第8章 丁未の乱 激戦 その3 痕跡
大伴嚙の説明を聞いた馬子は納得のいかない仏頂面のままで王子達の陣取るところまでやって来た。
そこで厩戸王子の姿を目にすると、砂漠で水を得た魚のように生き返った心地になる。
厩戸王子の方も、そんな蘇我大臣に気がついた。
「どうしたのですか、最高指揮官のあなたが先ほどまでのような険しい顔で歩き回っていては全軍の士気に関わりましょう」
「誠に持って、厩戸王子の仰せの通りにございます」
あまりに素直な大臣馬子の返答に厩戸王子は面食らった。
「どうされました、大臣殿。よほど腹に据えかねたことでもありましたか」
「王子、お話ししたいことがございまして」
「いいですとも。大臣殿のお悩みを聞かせて頂きましょうか」
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厩戸王子の幕で二人きりになると馬子は話し始めた。
「私は戦に関しては素人で、私よりかずっと経験のある連中の言うことを聞くことにしている。
ちょっとした判断の間違いが、勝ち戦だったものを敗北に変えちまうこともある。しかも、それは人の生き死にに直結することだ。素人が生半可なことを言うべきじゃないでしょう。
どうしたって大伴や阿倍の連中では、私が何か言えばそれに考えが引きずられて行ってしまうでしょう?」
厩戸王子は頷きながら、戦の始めっから馬子が作戦に口出ししていたのを思い出す。
ただ、戦の推移の中で馬子自身が学び取って、今の心境に至ったと言うこともあるのだろう、と推し測る。
「それは最高指揮官として、立派な心がけですね」
「それで先ほども黙って大伴嚙の言うことを聞いていただが、あいつは本当の意味では駆け引きが分かっていない。幾ら戦術だの兵法だのと言ったって、戦う兵士は生身の人間だ。計算通りに動いてくれる訳じゃない。
ましてや、相手は大伴や阿倍よりも戦慣れしている連中だ。いくら下調べだなんて言っても、向こうの手の内なんて読めるのかい?
私は守屋の方が何枚も上手なんじゃないかと疑っている。
戦術や兵法だけじゃない、駆け引きや人心の掌握、相手の心理を読むことにおいてもうちの指揮官よりも上手だ。
ずっと宿敵として争ってきた私だから分かるんだ。
作戦で負けて、駆け引きで負けて、人の扱いでも劣るようじゃ勝ち目はない」
「なるほど・・・・・」
と答えながら厩戸王子は馬子の話に意外の念を抱いていた。
あれほど激しく争ってきた同士だ、どうしたって相手を悪し様に言って貶めようとするのが人の習性。
そうした過程で相手を見誤ってしまうものなのだ。
それを馬子は敵愾心に曇らされることなく、正しく相手を評価して戦おうとしている。
そうした姿勢や修正能力に厩戸王子は驚いたのだ。
だからこそ、蘇我大臣が幾代もの大王から重用されるのだ、と今更ながら思う。
「大臣殿、あなたのお考えはいちいちご尤も。
ですが、そう心配ばかりされても勝てるものではございませんぞ。
ここは一つ、私にも考えがございます。大臣殿も是非ご協力を願いたいところです」
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同じ頃、二上山の雄山に麻呂子はいた。
木々が生い茂る藪を縫うように進むと、雄山の頂から一段低い開けたところに出た。
そこは樹木がなくなり草地になっている。
麻呂子は振り返って茜の方を見る。
「大丈夫か?こんな道は拓磨だって息が上がっているというのに」
「私はそんなに柔じゃないよ」
拓磨は両手を膝に当てて肩で息をしていた。
「面目ない」と喘ぐようにして拓磨が吐き出すように言う。
そんな拓磨を放ったまま、茜が麻呂子の横に並ぶ。
「あ、餌香川の河原が見えるわ。
それに志紀に在陣する朝廷軍も見える。阿都も場所を教えてくれれば見つけられそう」
手で指し示しながらはしゃぐ茜を知らず知らずのうちに麻呂子は見つめていた。
それに急に気づいた茜が頬を染めながら「麻呂子様、遊びに来たのじゃないですから、早く指示して下さいよ」と勢い込んで言い放つ。
「ああ、そうだった」と麻呂子はなぜかドギマギしながら答えた。
つい、拓磨の存在が目に入らなくなってしまう自分に恥入る。
亡き父に「茜を頼むぞ」と言われても、許嫁という存在が出来ただけのように感じていた。
それが、だんだんと茜のことが気になって仕方がないのだ。
それだけに一緒の時は言葉遣いや態度など馴れ馴れしくならないように気を使っているつもりなのに。
茜の方だって最初に会った時と同じように、年上の女性として指導的な態度のままでいるのではないか。
父が決めたことであるせいで、相手の気持ちが分からない。
お互いに状況に応じた態度で接しているだけで、その距離感はずっと変わらない。
いや、と麻呂子は思い出す。
最初に池辺宮で顔を合わせた時、小姉君の子供達の密談を盗み聞きした時に添え合った手。
あの時に麻呂子は恋に落ちていたのだ・・・・・・・
麻呂子は頭にかっと血が上ったせいか、立ちくらみのようなものを覚えた。
思わず膝を付くと妙なものが目に入った。
「おい」と麻呂子は声を上げた。
「どうしたの」と茜が麻呂子の指し示す地面を見る。
続いて麻呂子が後ろに手を振り「こっちに来い」と拓磨にも合図する。
彼が見入っているのは巨大な足跡だった。
「こりゃ、戦草鞋(いくさぞうり)だな」と拓磨が呟く。
彼はそのまま足跡に手を添えて大きさを測る。
「大体、十七文。大雑把に言って身の丈は八尺五寸だな」
麻呂子が当時としては大きい五尺七寸、拓磨が五尺五寸。
茜も女性としては大きな五尺三寸あった。
三人とも今で言うなら一六〇~一七〇センチの範囲である。
だが、この足跡の主は二五〇センチを越えると拓磨は言っているのだ。
「例の推計値か」と麻呂子は言った。
確かに麻呂子の足は十一文半、拓磨は十一文である。
「私はそれを信用してはいないけど」と麻呂子は疑わしげに言う。
「どういうこと?」
「茜様、俺が見つけた法則らしきものなんだけど、足の文数を半分にして、文を尺に置き換えると、大体そいつの丈になる」
「何、それ?」
「茜様の足の大きさは?」
「うー、確か十文・・・・・・」
「ま、それを越えると女は大足と言われるから、無理にでも十文に収めるものさ」と思わず麻呂子が口走った。
「童に女性の何が分かっているって言うのさ。子供のくせに生意気言うと許さないからね」と、半ば本気のように茜が怒鳴ったが、すぐに弁解めいた口調が続いた。
「それはともかく、その推計は信用できそうだわ」
信用するとなると、彼らが相手するのはその巨大な惣鬼と言うことになる・・・・・
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