第9章 丁未の乱 決戦 その3 惣鬼との戦い

「今だ!」と惣鬼の剣を持った腕側――麻呂子からすれば惣鬼の左側――を走り抜けようとした。

すかさず惣鬼は自身の右を走り抜ける相手を追って、体の向きを変えると真っ向から剣を振り下ろしてきた。


避けきれぬ、とばかりに麻呂子は頭上で自分の剣を拝むように両手を使って構え、惣鬼の剣戟を跳ね返した。

そのまま真後ろにもんどり打つようにして距離を取ろうとしたが、姿勢を取り損ねて草むらを更に二度三度と後ろに転げてしまった。


慌てて立ち上がって構え直すが、惣鬼の方も足場を整えて麻呂子の方に向き直ったところだった。


麻呂子が見ると、自分の剣は無残にへし曲げられており、とても役に立ちそうにない。


だがその一方で、麻呂子のいる場所は昨日の作業を施した斜面を背側にしており、彼の希望通りの位置取りになっていた。


それに小競り合いの間に、いつしか空は晴れ、明るくなってきた。


「頃合いは良し、か」と自分に言い聞かせるように呟くと、惣鬼が次の攻撃を繰り出すよりも早く、渾身の力で自分の剣を惣鬼目がけて放り投げた。

惣鬼は難なくその剣を払い飛ばしたが、その時には麻呂子は例の斜面に向かって一目散で駆け出していた。


斜面に差し掛かっても麻呂子は駆け足を緩めることはなかった。

おかげで何度も頭から転がり落ちたが、それでも速度を抑える気はなかった。


すぐ後ろから地響きと供に惣鬼の足音が迫ってくるのが肌で感じ取れるのだ。

麻呂子は転げ落ちるようにしながらも視界の端に目印の杭を認める。

必死で杭の方向に体の向きを変え、そこへ猛然と飛び込むようにして降り立った。


ここで初めて後ろを振り返ると、斜面から惣鬼が麻呂子目がけて飛び降りて来るところであった。


麻呂子は跳躍するようにして、その場から離れる。


身構えてみせはするものの、丸腰である。


惣鬼が麻呂子を睨みながら、ニヤリとするのが見えた。


「もう、逃がしはしないぞ」と地の底から響くような声が麻呂子をあざ笑う・・・・・


麻呂子は一歩後ろに下がった。

惣鬼が剣を振り上げながら踏み出す――


次の瞬間、惣鬼は穴に落ちていた。

と言っても、穴は惣鬼の胸までぐらいの深さである。

惣鬼は地面に両腕を突いて体を持ち上げようとする。


その時、風の唸りが聞こえたと思うと、蔓を撚った縄で大樹に吊り下げられ隠されていた倒木の塊が惣鬼に向かっていく。


すぐに轟音が響き渡り、砕け散った木の欠片が辺りに飛び散る。

惣鬼の兜が転がっていくのも目に入った。


「やったか!」と倒木が飛んできた右手の方向の木の上から拓磨が叫ぶのが聞こえてきた。

だが、麻呂子が改めて惣鬼を見ると、顔の左半分が潰れ、片目しか開けられないまま凄まじい形相で麻呂子を睨め付けている。


「小癪な・・・・・・人の分際で、惣鬼に逆らうか」と怒りに満ちた声が聞こえてきたが、続いて「許さぬぞ!俺に従わぬことは許されぬ!」と言う激情の叫びに変わった。


「穴穂部王子の怨念か」と思うと、麻呂子は背筋に薄ら寒いものを感じる。

だが、惣鬼が、その怨念の高まりに衝き動かされてであれ、落とし穴から体を這いずるようにして抜け出そうとしている今、その感傷に浸る暇はない。


麻呂子は後ろを振り向く。


その先にある大木の幹から縄を垂らす茜が見える。


「麻呂子、急いで!」


麻呂子が駆け出すのと、惣鬼が穴から這い出て立ち上がるのが同時であった。


それを目にすると、麻呂子は疾風の如く茜の元に走り、その縄を手に取る。

スルスルと昇り始めるが、すぐに鎧をガチャガチャと鳴らしながら重量感のある振動が後ろから迫ってくる。


