第7章 丁未の乱 一進一退 その3 別働隊の戦い
「第二軍までの距離は一里もないのだろう。何とかなりそうなもんだよなぁ」と蘇我大臣馬子は厩戸王子の隣で悔しそうに呻いた。
と、そこで厩戸王子と目が合うと慌てて取り繕うように付け加えた。
「いえいえ、王子達を御守りするのは何ものにも勝る尊い役目です。それは十分承知しているのですが、戦には相手があるものですから、つい失礼な愚痴を・・・・・
残念ながら尊さだけでは勝利は覚束ない。それが厳しい現実でしてね」
「大臣殿、現実はよく存じておりますよ。
戦が厳しくなればなるほど、我らは軍隊のお荷物になるのです」
「いや、そこまで言うつもりはありません。
王子達が参陣して下さっているからこそ、厳しい戦いにも兵士達は音を上げずに耐えられているのです。
もっと自信を持って、我らを鼓舞するくらいに堂々と振る舞って下さいまし。
王子達こそが我ら朝廷軍の誇りなのです」
「大臣殿、お気遣い感謝します。
我らの役目についてもよく理解できました」
「気遣いなんかじゃありませんぜ。
厩戸王子、わたしはあなた様には本音で話しているつもりです。そこのところはよぉーく覚えといて下さいよ」
「了解しましたよ、大臣殿」
そう言うと、急に厩戸王子は後ろを振り返った。
そして雨に打たれるのも構わず、空を仰ぎ見る。
「どうされました」
「大臣殿は気になりませんか?」
「はて?」と蘇我大臣は厩戸王子が見つめていると思しき方向に目を凝らした。
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同日、別働隊の第二軍は物部辰孤が構築した陣地攻撃を企図していた。
陣地の前で隊列を組みながら攻撃地点を探っていたが、昼からの雨のため早々に断念した。
それに対して物部辰孤は少数の軍を動かして、別働隊の退路に伏兵を置いていた。
そうしておいて、雨雲で生じた闇に乗じて陣地を抜け出した軍を信貴山の側の茂みに潜ませた。
引き上げる軍の背後から襲いかかった上で、逃げ出す敵の退路を伏兵で断ち、殲滅しようと考えていたのだ。
昼とは思えない暗闇のおかげで朝廷側の別働隊は、そんな企みに全く気づいていなかった。
「急に暗くなったな」と別働隊指揮官の一人、大伴嚙(おおとものくい)が困惑しながら側に居た者に言った。
その途端、遙か上空で――それも真上から――遠雷のような音が伝わってくるのを感じた。
次の瞬間、轟音が響き渡り、辺りが真っ白に輝いた。
兵という兵の体が芯から揺れ、音と光で感覚の全てが消失したかのような衝撃であった。
すぐそばに雷が落ちたのだ。
兵達は隊列を乱し、散り散りになって逃げ出した。
「天佑である!今こそ我が軍の勝機であるぞ!全軍でかかれ!」と物部辰孤は驚喜の中で雄叫びを上げた。
朝廷側の別働隊からすれば完全な奇襲であった。
戦闘は中止になるという先触れが出ていたので誰もが緊張から解放されていた。
そこに落雷で動転しているところへの敵襲であった。
「逃げるな!踏み止まれ!」と叫んでみても、敵に顔を向けようとするだけで凄まじい風雨が目に飛び込んで来る。
あまりの激しさに敵に立ち向かうこともままならないのだ。
「この雨と風は異常だ」と大伴嚙(おおともくい)は不気味に感じる。
しばらく抗戦を試みたが、無駄な足掻きに過ぎないことがすぐに別働隊の指揮官達にも分かった。
敵の追撃は恐ろしかったが、抵抗できない場所に踏み止まっても良い事はない。
「撤収だ!引き上げろ!」と叫び、後退を命じる。
大伴嚙が先導して軍を撤退させる。
殿(しんがり)は秦河勝(はたのかわかつ)とその手勢に命じた。
天候の不利の中を、秦河勝は困難な任務をよく全うした。
追いすがる物部側も予想外の抵抗のため追撃の軍を進めあぐねた。
物部辰孤は考える。
無理をしなくても伏兵が人員的にも心理的にも壊滅的な被害を相手に与えるはずである。
強引に攻めて我が方の被害をいたずらに増やすよりも、伏兵が敵に損害を与えた機を見て全力を集中すべきであろう、と。
物部辰孤は作戦の成果を楽観していたのだ。
その予想通りに、伏兵が行く手を立ちはだかった時、勇猛を以て鳴る大伴嚙も討ち死にを覚悟した。
撤退とは聞こえが良いが、負けて逃げる兵の士気は低い。
そこに予想外の敵が出現すれば戦う気力もなく、逃げ出すか降伏するだけである。
まさしく絶望的な状況であった。
ところが、伏兵も逃げてくる敵に向かい合うには激しい雨風に向き合わねばならない。
その雨風が人の顔を目がけて吹き付けてくるような異様なものである。
朝廷軍はその風雨に立ち向かうこともままならず逃げ出さざるを得なかったが、伏兵もその激しい雨と風に面と向き合うとなると戦っている場合ではなくなった。
伏兵の異常を即座に気取った大伴嚙は「敵に構うな、そのまま突っ切れ!」と叫び、馬を走らせる。
それを見ると兵達は我も我もと後に続く。
伏兵達は雨風に顔を上げることも出来ずにうつむき、その激しさに立ちすくむばかり。
みるみるうちに朝廷軍に突破されてしまった。
それを見ると、殿の秦河勝とその郎党も一目散に虎口を突破した。
逃げながら視線を先に向けると遠くに二上山があった。
「あれは何だ?」と秦河勝が不審の声を発した。
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場所こそ違え「人影?」と声を発したのは蘇我大臣と秦河勝がほぼ同時刻であった。
大臣の言葉に厩戸王子は振り返った。
「大臣殿にもあれがそう見えますか?」
「いやしかし、二上山は遠い・・・・・・・人の姿が分かる訳はない」
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