第9章 丁未の乱 決戦 その2 戦端

翌朝、薄明の内から朝廷軍は動き始めた。


主力軍と第二軍は一体となって阿都への道を進む。

阿都の居城の前面で先鋒部隊が散開し、原野を進んでいく。


迫り来る敵の様子を物部守屋は朴(えのき)の巨木に登って眺め降ろしていた。


「大を小が倒す戦の前例など幾らでもあるわい。

ここに一つ、その戦例を付け足すだけのこと。馬子め、泊瀬部王子め、・・・・・いや額田部王女め!目にものを見せてやるわい」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


麻呂子と茜、拓磨は夜明けと共に二上山を登り、雄山の山頂近くの高台から遠くない場所、そこにある木の陰にて時が来るのを待っていた。


日が昇り始めている。空を見れば、一点の雲もなく、また暑い一日になりそうだった。


「空振りってこともあるよな」と拓磨が空を見上げながら言うと「それはそれで仕方がない。私たちには惣鬼がどこに出るか予想できないのだから」と麻呂子が穏やかに答えた。


「そうなったら惣鬼を倒す機会を失うじゃない」と茜が不満げに言う。


「大和に害をなし、人々を恐れさせる存在ならば、誰が為政者であっても、いつか討伐しなければならなくなるだろう。

ただ、その時、私に出番があるかは分からない」


「出番がない方が良いに決まっている」と茜が憤然として言った。


「おい、そんな仮定の話をしなくても、ここであいつを倒してしまえば済む話さ」と、麻呂子が指し示す見晴らしの丘に、奇妙な影のようなものが何処からともなく浮かび上がるのが見える。


影は次第に濃さを増すと供に、空には急に雲が湧き出し、薄暗くなってきた。


こんなことが朝も早い時間から・・・・・?と不審に思いながら見つめていると、急に影は実体となり、鎧の直垂が胴を打つ音を響かせながら、震動と供に大地を踏みしめて出現した。


「こいつは・・・・・」と麻呂子が言葉を飲み込むと、拓磨が勝ち誇ったように振り返ってきた。

「俺の言った通りだろ」


何の事かと思ったが、即座に麻呂子と茜は思い出した。


惣鬼はその丈おおよそ八尺五寸と言ったところか。拓磨の予測にドンピシャリだった。


「確かに予想通りだが・・・・・・あのデカさではそれを喜べない」と麻呂子は答えた。


「打ち合わせ通り、各自持ち場につけよ」と麻呂子が言うと茜と拓磨が頷く。


拓磨が持ち場に向かって去ると、まだ残っていた茜が麻呂子の袖を掴む。


「麻呂子、必ず生きて戻ってよ」


「もとより、そのつもりさ。適わないとなれば尻尾を巻いて退散と言っただろ」


「分かっている。だけど、それでも、心配なの」


麻呂子は不意に茜を抱きすくめた。


「私を信じろ」


茜があっけにとられる内に、麻呂子は離れ、惣鬼の方へと歩みを始める。


麻呂子の後ろ姿に引き寄せられるように茜が二歩・三歩と麻呂子の後を追いかけたが、はっと我に帰り彼女もまた持ち場に向かう。


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麻呂子は身を伏せながら、じりじりと惣鬼に近づいていた。


その惣鬼は右腕に剣を持っていた。


確かに柄には輪冠が施され、惣鬼の右手の薬指と小指が輪の中を掴み、残りの三本の指が柄を握っている。

おおよそ三尺の長さの内反りの剣は、形からすれば正しく草刈りの鎌であった。


その剣が惣鬼の手の中にあって白く輝く。


先ほどまでの晴天が嘘のように空は暗くなり、剣の発する光で惣鬼の姿が浮かび上がるように見える。


惣鬼の視線の先にあるものが、物部氏の立て籠もる阿都の居城か、はたまたその周囲に展開する朝廷軍か、それを麻呂子が知る術はない。


麻呂子は伏せたままで惣鬼に近づき、その顔を横から見えるところまで躙り寄ろうとする。

矢で鎧のないところを狙いたかった。

そのためには顔が見える真横の位置取りがしたかったのだ。


惣鬼が立つ見晴らしの良い高台は、その背後から近づいていくと、左側にはなだらかな平地が続き、少し行ってから昇り斜面が山頂に向かい、森が生い茂る。

右手側はすぐに下りの斜面となり、膝まで伸びる草が茂る藪になる。

下り斜面から近づいても惣鬼の顔が見える場所と言うのは、惣鬼のすぐ隣になってしまう。

そこで麻呂子は斜面と反対側、今いる場所からは遠回りになるが惣鬼の左側から近づこうとした。


慎重に這うように躙るようにして進んでいき、少し時間は掛かったが、ようやく惣鬼の左横顔が見える位置まで辿り着いた。

鎧に覆われていないのは顔しかない。

そこに矢を射ち込んでやろうという腹づもりであった。

麻呂子は狙うべき顔を見る。


だが、その横顔を見て、麻呂子はハッとした。

かつて知ったる穴穂部王子の顔だったからである。

しかも、その顔は禍々しく怒りで歪んでおり、麻呂子は思わずゾッとした。


麻呂子の脳裏に石上の斎宮の「鬼達は怒りや恐怖、憎しみに引き寄せられる」という言葉が思い浮かんだ。


その次の瞬間、惣鬼は麻呂子の方に顔を向けた。

怒りに満ちた目がつり上がり、恐れの感情を発した源を探す。


麻呂子はすぐに立ち上がり弓を引き絞った。

躊躇している暇はなかった。


弓から放たれた矢は次々と惣鬼に向かって直進したが、その鎧に悉く跳ね返された。


その間も惣鬼は恐ろしい形相で麻呂子を睨みつけている。


矢が尽きたところで、その口が開いた。


「俺の邪魔立てしようというのは――誰だぁ!」


叫びの最後の方は地の底から響く木霊のように鳴り響いた。

麻呂子は恐れを抑えて弓を放り投げる。

一矢ぐらいは当てたかったが仕方がない。


続いて麻呂子は剣を鞘から払った。


麻呂子の立つ位置は、誘い込みたい斜面から惣鬼を挟んで反対側になる。


惣鬼の方は地面を揺らすような重い足音を鈍く響かせながらこちらに歩んでくる。

素早くはない、と麻呂子は感じたが、惣鬼の体が大きいせいで一歩が長い。

その歩幅のせいで思う感覚よりも早い内に近づいてしまう。


「上手くないなぁ」と麻呂子が思うより先に、「布都御魂剣」が唸りを上げて左横から向かってくる。

麻呂子は間一髪で後ろっ飛びに避けた。

一面の草が刈られて舞い散るのが見えた。


何としても惣鬼の向こう側に行かなくてはならない。


惣鬼は草むらを薙ぎ払うように右から左、左から右と、布都御魂剣を振ってくる。

これを避けようと後ろに飛び下がってしまうが、これでは惣鬼の背後に回り込めないだけでなく、いつか自分の背後にある森に追い詰められてしまう。


「いや、森の木の間に逃げ込んだ方が、あの剣を避けるには都合良いかも」という考えが麻呂子の脳裏を過る。


その時、麻呂子の左から右へ振られてきた剣が草むらの中の何かに引っ掛かり、惣鬼は一歩前に踏み込んで、体をひねるようにして力任せに薙ぎ払った。

剣の切っ先を避けながら、それまでより大きく惣鬼の体が――麻呂子から見ると右に――ひねられるのが見て取れた。

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