第11章 六甲の森 その2 再び戦いの準備

黙って考え込む麻呂子の様子に茜が声を上げる。


「麻呂子、どうしたのです」


「だって、そんな昔の矢なら篦(の=矢の棒の部分)や矢羽が腐ってしまう。本物のはずがあるまい」


「もちろんよ。残されていたのは鏃(やじり)だけ。その鏃を儀式に則って今一度矢に作り直したの。鏃は磨き上げられ、鏃の刃も研ぎ上げられています」


「矢というのは、一度使えば失われやすい・・・・・」


「天羽々矢は使われていないわ、使われたとされるのは出雲の国譲りの大昔、神話の時代。饒速日命は天津神に使える証拠として示しただけよ」


「そんな伝説の内容を議論しようなんて思っていない。

使えば神宝が失われることになるが、構わないのかが気になったのだ。使ってしまって、失われても石上神宮は問題にしないのか」


「なんだ」と茜は目を見開き、舌をちらりと見せた。

「麻呂子って意外に疑り深いと思ったけど、細かい伝説の事績なんかを気にするはずなかったね」


「それは・・・・誉めているのか?」


「そうよ」


麻呂子は澄まし顔の茜の様子を窺ったが、楽しい気分を隠しながら矢筒を開けた。


真新しい竹で出来た篦は瑞々しさが残っているかのようであり、その先に付いている鏃もまた白金のごとく輝き、作りたてと言っても信じてしまいそうな鋭さに思わず目が行く。


矢羽は新しい鷹の羽で出来ており、甲矢(はや)と乙矢(おとや)の一対である。


麻呂子は驚きの目を上げ「これは・・・・!」と思わず声を上げてしまう。


「そう、一対だけ。神宝である鏃がそんなに沢山あるはずもないでしょう?」


言われてみればその通りである。

一本だけであったとしても不思議はない。


「臆した?」


「まさか。なんでそう思うのだ」


「だって、麻呂子が惣鬼に向かって放った矢は全部外れたじゃない」


「なんだ、見ていたのか」と、その時の自分の無様な姿を思い出して麻呂子は笑わずにいられなかった。


「笑い事じゃないわよ」


「はい、スミマセン」と茜の剣幕に思わず麻呂子は謝ってしまった。


「いや、茜、そんなに心配してくれるな。

私はあの時の不明を恥じて、それからは弓射の訓練を積んできた。今ではあの頃と比べものにならないほど腕を上げている」


「本当に?」


「本当だとも」


「どれほどの腕前よ」


「十間前後の距離なら外さない。百発百中と言って良いだろう。二十間前後なら、十中八九。三十間になると六割前後まで落ちるかな。三十間なら狙わない方が良いかも」


麻呂子の言葉に表情を明るくした茜だったが、暫くすると厳しい顔つきになった。


「あの惣鬼を狙った時が二十間だから、上達したのは分かったわ。

でも、二十間で十中一~二は外す計算ね。二射放って、その一~二が出たら倒せない」


「いや、聞いた話では迦楼夜叉に向かって放たれた矢は素通りしたという。

当たろうが当たるまいが、効き目は無さそうだ」


「なんだ、そんなことで悩んでいたの」と茜は勢い込んで身を乗り出してきた。


「一番大事なことじゃないか」


「そうか、麻呂子は一回目の襲撃の話しか詳しく聞いていないからね」と茜は二度目の襲撃――つまり迦楼夜叉と蘇我家の兵達が戦った時の様子、つまり東漢直駒からの報告――を説明した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「つまりね、宙から現れたように見えて、宙を跳ねている姿は、まだ異界にいるのが見えているだけで実体がないの。だから狙っても素通りしてしまう。

