第10章 泊瀬部大王 その1 大王の胸の内

戦から帰ると、戦勝祝いもそこそこに蘇我大臣馬子は豊浦宮に出向き、そこで額田部王女と協議を重ねた。


戦功の一番は何と言っても迹見赤檮であったが、広姫の忘れ形見である押坂彦人王子の家中の者が華々しく褒賞を受けることは額田部王女が決して許しはしなかった。


「それでは格好が付きませんぞ」と蘇我馬子が諫めても、額田部王女は了承しない。

訳語田大王の正妃が広姫である間、額田部王女は第二王妃のままであった。

そのことが勝ち気な彼女の誇りを踏みにじったことは想像に難くない。

それでも群臣の前でそのような感情を露わにすることは額田部王女の権威を高める上では損になる。


「困ったもんだ」と愚痴りながら、馬子は押坂彦人王子の家中の者が物部守屋を唆し、阿都へ立て籠もる切っ掛けを作ったことを調べ出した。


「まぁ、降りかかる火の粉を避けるための方便だったんでしょうが、『謀叛との関わりに疑念を抱かせる』と言いがかりを付けるには丁度いい案件ですな」と額田部王女に報告した。


「それを理由に罰せられませんの」


「いや、その言いがかりが真実なら、参戦した迹見赤檮が奮戦したこととの整合性がありません。ちょっと筋道立てて考えれば、この理由がいちゃもんに過ぎないとは誰にだって分かるでしょう。これで罰するとなれば群臣どもの反発は必至です。

『こんな疑いがあるが、迹見赤檮の戦功により不問に処す』とでも言えば、寛大な処置と誰もが受け入れるでしょう」


蘇我馬子の説明に額田部王女は不満そうであった。


「こうした皆の納得する裁定を積み重ねていくことが額田部王女の権威を高めることにも成るのです。

もしも、額田部王女が押坂彦人王子を追い落としたいのであれば、目先の勝利にこだわってはいけません。あなた様の権威が高まるほど、最終的にはあなた様の了承なしに大王に即位することが出来る者などいなくなるのです。

そこのところを、よくよくご理解なさって下さいませ」


「よく分かりました。努めてそのように振る舞うように努力しましょう」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


八月になると、泊瀬部王子は額田部王女と蘇我大臣馬子を始めとする群臣の推挙により、大王に即位した。


論功行賞では群臣悉く再任となったが、一方の敗者側である物部守屋の子息・片野田や辰孤などは流罪となり、その土地財産は没収となった。


だがそれと対照的に、物部守屋の弟・石上贄子や物部氏の祭神を祀る石上神宮には特にお咎めがなかった。


橘豊日大王の治世期間に蘇我大臣馬子と石上贄子の娘との間に子を成していたために、蘇我大臣が参戦した物部氏に罪を限定したと噂された。


「大臣殿、あなたは一体幾つになったのです?」と額田部王女は石上贄子の娘との間に馬子が二人の子をなした件を耳にした折りに、当の馬子に尋ねた。


「それがしは三十七歳でございます」


「もうすぐ不惑ではないか」


「世間ではそう言いますが」


「子供は男ですか、女ですか」


「へぇ、上が男で毛人(えみし)、下は女で刀自古(とじこ)と申します」


「私に教えずにいるというのは水くさいではありませんか。表では物部の者と争っているのに、女に関しては物部の女が良いというのは屈折していませんか。それとも、それは大臣お得意の権謀術数の内かね?

それにしても、その年で三歳と二歳の男と女ですか・・・・・・・・・

まぁ、大臣殿には惣領の善徳がいるから心配は要りませんね」


「話に出たついでだから、洗いざらいお話ししてしまいましょう。

実はその善徳ですが、出家させようと考えておりまして・・・・・」


「なに?」


「はぁ、どこでどう間違ったものか、あいつは経典なんぞばかり勉強しておりまして、父の仕事には少しの興味も持たない。こんな風に言うと、よほどの秀才みたいですが、そこがぼんくら息子なものでして、全く学問としては進みません。

あいつは既に十九も過ぎましたのに、厩戸王子の講話なんぞでも感心して聞き入っているそうです。自分より五つも年下の王子の話をありがたく思う程度の学問に過ぎないのでは大成しそうにありません。

ならばと、無理矢理でもこの父の仕事に興味を持たせようと骨を折ってみましたが、ちっとも成功致しません。私も妻も諦めました。

此度の戦勝で大王から新たな寺院の建立を任されましたので、そこで寺司でもさせようかと思いつきまして、早い内に出家させて修業をさせておけば、寺院が完成する時分までに少しは格好になるだろうと考えている次第でございます」


さて、妻というのは善徳の母親のことか、毛人の母親のことか、と額田部王女は疑問に感じたが、敢えてそこは黙って頷いた。

それに厩戸王子の講話を感心できるというのは、それだけ学問において優秀という意味である。

そこのところも話題にはしなかった。


ただ、微笑んでこう返事をした。


「良い考えではありませんか。いざという時の跡目争いなど困ったものですから、今のうちに決めておいて悪いことはありませんね。

朝廷一の実力者が跡取り問題で揉めてしまうのは、国の行く末にも影響しかねませんからね。

大臣殿、あなたの考えに私は賛成しますよ」


「いやぁ、そいつはありがたい。

額田部王女の許しを得れば、もう決まったも同然。これで胸のつかえが取れました」


「あとは大王からも許しを得なくてはなりませんね」


「額田部王女が許したことを、あの大王に覆せるはずもありません。そんなことを、この馬子も他の群臣も許しはしないでしょう。

これからはそういう時代になるのです」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


冷静な目で時代を見れば蘇我大臣馬子の言うとおりであっただろうが、当の泊瀬部大王にはそんな自覚はなかった。


志帰嶋大王(欽明天皇)の最後の直系男子という自覚から、父の失った朝鮮半島南部の領地を取り戻し、任那を再興しなくてはならないという野望を心の奥に秘めていた。

「誰も試みてもいない父の遺言『任那日本府の再興』を自分こそが成し遂げよう」と。


志帰嶋大王が即位するまでは朝鮮半島南部に日本人の暮らす領域が存在していた。

そこを当時は任那と呼んだのである。

この日本人の入植領域を新羅が無断で併合したのが志帰嶋大王即位の翌年、西暦で言う五四〇年のことであった。


この任那の日本人入植地の回復を志帰嶋大王は亡くなるまで願い続け、子供達には「任那日本府の再興」を遺命として託した。

入植地は大王の無念のため存在が大きくなり、任那が任那日本府とまで麗々しく呼ばれるようになっていった。

だが、その後の訳語田大王と橘豊日大王の在位中、「任那復興」は具体的な計画が議題に上がることすらなかった。


二人の大王やその群臣達もその点では現実主義的であり、合理主義的でもあった。

海外の領地回復や維持は計画の段階で実現不可能と放棄されたのである。


泊瀬部大王は何の準備もなく「任那日本府の再興」を議題に挙げることで、大臣と額田部王女に潰されることを畏れた。

二人がはっきりと反対であると表明してしまえば、群臣から賛同者はいなくなり、計画を進めることは難しくなるであろう。


まずは従順な大王として群臣から信用を得なくてはならない。


新しい大王の胸の内はそんなところであった。

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