第10章 泊瀬部大王 その3 二番目
蘇我大臣馬子は早速播磨の森での木の伐採を命じた。
六甲山の奥地に良い木があるというので、務古水門(むこのみなと=現代の武庫川河口にあった港。現代よりも河口は上流であり、西宮から宝塚近辺か)に材木を集めて、そこから船で難波に運び込もうと考えたのだ。
蘇我家に雇われた木こり達が六甲山に入っていくと、森の樹上を跳ね回る光が見えた。
「なんだ、ありゃあ?」
「こんなの、見たことないなぁ」
などと言っているうちに光りは馬に形を変え、その馬の上に髪を振り乱した鬼が姿を現す。
鬼は何かの獣の皮を纏い、裸馬と見える馬を巧みに操りながら宙を走り回り、徐々に地上に降りてくる。
馬の蹄が地上に着くや、足音もけたたましく、木こり達に迫り来る。
木こり達が背中を向けて逃げようとすると、鬼の手に刃渡り四尺は優にある大剣が握られ、真横に一閃。
あっと言う間もなく辺りに首が五・六個も転がった。
辛うじて難を逃れた木こり達の背後から鬼の声が木霊する。
「我は迦桜夜叉(かるやしゃ)、森の木を寺院建立のために倒すこと許さんぞ」
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現地の監督官は箝口令を敷き、報せは早馬で蘇我大臣馬子の元に届けられた。
馬子は報告の書状に目を通すと、どっかりと腰を落とし呆然の体で考え込んでしまった。
「箝口令を敷いたと言っても死人が出ているのだ。噂になるのは時間の問題か」と思い至り、隠し立てするのを諦めて家中から五十人ほどの兵を選び出し、木こりの護衛に当たるように命じた。
「これで当座は何とかなるだろうが、度々化け物が邪魔をするようだと、また問題になるな」と溜め息交じりに漏らした。
「丁未の乱」が起こる前に蘇我大臣は物部守屋の妹と別居していたが、乱が終わってからは石上贄子の娘・鎌姫大刀自(かまひめのおおとじ)一緒に暮らすようになっていた。
この鎌姫が只ならぬ様子の馬子に「どうなさいましたの」と尋ねた。
「お前が心配するようなことではないが、これを見てみよ。恐ろしい話じゃないか」
鎌姫は書状に目を通すと青くなった。
「そんなに怖がらなくとも、お前やわしが化け物に害をなされることはない。そこまで心配するな」
だが、青ざめた鎌姫は首を振った。
「馬子様、そうではないのです。
この迦楼夜叉という名前を私は以前から知っているのでございます」
「なに?どういうことだ」
鎌姫は「丁未の乱」の前は石上の地で父の石上贄子と供に暮らしていた。
当時の馬子は石上まで通っていたのだ。
その石上で鎌子は父親から麻呂子王子が舎人王女と供に石上神宮の神剣「布都御魂剣」を返しに来た話を聞かされていた。
それと一緒に「惣鬼、迦桜夜叉、土熊」という三人の鬼の名も耳にしていたのだ。
鎌姫は洗いざらい知っていることを馬子に伝えた。
話を聞くと大臣は自分が知らないところで事件が起こっていたらしいことに愕然としつつ、麻呂子王子が関わっているのならば、厩戸王子も知っているはずであることに思い当たった。
それだけでなく、守屋との戦の折に二上山を厩戸王子と秦河勝が見上げていたのも思い出す。
「なんだ、わしだけが蚊帳の外だったのか」と言いながら額田部王女も同じ立場であるかと気づく。
最高権力だなんだと畏れられても、実体はこんなものだ、と内心で毒づいた。
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それから幾日も経たないうちに麻呂子王子は厩戸王子に呼び出されて池辺双槻宮に向かった。
着いてみると、蘇我大臣馬子が既に待っており、これには少しばかり驚かされた。
「大臣様が御訪問中とは露知らず、失礼致しました」
麻呂子が挨拶すると、厩戸王子が「いや、今回の呼び出しは大臣殿の依頼なのです」と説明してきた。
「実は思わぬところから、惣鬼退治の件が大臣殿の耳に届いてしまいました」と言いながら厩戸王子は屈託なく笑った。
「隠し事など出来るものではありませんね」
「なんでも・・・・・・穴穂部王子の怨念だったそうですな」と蘇我馬子は言いながら居心地悪そうであった。
それはそうであろう、と麻呂子は思った。
為政者としてその様な世迷い言みたいな一件を真剣に取り上げたくはないだろう。
それに、穴穂部王子の殺害を命じたのは他ならぬ蘇我大臣自身なのだから、怨念の矛先が大臣であってもおかしくないところだ、と。
その大臣を安心させるつもりで麻呂子は答えた。
「怨念を力の源とした幽鬼の類いだったようです。この度は穴穂部王子の怨念に力を得たようですが、恐らくもう戻ることはないかと」
馬子はしかめっ面で麻呂子の言葉に頷くと口を開いた。
「ところが麻呂子王子、終わってないからこそ、こうしてご足労願った訳でして」
「は?」
「出たのですよ」と厩戸王子が口調だけは穏やかに言った。
「二人目の『迦楼夜叉』が六甲に出たのです。こうなると、残りの土熊まで順次出てくることになりそうですね」
隣の部屋で聞き耳を立てていた茜の心臓が、厩戸王子の言葉に飛び跳ねた。
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