第9章 丁未の乱 決戦 その5 決着

「舎人如き、一気に粉砕するぞ」と物部辰孤は気勢を上げる。


だが、厩戸王子が陣頭に立つことで舎人達も士気は旺盛であった。


簡単には引き下がらず、激戦の様相を呈し出す。


左翼後方で始まった火花を散らす戦いに真っ先に気づいたのは、秦河勝であった。

彼は自分の部隊を転進させ、厩戸王子の助勢に向かう。


馬子も少し遅れて左翼後方の戦いに気づき、慌てて援護の兵を向かわせる。


「王子に被害を出してはならん。額田部王女に面目が立たぬぞ!」


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朴からその様子を眺めていた守屋は、朝廷軍が物部辰孤の戦う場所へ集まり出すのを見て臍を噛んでいた。


「全てが思い通りにはならぬものよ。だが――」と目を長男・物部片野田の部隊の方へ転じる。

こちらは順調に敵の右翼後方に部隊を進めつつあった。


眼下を見れば、押し寄せてくる度に捕鳥部万(ととりべのよろず)が未熟な敵兵を押し戻している。


「或いは、更に辰孤の部隊に敵を引き寄せれば、一層効果的に敵を押しつぶせつかも知れぬ」


守屋は拍子木を続けざまに打ち鳴らし、物部辰孤に攻撃の続行を命じた。


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続けざまに打ち鳴らされる拍子木に迹見赤檮が不審を感じた。


この時の彼は泊瀬部王子の護衛の補佐を命じられ、ただ大人しく持ち場にいるだけであった。


だが、左翼後方で始まった乱戦に周囲の兵が投入されだし、また攻撃正面である前線の攻勢は捗々(はかばか)しくなく、泊瀬部王子のいる幕舎の周囲の兵もまばらになってきていた。


戦場における嗅覚を持ち合わせた迹見赤檮は「この戦、負けるかも知れぬ」と危惧しだしていた。


もっとも、この戦の勝ち負けは彼の仕える押坂彦人王子(おしさかひこひとのおうじ)の運命には直接の関係がない。

場合によっては負け戦の方が――負け方によっては額田部王女と蘇我大臣馬子の面目が丸つぶれとなり、わざわざ物部氏に担がれるような危険を冒さずとも――、押坂彦人王子の出番が回ってくるかも知れないのだ。


冷徹な判断をしていた迹見赤檮であったが、左翼後方の乱戦だけでなく、右翼後方でも不穏な動きがあることに気がついた。

まだ、それには朝廷側の指揮官達は気がついていない。


その途端に彼は悟る。


「してやられたか!」と彼は愕然とする。

袋の中の鼠ではないか、と。


右翼後方から敵の総攻撃が始まれば、朝廷側は雪崩を打って壊走するであろう。

だが、逃げ場がなければ自分も殲滅されるだけだ。


戦の勝敗はどうでも良かったが、生き延びなくてはならない。

ただ、傍観していれば死が待っているだけであろう。


もう一度、拍子木が打ち鳴らされてくる方向に視線を走らせた。


燦々と日が照る中で、敵軍後方にそびえる朴がやけに大きく見えてくる。

もしや、と迹見赤檮は目を凝らした。


木の幹に立ち、拍子木を打ち鳴らす男らしき姿があった。


「あれを落とせば、号令が乱れ、総攻撃を遅らせることが出来よう」と迹見赤檮は決心した。


強弓を背負うと剣を抜き、戦場に向かって駆け出した。

敵からの矢が届く距離になると、数人の敵兵が向かってきたが、剣でこれを難なく打ち倒した。


彼はそこから左翼に抜け出して、朴の前方左側に位置を取った。

周囲に向かってくる敵兵の姿はなかった。


そこからなら、朴の中の人影がはっきりと見える。


だが、「物部大連守屋殿ではないか」と、迹見赤檮は驚愕することになる。

これを射落とすのは戦局に影響が大きすぎないか、と思ったのである。


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物部守屋は戦場を眺め、目論見が上手く進んでいることに満足していた。

辰孤は敵兵を集めながら奮闘している。

敵の中枢は前線の戦果が上がらないことにやきもきしつつ、辰孤によって拡大している戦闘に気を取られている。


片野田の部隊は約四百であるが、既に敵の後方に位置し、いつでも攻撃できる態勢にある。


物部守屋は太鼓を手に取った。

これで片が付く。

大勝利によって物部氏の名は歴史に刻み込まれることになるであろう。

輝かしい未来が目に見えるようであった。


それから、辰孤の奮戦に目をやろうとした時、右前方に立つ敵兵の姿が目に入った。


男は弓を構え、自分の方に狙いを定めている。

瞬間、男と目が合ったような気がした。


「全ては夢か」と守屋は呟いた。


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厩戸王子は乱戦の中にあって、剣を振るい、敵を刺し、斬り付け、死に物狂いであった。

