第8章 丁未の乱 激戦 その2 二上山の怪人
雨が一層強くなり、戦況は膠着する。
兵も生身の人間である。
強い風雨の中で進めなくなれば、その場に止まり続けるのも困難となる。
苦しい時は敵もまた同様に苦しい。
守る側の物部辰孤にしても全軍が崩壊するのではないかという危機を感じ始めていた。
「このままでは全ての陣地を打ち破られ、降伏の恥辱を味合わされるかも知れぬぞ」と、急ぎ増援を要請する旨の伝令を阿都に送った。
悪天候で朝廷側の動きが鈍ったのが幸いし、まだ持ちこたえられているが、全面崩壊は時間の問題にしか感じられなかった。
ここを突破されれば阿都は指呼の間。
物部氏の運命は風前の灯火となろう。
物部辰孤は阿都からの増援が到着するまで何とか戦線を支えようと号令を掛け、兵達の間を這いずり回って士気を高め続ける。
最前線の陣地での指揮を助け、攻め手を撃退すると、ようやく嵐の中を自分の幕に戻る。
そこには阿都からの使者が待っていた。
その姿を認めると、物部辰孤は冷え切って血色を失いかけていた顔色を僅かに取り戻す。
「もう増援は到着するのか?」
「いえ、大連様からの命令をお伝えします」
その内容を聞いて物部辰孤は青ざめていた顔色を更に一層暗いものとした。
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同じ戦場の反対側でも、戦況の悪さに指揮官達は青ざめていた。
そんな指揮官の一人とは言え、実質上の最高指揮官である蘇我大臣馬子は、名目上の最高指揮官である泊瀬部王子の幕舎にあった。
「ここまで攻め込んでおいて残念ですが、一旦引き上げるしかなさそうですな」と馬子が悔しそうに泊瀬部王子に報告する。
泊瀬部王子は恨めしそうに暗い空を見上げる。
その時である。
「敵が退却を始めました」と伝令が来た。
「何をぅ!」と馬子が吼えて、急いで前線に駆けつける。
「何があった」と馬子は問うが誰も答えない。
だが確かに、攻めあぐねていたはずの陣地から敵兵が引き上げ始めているではないか。
「では、勝ったのか?」
「どうでしょう」と秦河勝が渋い声を出す。
「退却する敵を、我らは追撃する余力もない。敵は人的な損害を最小限に留めたまま阿都に戻っていくのです。
阿都には温存された無傷の主力があり、ここで逃した兵と併せた敵を我らは攻めねばならない。
一方の我が軍は損害を出し、疲労は貯まり、日を経るほどに士気も落ちていくことでしょう。
これを楽観するような指揮官は困りものですぞ」
「そんなことぐらい分かっておるわい」と馬子は返事をするとすごすごと幕舎に戻っていった。
「それにしても」と秦河勝は厩戸王子に言うともなく呟く。
「あれこそが困りものですな」
「確かに」と厩戸王子は二上山の方角を仰ぎ見ながら頷いた。
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「三度の戦いで三度とも物部側を打ち破れなかった、ということか」
麻呂子の言葉に拓磨が反論する。
「麻呂子、違う。
餌香の河原での戦いでは敵を引き上げさせたし、今日の戦いだって遂に敵に陣地を引き払わせた。この二回の戦いでは朝廷側が目的を達成したということじゃないか。
物部側は善戦しているが、追い詰められているじゃないか」
「さて、どうだろう。
物部氏は戦を生業とする氏族。つまりは百戦錬磨の戦巧者。
全ては物部大連守屋の雄大な作戦計画通りかも知れない。そういう大きな絵を描ける方らしいぞ。
力押ししか知らない拓磨とは違う」
「何を、言ったな」
「いやいや、私みたいな悲観的なことを言う者は戦場では嫌われる。拓磨みたいに勇ましいことを言う方が人望に篤いものさ」
「何だ、それは誉めているのか?」
「そうさ、誉めているのさ」
「怪しいな・・・・・・」
「そんなことよりも、問題は厩戸王子からの伝言だ」
「厩戸が何か言ってきたの?」とは、一緒の部屋にいた茜の言葉だった。
「茜は私よりも厩戸王子の言葉の方に信を置いているみたいだな」
「そんなことないよ。
でも、聡明で大臣殿や炊屋妃からも一目置かれているのは確かだから、厩戸王子の言うことは聞いておいて損はないはず」
ふむ、というように麻呂子は一呼吸置いた。
「厩戸王子が言うには、二上山の怪人が問題なのだそうだ」
「怪人って何さ」と、さすがの茜も訝しむように表情をゆがめた。
「昨日と今日に志紀の辺りでは強い雨が降ったらしい」
えっと茜と拓磨が顔を見合わせる。
葛城は夏の暑さで、日中は動くのも大儀なありさまなのだ。
雨など少しもその降る気配が見えない。
「雨の中から二上山を見ると、雄山の山頂近くで人影が見えると言ってきている」
「それで『二上山の怪人』かい?」
「志紀から見て、人影と認識できるという・・・・・・・どれだけ大きいと思う?」
麻呂子が顔を上げると茜も拓磨も困惑の表情を隠せないでいる。
その二人の顔を見ながら麻呂子ははっきりとした口調で告げる。
「明日は二上山に行ってみる」
決然とした麻呂子の調子に、茜は口にしてはいけない言葉のようにその名を囁く。
「惣鬼だと思うのね」
「そうだ」
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翌日、七月十七日、朝廷側は阿都の手前から進まずに、空になった物部辰孤が築いた陣地にいた。
ここから阿都への行軍路に偵察を出しながら、休息を取っていた。
餌香川の河原ほどではなかったが、死傷者が多く出ており連戦するには兵の士気が問題だったのだ。
何よりも王子達に音を上げられれば、兵達の間に厭戦気分が蔓延しかねない。
「目指すは敵の本拠地ですが、負ければ後がないのは物部守屋も十分に承知しています。
これまで温存されていた敵の主力がどんな戦い方をしようと企んでいるのか、十分に下調べが必要でしょう」
蘇我大臣馬子は不満そうに大伴嚙の説明を聞いていた。
馬子にしても今の状況ですぐに戦端を開く訳にいかないのは分かっていた。
ただ、時間を掛けて調べたからと言って、守屋の意図を読み取り、対応策を練ることが出来るのかを怪しんでいたのだ。
それが出来ない以上は力押しに押していく他ないのが戦というものではないのか。
慎重になればなるほど、我が軍が物部を恐れていると兵達に勘ぐられることになりかねないではないか。
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