第8章 丁未の乱 激戦 その1 進撃
翌十六日、大臣率いる主力軍が行軍を開始し、昼前には志紀の第二軍と合流した。
「なんだ、まだ阿都までの道が確保された訳じゃないのか」と蘇我大臣馬子は溜め息を漏らした。
「本拠地に近ければ、それだけ抵抗が強いという訳で、難渋しております」と大伴嚙が頭を下げた。
「それはそうだろうな。
で、敵が阿都への途中に築いた陣地はそんなに厄介なのか」
「枯れ木や石、土塊が積まれた柵が何ヵ所にも築かれて、兵士が待ち構えています。攻め寄せれば弓矢で狙い撃ちにされましょう」
「火矢でも射かけて焼き払ってしまいたいところだが、こう雨が続いていてはまともに燃えないだろうな」と馬子がもう一つ溜め息をつく。
「かと言って、手をこまねいているだけでは兵糧も尽き、引き返さざるを得なくなる。そうなれば守屋の狙い通りだ。造反する王子も出てこよう」
渋い顔でそう漏らすと馬子はそばに控える秦河勝に気がついた。
「秦、お主ならどうする」
「数にものを言わせて攻め立てるほかないでしょう。攻めかかれば案外にもろいかも知れません」
秦河勝の答えに蘇我大臣は考え込むように言った。
「案ずるより産むが易し、か」
それから首を振った。
「駄目だ、駄目だ!そんな作戦は採用できない。
攻め手も人間だ。被害を度外視して攻撃し続けるなんてことは出来ないからな」
だが、馬子は決然とした顔で「ここで待機しているように」と言って、首を振り振り自軍の後方陣営に歩いて行った。
蘇我大臣馬子が向かった先は王子達がいる最後方の部隊が陣を張る場所であった。
彼は泊瀬部王子の幕舎の前で小さく溜め息をつくと、意を決したように中に入った。
「ごめん」
中には泊瀬部王子が鎧を脱いだままゆったりとした様子で床几に腰を掛け、舎人に団扇で風を送らせていた。
「おお、大臣殿か。先ほど軍が停止してから時間が経つようだが戦況はどうだ?」
「大苦戦でございまして」
「そうか。大変なところを報告ご苦労であった。皆にも労いの言葉を伝えてやってくれ」
「王子!」と馬子は声を荒げた。
「多くの者達が王子を即位させるために戦っているところをそのように悠長に構えているとは何ごとですか!
兵士達はあなたのために命を捧げて戦っているのですぞ!それを『ごくろう』の一言で片付けようって言うんですか?」
馬子の剣幕に驚き慌てて、泊瀬部王子は立ち上がった。
「いや、そんな積もりではない!
いや、大王としての振る舞いを身に付けなくてはならぬかと、先ほどのように言ってみただけなのだ」
「そんなものは大王になってから身に付ければ十分でしょう。
それよりも今はあなたのために戦う兵達にその姿を見せ、声をかけ、奮い立たせてやらねば。彼らを勇気づけて力づけてやらなければ、やっと回ってきたと思った大王位は永遠に手に入りませんぞ」
「分かった。それで、どうしたら良い?」
「鎧を身に纏い、戦場としての気構えを忘れないようにして下さい。
前線にその姿を見せ、これから攻撃に向かおうという兵に声をかけてやって下さい。
次期大王からの命令とあらば、兵士達の士気も全然違うものとなりましょう。喜び勇んで死地に向かい、阿都への道を切り開いてくれることでしょう」
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泊瀬部王子が準備万端で前線に向かうと、そこには既に厩戸王子と竹田王子も打ち揃っていた。
両王子の姿は泊瀬部王子には予想外だったので、彼は内心では大いに焦った。
幕舎でうかうかとしていては、戦の良いところを他の王子にかっさらわれてしまうのではないかと心配になったのだ。
それも皆、馬子の計算であった。不安げな王子の様子に「これで十分に働いてくれるだろう」と内心で快哉の声を上げていた。
「で、どのように声をかけたら良いか?」
「名乗りを上げ、攻め込むように奮起させるのです」
「合い分かった」と言いながら、何度も咳払いをする。
それから前へ進み出た。
「我こそは志帰嶋大王の息子、泊瀬部王子である。
大王の名において馳せ参じてくれた兵達に感謝の言葉をここで伝えよう。だが、まだ目の前には障害が立ちはだかっている。ここまでの苦難は大きいものであったが、目的はまだ道半ばである。
物部守屋は大王家に仇なす朝敵である。大王家に背き、大和に混乱をもたらし、その野心を結実させようと企んでいる。ここで逆臣の野望を打ち砕かなければ、更に多くの民の命が犠牲になるであろう。
あなた達の苦難の声に悲しみを感じているが、朝敵によってこれから産み出される悲嘆の声をそれ以上に恐れている。そんな声をこの先に生み出してはならない!
どうか、力を貸してくれ。抵抗を諦めぬ物部を打ち倒すのだ!」
泊瀬部王子が剣を掲げると、一斉に鬨の声が湧き起こった。
蘇我大臣は目を見張った。
「やっこさん、どこにそんな技を隠し持っていたんだい。
こいつは上手すぎるぜ」
前線の兵の士気が見違えるように上がり、勇気がみなぎるのが肌で感じられる。
自分にはない凄まじい力に馬子は舌を巻いていた。
「大王家の力か、それとも泊瀬部王子の資質か。
侮っていると痛い目に遭うかも知れないな」と初めて泊瀬部王子に対する警戒心が生まれた。
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士気の上がった兵を前にして大伴嚙は号令を掛けた。
「攻めかけよ」
兵達は意気軒昂に陣地に向かっていく。仲間が倒れても、それを乗り越え、突き進む。
次々と構築された陣地に味方が侵入し、敵兵を倒していく。
まさに数にものを言わせた力押しである。
八つ時(おおよそ午後二時)も過ぎた頃には陣地の半分以上が朝廷軍に占拠され、猶も攻撃が続いていた。
物部辰孤にも撤退の考えが頭を掠め出した。
丁度その時、一天俄に雲が湧き出すと、瞬く間に空が陰りだし、昼間であることが嘘のように暗くなった。
と、思う間もなく雨が降り始める。
昨日の顔を前にも向けられないような異常な雨とは違ったが、それでも強い雨であっという間に辺りはぬかるみとなってしまった。
そうなると、攻める側の足も重くなり出し、攻撃が鈍り始める。
「何だ、何だ、これからって言う時に」と馬子が愚痴る。
先ほどまでは次々と攻め落とされていた陣地であったが、雨が強くなり出すほどに敵が攻撃を押し返し始めるのが窺える。
目に見えて戦闘は停滞し始めた。
「おいおい、大王が陣頭で号令掛けたのに、撃退されちゃあ洒落にならんぞ。本当の負け戦になっちまう」という馬子の弱気が聞こえたものか、前にいた厩戸王子と秦河勝が後ろを振り返る。
「何か、変なこと言ったか?」
「いいえ、気になったもので」という厩戸王子の返事に大臣は顔色を変えて後ろを振り返る。
彼らの視線の先には二上山があった。
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