乗りで遊んだ覚えがあるのだが」


「いつの話だと思っている?

遊びで曲乗りしたのなんか、『丁未の変』よりも以前の話だ。お前も俺も双髪にもならない童の頃じゃないか」


「あの頃から、もうそんなに時が過ぎたか。月日の経つのは早いものだな」


「なにを気取ってるの!」とは心配げな茜の言葉だ。


「いや、格好つけているのではなく、こうなると知っていたら、あの頃にもっと練習しておけば良かったかもな」


「自信ないの?」と驚いたように茜が声を上げると「いや、もっと練習しておけば、遊んだ時期を間違えずに覚えていられたのに、と残念なだけさ」と麻呂子が笑い返す。


だが、内心では「笑い事ではないぞ」と緊張で身が縮む思いであった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


翌日の夕方、薄暮が迫る中、麻呂子が森の木の幹に斧を五回、六回と叩きつける。

と、中空に怪しい光りが幾つか舞い踊り出す。


「聴いた話の通りか」と麻呂子はそばに繋いであった馬の綱を解くと、素早く鞍の上に跨がった。


予想通りに迦楼夜叉が姿を現して、地面に降り立ったならば、即座に馬首を反転させて森の出口へ駆け出すのが計画であった。

その場所から森の出口へ駆けるのを昨日から何回も繰り返していた。

準備は滞りなく整えられ、この場に臨んでは、その計画通りに馬を動かすだけであった。


だが、それも人間の都合の話。

麻呂子の乗る馬の方は、宙に乱舞する光りに驚き、平常心ではなくなっていた。

麻呂子はそれをなだめて、何とか落ち着かせようとするが、馬は方向を変え跳ねようとする。


「どうどう!」と麻呂子は必死で馬を安心させようとした。

ところが次に迦楼夜叉がその乗馬と共に中空から現れ出る。

それが上空を跳ね回るように行き来し始めると、もう麻呂子の馬は収まらない。

棒立ちになるや、方向が定まらないままに、あちこちと駆け回り始める。


「こら、落ち着け」と声を荒げてみても、いきり立った馬は収まらない。


「自分の見通しが甘かった」と後悔しても、このままでは死が迫るばかり。

麻呂子は必死で馬に声をかけたり、馬の胴を足でしっかり挟み込んだりしてみたが、馬はその場でぐるぐると周りながら足踏みをしたり、かと思えばいきなり立ち上がろうとしたり、と落ち着かない。


麻呂子が奮闘している間にも迦楼夜叉とその妖馬は宙を舞うように降りてきて、遂に地面に降り立った。


地面に妖馬が降り立つ様に、麻呂子の馬は驚いて飛び跳ねたため、麻呂子は振り落とされまいとしがみ付いた。

馬は跳躍するようにして迦楼夜叉から離れたが、降りた場所は麻呂子が向かおうと思っていた森の出口の反対側で、その出口に向かうには迦楼夜叉と相対しなければならない位置だ。