麻呂子が茜のいる幹に足を掛け、下を見ると惣鬼が木の根元にやって来たところだった。

そこから恨めしげな片目が麻呂子を見上げてくる。


麻呂子はそばの枝に予め掛けて置いた縄を手に取る。

それは斜面の反対側の木から吊された縄で、それにぶら下がって滑空すれば一気に惣鬼を置いてきぼりに出来るのだ。


「茜」と麻呂子が声をかける。


その声に茜が別の縄に鉈を振り下ろした。

そのまま茜は身を寄せて麻呂子に掴まる。


麻呂子が下を見る。

顔の半分が潰れた穴穂部王子の顔と目が合う。


その瞬間、頭上の葉陰から落ちてきた大石を惣鬼は認めるが、もはや為す術はない。


麻呂子は穴穂部の顔が潰されるのを見るが、同時に金属がひしゃげる轟音が鳴り渡った。

その残響で体が震える中、麻呂子は手の持った縄を元の枝に掛けた。

彼がいる大木の下には砕けてひしゃげた鎧の断片が散らばるばかりである。

動くものは何も見えなかった。


麻呂子が木から下りて確かめたが、確かに存在したはずの惣鬼を思わせるものは一切なかった。


麻呂子が合図すると茜も降りてきた。


「倒したの?」


「多分・・・・・」


拓磨も持ち場から降りてやって来た。


「勝ったな」と彼は満足そうだった。


その時、麻呂子は砕けた鎧の一部の下に光るものを見つけた。

それは取りだしてみると、紛うことなき「布都御魂剣」であった。


やっと麻呂子は確信した。


「どうやら倒せたらしい。

『布都御魂剣』を取り戻したぞ。石上神宮に届けて、経緯を報告できるな」


「でも、宝剣はもう一振りあるはずだよ」


麻呂子は茜に同意する。


「まだ終わっていないと言うことだ。次が迦桜夜叉か土熊かは知らないが」

そう言って小さく溜め息をつく。


「それに人と人の戦いも終わっていない」と、惣鬼が阿都を眺めていた高台の方を見た。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


その阿都では、正に最終決戦の火蓋が切られようとしていた。


午前中、抜けるような青空が嘘のように雲が沸き立ち始め、薄暗くなった。


「これぞ天佑じゃぞ。今こそ作戦行動を開始する時ぞ!」と物部守屋は長男・物部片野田(もののべのかたのだ)と次男・物部辰孤を呼び寄せた。

彼らにそれぞれ一部隊を預け、敵の左翼と右翼から後方に回り込み、一気に包囲殲滅しようというのが守屋の作戦だった。


この予想外の暗がりは作戦を敵に気づかせにくくすると守屋は踏んだのだ。


「良いか、わしはあの朴(ほおのき)に昇り敵情を見ながら合図を送る。

片野田の部隊にはこの太鼓の音で合図を送る。『更に左』と『前進』、『攻撃開始』と鳴らし方を使い分けるから覚えておけ。

辰孤も同様だが、音はこの拍子木じゃ。辰孤の部隊は『更に右』『前進』『攻撃開始』に成る訳じゃ。分かるな」


兄弟は威勢良く返事をした。


「ここで大勝利を収め、武麿が神剣を持ち帰れば、物部に付く王子が必ず現れる。

そうなれば、この河内に新たな王朝を立てることも可能となる。

心して掛かるのだぞ」


兄弟が立ち去ると、守屋は捕鳥部万(ととりべのよろず)を呼び寄せた。


物部家にあってその名を知らぬ者のない豪傑である。

体格も並外れて大きく、丈は六尺もあった。

彼の前に出たならば、その威容に圧倒されぬ者はいない、とまで噂されている。


そう、この捕鳥部万がいれば、そこが物部氏の主力軍なのは火を見るよりも明らか、自明の理であった。

だからこそ、守屋は捕鳥部万を餌に朝廷軍を引き寄せる腹づもりであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る