第11章 六甲の森 その1 迦楼夜叉(かるやしゃ)
木こり達は護衛の兵達が見守る中で森に散っていった。
この日の護衛の中には蘇我馬子が直々に指名して送り込んできた東漢直駒(あずまのあやのあたいこま)がいた。
普段から馬子に命じられて情報収集などに当たることが多い駒であったが、この日も「六甲の怪」の真相を見極めるために送り込まれていたのだった。
木こり達は手分けして二人か三人の組になっていたが、それぞれに三人から四人の兵が付くのである。
物々しいが、そうでもしなければ、奇っ怪な噂の立ってしまった仕事場に木こりを集めようもないのが実情だった。
「この木にするか」とある組の男が言った。
「いいな、これなら立派なものだ」と相棒が答える。
そこから作業が始まり、先ず木に登ると枝を落とし始める。
すると、一天にわかにかき曇り、先ほどまでの昼の明かりが嘘のように暗くなった。
「これはー」と他の組の者が叫んだ。
「早く降りろ」と同じ組の者達が声を掛け合う。
すると、彼らの上の方で明かりが乱舞し始める。
兵達が「こっちだぞ」「集まれ」と声を出し合う。
乱舞していた光が集まりだし、それが形を成すと、馬に乗った鬼武者の姿になった。
気の早い兵が矢を射かけ出すが、矢はその姿を素通りしてしまう。
「幻か?」と矢が通り抜けるのを目にした者が驚愕の声を上げる。
それを見た木こり達は「これは、やばいぞ!」とばかりに逃げ始めた。
矢が効かない相手にどう戦う?と東漢直駒が兵達への指示を出しかねて息を呑む中を、騎馬武者の方は宙を駆け巡りながら地面へと降りてくる。
蹄が地面に付いた瞬間、鬼武者が「蘇我の手の者か!」と雄叫びを上げ、蹄の音を高らかに鳴らしながら向かって来た。
報告に聞いていた刃渡り四尺を超える大剣が煌めく。
兵達は動いた訳でもないのに玉の汗をしたたらせながら、ブルッと身震いする。
何人かが反射的に再び矢を放つ。
大剣が翻られると、決死の覚悟で放たれた矢も砕け散って辺りに飛散していった。
剣を抜く者と後ろを見せて逃げ出す者など判断が分かれ出す。
もう一度、剣が翻ると、その剣の勢いに跳ね飛ばされる者と、逃げ遅れて首を飛ばされる者とに命運が分かれる。
だが、この段階では生き残った者の意見は一致する。
「逃げろ!」
その中には東漢直駒の姿もあった。
豪勇を以て鳴る駒でさえも自分の無力を悟り、生き残ること以外には考えられない。
唯一人、気を吐いたのか、或いは逃げ遅れただけか、その場に止まって矢を構えた者があった。
「ほぅ、蘇我の手の者にも気骨のある奴がいるか。だが、褒美はないぞ」
馬が猛然とその逃げ遅れた者に駆け込む。
兵は矢を放ったが、剣が一閃すると矢は軽々と払われ、もう一閃した時にはその兵の首が転がり落ちていた。
鬼は髪を振り乱しながら、遠くに逃げてゆく木こりや兵達の後ろ姿を見て高らかに笑った。
「馬子に伝え置け!貴様の思うとおりにはならんぞ。
どうしても木が欲しいのなら、自ら木を切りに参れ。そんな勇気があいつにあるなら、褒美にくれてやろう、とな!