「馬は必ずしも思うように動いてくれない」という茜の言葉がまざまざと脳裏に甦る。


迦楼夜叉が麻呂子を睨みつける。


「蘇我の血筋の者か」と言うや、天羽々斬剣が抜かれ、その四尺もある刃がギラリと光った。


迦楼夜叉の問いは麻呂子に答えを求めるものではなく、ただ迦楼夜叉自身を納得させるためのものである。

麻呂子が返事をせずとも、それを待たずに迦楼夜叉は剣を振りかざす。

それと同時に妖馬が駆け出してきた。


咄嗟に麻呂子は鞍の上に立ち上がり、自らも剣を抜いた。

麻呂子の馬はそれまでの興奮が嘘のように立ちすくみ、鼻息だけが荒く麻呂子の耳に伝わってくる。


妖馬は猛然と向かってきており、その騎乗の迦楼夜叉は天羽々斬剣を煌めかせる。

背筋の凍る光景とはまさにこれだ、と麻呂子は知る。

自分の剣で、あんな大剣をまともに受けたら、剣もろとも自分が真っ二つにされるだろう。

その姿が生々しく見え、麻呂子は戦慄する。


すれ違いざまに、剣が舞うように飛んできた瞬間、麻呂子は鞍の上で跳躍、と同時に宙で開脚した。

剣の刃が麻呂子の尻から太ももの裏を掠める。

だが、麻呂子は傷一つ追うことなく、そのまま鞍に尻から落下した。


麻呂子が落ちてきた衝撃に馬はびくんと目を覚ましたかのように猛然と駆け始める。


妖馬はすれ違ったことで、森の出口と反対側に駆け去っていた。

おかげで思い描いていた通りの位置取りになった。


「ここからが本番よ」と麻呂子は馬を煽り、さらに速度を出させようとする。


その後ろでは迦楼夜叉が馬を返し、追いかけ始めていた。

勢いよくすれ違った分だけ距離が離れてしまっていたが、迦楼夜叉の妖馬は俊足であり、みるみる距離が詰まっていく。


それでも森の出口も近づいていた。


麻呂子は足元を確認すると、勢いよく馬を跳躍させた。


そこには暗がりでは見えにくい綱が張られていた。

後ろに続く迦楼夜叉は冷たい笑いを浮かべて妖馬を跳躍させ、振り向きざまに跳び越えた綱を天羽々斬剣で切ってみせた。


まさにその瞬間、麻呂子と馬が疾駆して通り過ぎた場所に、忽然として地面からピンと張られた鎖が浮かび、姿を現した。


迦楼夜叉が前を向き直った時には、妖馬の足が鎖に引っ掛かり倒れ始めたところだった。


木霊のように無念の雄叫びが森に響き渡る。


迦楼夜叉が凄まじい勢いで馬から落ちて倒れ込むと、その先には既に馬から降りて弓で狙いを定めた麻呂子が待ち構えていた。


何度か転がった迦楼夜叉が身を起こそうとした瞬間、その麻呂子が素早く天羽々矢を続けて放った。


森に断末魔の悲鳴とも叫びとも付かぬ声が轟き、遂にはそれっきり静かになった。


迦楼夜叉が倒れていた場所に麻呂子が近づくと、鎖を張っていた茜と拓磨が森の木の陰から出て来た。


「倒したの?」


麻呂子は茜に向かって頷いて見せた。


妖馬と迦楼夜叉が存在したという証は、地面に転がる馬の鞍と長大な天羽々斬剣しかなかった。


始めに張られていた綱は囮だったのだ。

これを麻呂子が飛び越せば、迦楼夜叉も飛び越すだろうと予測していた。

だが、麻呂子が着地して通り過ぎた先には鎖が隠されていた。

麻呂子が行った後、茜と拓磨が妖馬の着地と時機を合わせて左右から鎖を引っ張り上げたのだ。

見事に狙い通り、妖馬は足を取られて引っくり返った。


ここまで上手く行くとは、麻呂子も思っていなかった。


麻呂子が天羽々斬剣に手を伸ばすと、ボッと光る人影が浮かび上がる。


三人が思わず後ずさりすると――


「怖がらなくて良い」と声がする。


漠然として人影と見えたものは、よく見れば物部守屋の姿をしていた。


麻呂子は思わず警戒心を募らせ、剣の柄に手を掛けた。


「はまるな!」と守屋と思しき光りは告げた。


「わしは蘇我家への恨みの虜となり、迦楼夜叉の魂に取り込まれ、その怨念の衝動を利用されていた。蘇我氏を快く思う訳ではないが、それよりも我が物部氏は饒速日命を祖先とし、大王家を守護する家柄である。今も、大王家の安寧と大和の繁栄を願う心に偽りはない。

麻呂子王子、我が霊が迦楼夜叉に囚われていたからこそ分かることがある。

怨念は更に強い怨念を産む素地となる。その連鎖を断ち切らねばならない。

今、こうして恨みや憎しみから解き放たれてみると、負の感情の全てが虚しい。

善政を敷き、誰しも嫉妬や憎しみとは縁遠い暮らしが出来るようにしなければならない」


麻呂子はカッとして言い返した。


「それが、そのような綺麗事を並び立てれば叶うとでもお思いか!」


麻呂子の問いに物部守屋の霊は言葉を詰まらせた。

少しすると笑い声が響いてきた。


「さすがは当代きっての英傑。

わしが馬子であれば麻呂子と厩戸王子とを両輪として大王家を盛り立てて行くであろうに」


「そのような疑念を吹き込んで、大王家の間に諍いを持ち込むのこそが怨霊の得意とするところであろう!」


再び、守屋の霊は笑った。


「誠に小気味よい。

その知恵と勇気で惣鬼と迦楼夜叉を退治したこと、敬服に値する。

だが、次に来るのは土熊であるぞ。

今までのような方法では勝てないぞ」


守屋の言葉に三人は顔を見合わせる。


「なんだ、その土熊とは」


「あの神日本磐余彦尊様(かむやまといわれびこのみこと=神武天皇)までをお苦しめになった大熊が変じた鬼じゃ。その神通力は並大抵のものではない」


「ならば饒速日命を祖先とする者に聞こう。

どうやって倒せば良いのだ?」


「その天羽々斬剣を使え。人の身で土熊を倒すとなれば、そのぐらいの武器は必要であろう。それでも事足りるかどうか・・・・・・・後は麻呂子王子の力次第。

わしから言えるのはそれくらいじゃ。

饒速日命の子孫として頼むのじゃ。

どうか大王家を御守り、未来永劫、大和を栄えさせたまえ」


ふと気づくと、既にその森にはとっぷりと日が暮れて暗闇が迫っていた。


「いつからこうしていたんだ」と言う麻呂子の呟きで茜と拓磨も我に返る。


暗がりの中でも僅かな月明かりで輝く天羽々斬剣の存在は分かった。


「この剣が切り札になるの」と茜が剣を拾い上げる。


「果たして、守屋の霊魂が真実を我らに話すものかな」と疑いながら麻呂子は茜から剣を受け取った。

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