時として身を呈して王子を守る者が何人もいた。


「許せ、その命、無駄にはしないぞ」と涙を堪えながら剣を振る。


秦河勝が王子の元に馳せ参じた。


「王子、無茶が過ぎますぞ」


「どっちが!」と厩戸王子は血飛沫で汚れた秦河勝を見て笑った。


「王子、死んではなりませんぞ。ここを生き残って、我らを導くのがあなた様の務め。そのためなら、我らは捨て石になる覚悟」


「違う!

今この瞬間、ようやく私は分かった!誰も命を粗末にしてはならぬのだ!

生き残って皆で新しい世を作っていくのだ。それこそが生きる者の勤めだ。

私のために死んではならぬぞ!」


厩戸王子と秦河勝の目が合った。


秦河勝は剣を構え、周囲に警戒の目を光らせながら豪快に笑いだした。


「良い話を聞きました。

あなたのような為政者の元で働きたくなりました。

ますます、あなたには生き延びてもらわなくてはならなくなりましたなぁ」


そんなやり取りとは裏腹に、秦河勝の手勢と厩戸王子は孤立しつつあった。

厩戸王子が引き連れてきた舎人達は多くが傷つき、或いは命を落としてしまっていた。

秦河勝の率いる手勢も物部辰孤の軍勢に押され、散り散りになっていた。


いつの間にか彼らは物部の兵に包囲されようとしていた。


戦いながら秦河勝が厩戸王子の近くに体を寄せた。


「申し訳ないが、王子の命令を果たすことは出来ないかも知れません。この者達が向こうの連中を足止めします。私があちらに回り込もうとする連中を打ち倒しますから、その隙に王子は泊瀬部王子の幕舎に走ってください。

決して振り返ってはなりませんぞ」


「駄目だ!

秦河勝、そんなことは許さんぞ」


「王子、私を困らせないでください」


「いいや、皆で助からなくては」と王子は叫びつつ、それが無理と分かっていた。

だが、このように忠義と勇気を兼ね供えた者を、こんな場所で、と思うと納得がいかない。


まさにその時、後方からどよめきとも付かぬ喚声が湧き起こった。


「物部守屋が討ち取られたぞ」


「敵の総大将を討ち果たしたぞ!」


「迹見赤檮が物部守屋を討ったぁ!」「物部守屋が迹見赤檮に討ち取られたぞ!」


朝廷側から上がる声が、どよめきから歓喜の叫びに変わるのに時間は掛からなかった。


何よりも、つい先ほどまで厩戸王子達を追い詰めようとしていた兵達が動きを止めている。

彼らの視線が追うのは、阿都の前面に陣取っていた味方主力の姿だった。

先ほどまで朝廷側が幾ら攻め寄せても、その攻撃を寄せ付けなかったというのに彼らは最早そこに留まっていなかった。


物部大連守屋の敗死の声に、物部軍の兵達は一斉に引き上げていく。

いや、戦場から逃げ出し始めたのだ。


その姿を見るや、厩戸王子を討ち取ろうとしていた兵達も次々と逃げ始めるではないか。


先ほどまであんなにも自分達を苦しめた敵兵が落ち延びていくのを厩戸王子はただ見送っていた。

勝ったと言うよりも、もう誰も死ななくて良いのだ、と安堵する気持ちである。


「助かりましたな」と言いながら秦河勝がしゃがみ込む。


「どうされた。怪我でもされましたか」と厩戸王子が心配げに問う。


「いや、気が抜けたら膝に力が入らなくなりました。

王子、無様な格好を今だけはお見逃しください」


「まさか、そんな些細なことで咎め立てたりしませんよ。それより、あなたの忠勇を私は決して忘れません」


空は抜けるように青い。

戦いが始まる時の雨模様が嘘のようだ。

気温はこれからもっと高くなるだろう。

そんな夏の一日だ。


厩戸王子は急に思い出して、二上山の方角を仰ぎ見た。


「麻呂子、無事だろうな」


既に惣鬼を退治した麻呂子達が葛城に帰ったことを厩戸王子は知らない・・・・・・

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