馬子だけではないぞ。泊瀬部を始めとした蘇我の王子ども、覚悟しておけ!」
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生き残った兵の中には阿都の戦いに参陣した者が何人か居り、彼らは一様に言った。
「あのお顔は物部大連守屋様に間違いありません」
この話はあっと言う間に広まり、噂は尾鰭を付けて更に拡大した。
馬子はその真偽を無事に戻ってきた東漢直駒に確認し、物部守屋の恨みの深さに慄いた。
蘇我大臣馬子に限らず、泊瀬部大王や額田部王女までも恐ろしさに震え上がった。
「大臣よ、どうすれば良いでしょう。
私には僅かの舎人達しか豊浦宮を守る者がおりません。
まさか守屋の怨霊が鬼に姿を変えて戻ってくるなど予想もしていませんでした。どうしたらいいのでしょうか」
「額田部王女様、お気を確かに。
あなたが慌てるようでは、朝廷までも動揺することになりますぞ。そうなれば国中が立ちゆかぬことになりかねません。あなた様こそが、この国の重鎮、要石ですぞ。
鬼の話は山の向こうの事件に過ぎません。鬼如きに国中を荒らすことは出来ませぬぞ。
都にまでは鬼も手出し出来ぬと存じます。守屋の怨念如き、この馬子にお任せあれ。
額田部王女は安心してお過ごし置かれますように」
「山の向こう、と安心して良いのだろうか」
「そこはこの馬子の言葉を信じていただくほかありませんが、厩戸王子も同意見でございます」
「厩戸王子が、ですか・・・・・・・ならば信頼せねばなりませんね。
厩戸王子とも相談して対策を立てているのですね。それを聞いて私も安心しました」
いやいや、厩戸王子の名前が持つ威力は大したものだ、と馬子は舌を巻いた。
それだけ存在が大きいと言うことか、と改めて思い知る。
蘇我大臣には鬼の挑発ごときで六甲に自ら出向く気はいささかもない。
ただ、厩戸王子の言うとおりに任せっきりにしていいのかどうか、実は気がかりであった。
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兄・厩戸王子と蘇我大臣馬子から「迦楼夜叉討伐」を仰せつかったとは言え、麻呂子は決心が付かずにいた。
事が事だけに内々の依頼であることにも、頭では理解できたが、心情的には引っ掛かった。
またしても表沙汰には功績を認められることのない役割ではないか、と。
恩賞や賞賛が欲しいのではないが、同じ兄弟でこうも違うものなのかという釈然としない思いがどうしても消しきれないのだ。
「闇知らずの森」の因縁と言われてしまえば反論も出来ないが、この運命と兄との立場の違いは変えようがないのだろうか、と。
確かに葛城にあっては拓磨と並んで腕の立つのは自分に他ならないという自負はあったが、その程度では人にあらざる鬼の類いに通じるものでもない。
そのことは先年の惣鬼との戦いで思い知らされている。
「なのにまた自分なのか」と運命の理不尽さを呪わしくさえ感じるのだ。
「惣鬼は動きの重い鎧武者」と聞いて思いついた罠猟は確かに上手く行ったが、一歩間違えれば布都御魂剣で茜共々真っ二つにされていたことであろう。
だというのに「次も」と迦楼夜叉退治を押しつけられてしまうことには少なからぬ不満を感じたが、一方では「闇知らずの森」での因縁がある以上、自分と拓磨でやり遂げなくてはならない宿縁と達観したい気持ちもあった。
とは言え、未知の力を備える鬼が恐ろしいことは認めなければならなかった。
馬で駆け回る相手に罠猟は難しそうである。
しかも、その馬は宙を跳ね回ると言うし、鬼武者に向けて放たれた矢は相手をすり抜けてしまったという・・・・・・・こんな相手は人が戦う範疇を超えている。
ああでもないこうでもないと思案を続けていく程に、絶望的な気持ちになり、兄・厩戸王子の期待が重圧となる。
「なぜ『闇知らずの森』になんか行ってしまったのか」と毎度同じ結論に衝き当たってしまうのだ。
厩戸王子のように賞賛されたり、その功績を麗々しく讃えられたりすることもない自分だと言うのに、その自分に平然と難事を命じる兄を憎みたくなってしまうのだ。
ぐずぐずとしてはいられない、と頭では分かっているが、さりとてこのまま迦楼夜叉に立ち向かえば自分も首を落とされる結果が待つだけだ。
「どうしたらいい?」と考え込んでいると、茜が訪ねてきた。
「麻呂子様、思い悩んでいるようですね」
茜の意志の強そうな瞳に見据えられても、その花のような愛くるしい顔つきを目にするだけで、麻呂子は自分の心が和むのを感じた。
「まあね。どう考えてみても、自分が迦楼夜叉を倒せる姿が思い描けない。思い浮かぶのは天羽々斬剣で首を刎ねられる様ばかり。
いつになったら六甲へ向かうのかと厩戸王子も蘇我大臣もやきもきしているであろうが、無駄に死にたくはない。
だけどなぁ・・・・・このままでは尻に根が生えそうだ」
茜は麻呂子の愚痴を聞いて微笑む。
こんな弱音とも付かない心の内を麻呂子が明かすのは自分だけだと茜は知っていた。
「今日は良い報せを持ってきました」と茜は言いながら矢筒を麻呂子に差し出した。
「これは?」
「天羽々矢(あまのはばや)にございます」
「ハツクニシラスノミコト(=神武天皇のこと)が大和に入った頃に饒速日命(にぎはやひのみこと)が所持なさっていたという、あれか・・・・・・」
そう言いながら麻呂子は矢筒を手にしたが、中を検めぬままじっと考え込む。
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