現世に現れるのは地面に降り立った瞬間なの。だから地に足が付くと蹄の音が鳴り出すのよ。

惣鬼だって、中空から現れたのが、地面に足を着いた途端に足跡がくっきりと付いたでしょ。

実体になったからこそ、兵達の放った矢が剣で払われたのよ。実体化した後なら矢で狙うことが出来るはずじゃない」


麻呂子はそれでも厳しい表情のままだった。


「茜、期待を裏切るようで悪いのだが、今の話の通りなら、私が放った矢だって天羽々斬剣によって撥ね飛ばされてしまうだろう。それに、動く標的に対しては命中率だって下がるもの。必殺の矢であっても、二射では心許ない」


身を乗り出すようにして説明していた茜は麻呂子の言葉に表情を曇らせてぺたんと腰を落とした。


「だったら、どうしたら良いのよ」


麻呂子は厳しい顔を向けた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


数日後、麻呂子は務古水門に拓磨を呼び寄せた。


拓磨は麻呂子が小男の舎人を連れているのを訝しんだが、近くに来てみるとその小男が茜であることに驚天動地の体であった。


「拓磨、そんなに驚くな。こんな格好でもしなけりゃ、女の身で鬼の出る現場まで出かけて来ることは出来ないだろ」


「あ、ああ・・・・・」


「拓磨、わたしは元々舎人王女と呼ばれているんだ。こういう格好に違和感ないよ」


「いや・・・・・でも」


「ほら、ぶつくさ言っていると他の連中にバレるだろ。茜は他の男の前では口を聞かないこと。そんなか細い声では女と知れてしまうからな」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「拓磨、いつも困った時にばかり出張ってもらって悪いな」


「そんなこと言うなよ。そもそもの始まりが『闇知らずの森』なら、おれは直接の関わりがある人間だ。麻呂子ばっかりに責任が有る訳じゃ無いぞ」


「そうだった。じゃあ、さっきの感謝の言葉は取り消し」


「おいおい」


などと言い合いながら、三人は蘇我家の護衛兵と木こり達の元に向かった。


護衛兵の中で責任者らしき男は「東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)」と名乗った。

蘇我大臣から麻呂子王子達を補佐するように命じられて務古水門に戻ってきていたのだ。


彼らは一様にピリピリとしながら、二度にわたり迦楼夜叉が現れた場所へ案内してくれた。

彼らの同僚が殺されているのだから、その緊張は麻呂子にも分かる気がした。


彼らからの話で、迦楼夜叉が出現した場所が二度とも近いことと、宙から降りてきた馬が蹄を地に降ろした場所がほぼ同じであることが判明した。


「惣鬼の時も、そうだった」と茜が確信したように囁いたが、麻呂子は慌てて「しっ」と返す。


「王子御自身が、あの化け物と戦うのですか」


「そうだ、そのつもりだ」


麻呂子の言葉に東漢直駒を含む護衛兵達は驚きの声を上げ、畏れの目を麻呂子に向けた。


「どうした」


「いや、確かに王子は逞しい体つきをなさっていますが、王族がそのような危険を自ら冒しになるとは」


「王族としての責任だからではない。自らが招いた因縁なのだ。

生まれる前から決まっていたのかどうか、そんなことは分からない。それでも生きていく限り避けられぬ運命が付きまとう・・・・・・・」


麻呂子は硬く目を閉じたが、少しすると穏やかな表情を蘇我家の護衛兵や木こり達に向けた。


「私は自らの運命に立ち向かう決意でここまでやって来たのだ。自分で決着を付ける覚悟でここにいる。

あなた達はこのまま引き返しなさい。危険に付き合う必要はない。

迦楼夜叉は恐ろしい相手だ。只人数を揃えても被害が増えるばかり。手筈の分かった最小人数だけで戦う方が良いのだ。

私たちだけを残して、あなた達は帰りなさい」


優しげな表情と相反する強い言葉に、護衛兵や木こり達は「ほぅ」という感嘆の声を上げたが、それよりも「帰りなさい」という言葉に安堵した気持ちの方が強そうだった。


何人もの仲間を失っている彼らの方が何倍も切実に迦楼夜叉の恐ろしさを実感しているのだから仕方があるまい。


ただ、東漢直駒だけは「因縁ですか」と考え深げな様子で立ち去っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る