第7章 丁未の乱 一進一退 その1 石上の神剣
餌香川の戦いが繰り広げられたのと同じ十三日、昼過ぎ。
麻呂子と茜は石上神宮の境内の外に建てられた参集殿にいた。
上座には石上斎宮が座っており、離れた場所に巫女が控え、外では石上贄子(いそかみのにえこ=物部守屋の弟)の配下が見張っている。
少しすると若い男が入ってきた。
男は青い顔をして震えている。
彼は石上斎宮に会釈をすると、麻呂子と茜に深々と頭を下げ、物部武麿(もののべのたけまろ)と名乗った。
物部守屋の三男である。
石上斎宮が口を開くと凛とした声が響いた。
「伊勢の斎宮に相談したのとはまた事情が変わってきました。この男がした禍々しい話をどうしたものかと。
内容が神域で話すには穢らわしくさえあるので、この場所を選ばせてもらいました」
麻呂子と茜は顔を見合わせる。
話の風向きが変わってきたようではないか、と。
「武麿、朝に話したことを、もう一度話しなさい」
「斎宮様、この二人は父の敵です。話をすることは敵に父の計画を漏らすようなこと。
父や兄を裏切ることは出来ません」
「そのような次元の話ではないでしょう。では、武麿が一人で天羽々斬剣と布都御魂剣を取り返してきますか」
斎宮の剣幕に驚いたのか、それとも言葉の意味に恐怖したのか、一瞬にして武麿の顔が青ざめた。
若者のあまりな恐れように麻呂子は同情した。
「斎宮様、今は戦の最中です。
話したくないことを無理に聞き出そうとはこの麻呂子も思いませんし、ここで知ったことを朝廷に伝えたと吹聴されるのも不本意です。
戦の決着が付くまで待っても良いのではありませんか」
麻呂子の言葉に斎宮はきつく目を閉じると首を振った。
「それこそ世迷い言になりましょう。話を聞けば、私の言う意味が分かります。
さぁ、武麿、あなたにも分かっているはず。話しなさい」
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物部守屋はこの一戦に勝っても、担ぐ王子がいなければ、最終的には朝廷軍に圧倒されていく未来に危機感を抱いている。
さりとて、穴穂部王子が殺され、中臣勝海が討たれた状況では、おいそれと物部守屋に担がれようという王子が出て来ないことも承知していた。
そこで、この戦で勝利した時機を捉えて、神剣・天羽々斬剣と布都御魂剣を戴き、敗戦に動揺する王子に物部側にこそ理があると説いて、新・大王として阿都にお迎えすると言う計画を立てているのだ。
「その剣を石上神宮から拝借するのが私の役目でして」と、武麿は言う。
石上贄子に神剣の拝謁を願い出て、そのまま持ち去ったのが一昨日のことだという。
大和盆地に戻ってきた時には既に朝廷軍の姿はなく、人伝に軍勢が逢坂の手前で野営することを知った。
「なにしろ二振りの剣――しかも片方は長大な剣ですから、朝廷軍の物見にでも見つかったら面倒です。重さにしたって相当なものですから、追われたら逃げ切れる自信はありません。
そこで私は行軍進路を避けて、夜の二上山を登って越えることにしました」
そこまで話したところで武麿は震えだした。思い出しただけで恐ろしさに囚われ、体中からは汗が噴き出し、話をしようにも口はもつれて声にならない。
心ばかりか体の方まですっかり恐怖に押しつぶされてしまったかのようだった。
「武麿、しっかりなさい。そなたは饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖先とする者。
恐れに飲み込まれてはなりません!」
斎宮の声に、武麿は「はっ!」と正気を取り戻したかのようであったが、まだ汗はしたたり続けていた。
物部武麿が言うには、二上山の藪を一時間も分け進む内に、藪が途切れた草原に出たそうだ。
その場所からは眼下に朝廷軍が夜営する様を見下ろすことが出来たとか。
その数の多さに一族の存亡の掛かった決戦であると否が応でも思い知らされずにはいられなかった。
そのまま先を進めば、戦闘が始まる前に神剣を届けられるだろうと、束の間、武麿は安堵した。
ところがそんなちょっとした息抜きをする間もなく、武麿はいつの間にか湧き起こってきた白い靄のようなものに全身を包まれてしまった。
白い靄はうっすらと光を発しており、武麻呂は自分の周りが明るく見えることに恐懼した。
「その時、体の奥底から響くような声が聞こえたのです・・・・・・・
『ほぅ、守屋は神と王子を戴こうという気か』と。あの声はまさしく穴穂部王子に他なりません!」
武麿は叫ぶと宙の一点を見つめるかのように、視線を動かさぬままでいる。
微動だにしないのを誰しもが不気味と感じた。
斎宮の声が邪気を払うかのように凛と響く。
「先を話しなさい」
武麿自身もその声で我に帰ったかのように見えた。
「どう思う?」と無言で麻呂子は茜に合図するが、茜はそっと首を振った。
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誰もいないはずの原野で話しかけられたのに驚いていると、靄の中からぬっと飛び出すように青白い首が飛び出してきた。
突然のことに武麿は肝を潰して剣を放り出して後ずさりした。
「大事な物を放り出すようでは」と首の主は声を上げて笑った。
その声は武麿の頭の中で反響しているようで、あまりの恐怖に武麿は腰を抜かして這いつくばる。
いや、恐怖の原因は声よりも白い靄から飛び出してきた首の方である。
見紛うことのなく穴穂部王子のまさにそれであった。
おののきながらも「何者!」と武麿が問う。
「忘れたか、お前等の主人の顔を!」
笑っているように見えていた顔が俄に怒りを孕んだ。
それを見て武麿は色を失うが、それでもやっと答えた。
「穴穂部王子は亡くなったはず」
「我が怨念は惣鬼の魂を器とし、その器を満たす力の源となったのだ。
ほれ、見よ!穴穂部王子は現世に甦ったぞ!」
叫びと供に爆発のような笑い声が武麿の頭の中に響き渡り、武麿は頭を抱え込んで野原に突っ伏した。
それを見ると首は靄の中から進み出てきた。
「これは我が大王となるためにも大事な証。もらっていくぞ」
「そ、それはぁ・・・・・」
二振りの剣を手にした惣鬼の一睨みに武麿は這いつくばって後ずさりした。
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「その惣鬼とやらは、どんな姿をしていたのだ」と思わず麻呂子は口を挟んだ。
「鎧武者です・・・・・・全身を灰色の鎧で固めています。身の丈は七~八尺はあったでしょうか。動く度に不気味に鎧が鳴り・・・・・・
その巨大な鬼がいともたやすく神剣を持つと『これでことごとく敵を滅ぼしてくれよう』とだけ言って、姿が見えなくなってしまいました。私の周りを囲んでいた白い靄もそれと供に消え失せ、私は唯一人で野原に取り残されて・・・・・・・
恐ろしさに呆然とし、自分が誰で何のためにその場所にいるのかも思い出せないほど。
夜が明ける頃、ようやく人心地がついて状況が分かりました。
途方に暮れてしまいましたが、阿都に向かうのは恐ろしく、どうすれば良いかも分からず、こうして石上斎宮の霊験におすがりしに来た次第でございます」
話し終えても武麻呂は目を見開き、口は半ば開いたままで、あらぬ一点を見つめて動かぬままでいた。
斎宮が静かな声で告げてきた。
「恐怖は魂を飲み込むのです。武麿はそれに抗おうとしています」
斎宮はそう言うと部屋の外に合図をした。
それを見て石上贄子の配下の者が入ってきて彼を連れ出していった。
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