第10章 泊瀬部大王 その2 大王の注文
泊瀬部大王は飛鳥に倉梯(くらはし)に倉梯柴垣宮(くらはしのしばがきのみや)を建て、そこで政務を執ったが、政務の内容が倉梯で決まっていないことは誰でも知っていた。
倉梯で朝議が開かれる前に、豊浦宮で額田部王女と蘇我大臣馬子に奏上されて吟味された結果が、倉梯で大王に追認されるだけなのだ。
屈辱を感じながらも大王は胸に大望を抱き、自分の心の内を理解してくれそうな者を探していた。
大王が目を付けたのは大伴糠手子(おおとものぬかてこ)であった。
大伴糠手子(おおとものぬかてこ)は、任那が併合された時の失政の責任者とされて失脚した大伴大連金村(おおとものおおむらじのかねむら)の三男である。
大友糠手子の弟である大伴嚙(おおとものくい)は「丁未の変」でも武勇を挙げ、名が知れるようになっていた。
それに対し、今の大伴家の長である大伴糠手子はあまり功を上げることなく燻るばかりで、群臣の中にあっては居心地の悪い思いをしていた。
ただ、大伴糠手子には、その美貌で評判の娘・小手子(おてこ)がいた。
そこで泊瀬部大王は大伴糠手子に、娘を入内させるように声をかけた。
大王からの直接のお声掛かりであるから、大伴糠手子は早速に娘を入内させた。
そうすると、翌年の三月にはこれを泊瀬部大王は妃としたのである。
大伴糠手子は喜びの余り浮かれはしゃぎ、泊瀬部大王にすっかり心服したのである。
そこで泊瀬部大王は岳父である大伴糠手子を私的に倉梯柴垣宮に招き寄せた。
「大王に宮の奥に招かれるとは、この大伴糠手子、天にも昇る心地にてございます」と平身低頭で挨拶をした。
「大伴糠手子殿、あなたは私には父も同然。そこまで恐縮することはない。
ただ、今のままでは小手子が王子を成しても、私の跡継ぎに出来ないというのが不憫でならない」
「私目の孫が大王に!」
予想もしなかった話題を大王から振られたことに大伴糠手子はすっかりのぼせ上がり、肝心の部分は頭に入っていなかった。
「これだから落ち目の豪族はなぁ」と内心では舌打ちをしながら泊瀬部大王は続ける。
「私としては小手子の父上に、大伴大連金村殿の失敗を挽回して欲しい。そうすれば大伴家は蘇我家とも対抗しうる名家に復帰も可能かと。
・・・・・・・そうでなければ小手子の子供を皇太子候補にすることも叶わない」
「ど、どうすれば宜しいので!」と大伴糠手子は勇んで聞いてくる。
「今はまだ秘密だが、わしには心に秘めたる計画がある・・・・・・・」
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蘇我大臣馬子は春になって寺院建立の勅許を得ると、早速活動を開始した。
その朝参の席で泊瀬部大王が何気なく口にしたように思えた言葉が馬子を動揺させた。
「御仏の教えを奉ずる寺社というが、神域の樹木を利用する訳にもいかないであろう。
大臣殿には大変な苦労を掛けるが、よろしく頼むぞ」
突然の注文付けであったから、その場では「はっ、心得ております」と返答したが、その意味を図りかねた。
寺院建立の件では厩戸王子の住まう池辺双槻宮に足繁く通っていたので、馬子はそんなやり取りのあったことを厩戸王子にも話した。
話を聞くと厩戸王子も困惑の表情を浮かべたが、それは泊瀬部大王の口にしたことの意味が分かってのことであった。
「大臣殿、その場で神域の材木を利用する許可を得るべきでしたね。
大王の意向に従うとなると、飛鳥・大和から熊野に至るまで、寺院のための木を切り出せないということになります。
まぁ、それが大王の狙いなのでしょうが」
「なぜ、そのようなことを大王が・・・・・・」
「これは至極簡単な理由ですよ。大臣殿に対する嫌がらせでしょう。
自分を頭から押さえ込もうとする親に対して、子供が反抗するようなものです。
大臣殿は子育ての経験を生かして、大きな心で対応しなくてはなりませんね。ご苦労なことでございます」
しれっと説明する厩戸王子の横顔を馬子は覗き見る。
冗談とも本音ともつかぬ厩戸王子の答えの真意を測りかねたのだ。
「そうなると、播磨から切り出さないといけないと言うことか。
子供の悪戯も大概にして欲しいね」
「そうそう、大臣殿、その意気ですよ」
「まったく、うちの毛人のほうが、よっぽど可愛げがあるっていうものです。
あんな奴じゃ躾が大変だ」
「そうなると、額田部王女がお母さんですね」
「厩戸王子、そういうことは彼女の前で言わないで下さいよ。
額田部王女のお耳にそんな話が届こうものなら『わたしはあんな子供を産むはずないではありませんか。冗談でもそのようなことを言うとは、どういうことですか』と柳眉を逆立てる様が目に浮かびます」
厩戸王子は声を上げて笑った。
「額田部王女はお美しいですが、恐いですからね」
「それにしても、おかげでますます費用がかさみます。
寺院の建物に関する知識を持つ者を渡来人の中から集めていますが、建築の仕方からして従来の工法とは大分違うようでして、そういう専門の人間がまだまだ必要です」
「それについては、――そう、秦河勝がいましたね。
彼は寺院の構造やその内装・備品についても知識を持つ技術者・職人を召し抱えているはずです。あの、物部との戦の際に存分の活躍を願っていましたから、大臣殿が申し出れば、待っていましたと喜び勇んで協力してくれましょう」
「おぉ、秦殿にはそのような集団が付いておりますか・・・・・・・失念しておりました。
それにしましても、厩戸王子は頼りがいがありますな。
うちの善徳などは王子よりも五歳も年上だというのに、何の相談も出来ない奴でして」
馬子の言葉に厩戸王子は寂しげな表情を浮かべた。
「大臣殿、善徳殿はあなたが思うよりも立派な人物ですよ。ただ、父親からの評価が低いのに苦しんでおられる。
博識で仏教に関しては深い造詣をお持ちですし、あの繊細さは大臣殿の子息とは思えぬところがあります。弱い者や傷ついた者に寄り添い、その傷や悩みを癒やす力をお持ちです。
ただ、確かに、・・・・・・・大臣殿の跡継ぎとして見れば、どうでしょう。若輩の私如きが口にするべきことではないのかも知れませんが、大臣殿は御子息を『自分の跡継ぎとしてどうか』という観点からしか評価されていないのが問題です。
人にはそれぞれに相応しい役割がございますから、一つの側面だけで決めつけてはいけません」
「いや、これは耳に痛いことを・・・・・・王子の助言、痛み入ります。
善徳のためにもよくよく考えさせてもらいます」
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