第5章 決戦への前奏曲 その3 野心家の運命

それから少し経った豊浦宮では蘇我大臣が炊屋妃と密談をしていた。


「穴穂部が物部の元へ向かうと!」


「既に多くの兵を守屋は手元に集めています。

阿都に穴穂部を連れ込めば、新大王即位の触れを出して遷都の詔を出すかも知れない。そうなれば、豊浦宮に集いし者の中からも造反者が出るかも知れませんな」


「そんな・・・・・!

それでは内乱ではないですか」


「確かに。

しかも、向こうは形式上であれ大王を戴くのならば、我々を反逆者だと言いつのることも出来る。守屋め、よく考えやがる」


「感心している場合ではありませんよ。

正統なる大王の血筋はこちらではないですか。私を反逆者に仕立て上げることは許しません。

何か良い対抗策はありませんの?」


「ありますよ。

ただ、炊屋妃が協力して下さいませんと、群臣が割れることになりましょう」


「大臣に妙案があるのなら任せます――その考えに乗ろうということよ」


「何ごとであれ素早く実行に移しませんと、すぐに企ては漏れるものです。今度は穴穂部に知れる前に迅速に実行しなければなりません。

順序の後先は逆でも構わない。

炊屋妃もここは腹を括って覚悟を決めて下さいよ」


馬子は早速に佐伯連丹経手(さえきのむらじにうて)・土師連磐村(はじのむらじいわむら)・的臣真嚙(いくわのおみまくい)に「すぐに準備をして穴穂部王子と宅部王子を討て。勅命はお前達がここを発った後で出るから懸念には及ばぬ。王子殺しの汚名を被ることはない」


目の前で繰り広げられる陰謀に炊屋妃は驚いたように見えたが、やがて全てを受け入れたのか、悟りを開いた僧のような涼やかな顔つきで頷いた。


彼らが出立して少ししてから、その炊屋妃が群臣を集めた。

彼女はすっかり腹を括った様であった。


そこで何食わぬ顔の蘇我大臣が報告をした。


「物部大連守屋が穴穂部王子を阿都に連れ出し、そこで大王に立てようとしていることが分かりました。

大連の企み通りに事が運びますと、この中にも向こうに付こうかと思う者が出て、文字通りに国を二つに割る厄介な事態になりかねません。

ここは早急に手を打つことが必要かと存じます。反乱は防ぎませんと」


「せっかく父の代で苦労して統一した大王家です。それを分けて争うなどと言うことを先祖が認めるはずもありません。

その企みが誠ならば、既に穴穂部も大連も反逆者ではありませんか。

大臣殿、何をグズグズとしているのです。

叛逆の芽は育たぬうちに摘まねばなりません。

血を分けた兄弟であろうと、国の安寧ためには穴穂部を討たねばなりません」


「ははっ。この大臣が至急、手を打ちまする」


大臣は仰々しく頭を下げると、朝議の間を後にした。

座を外しながらも、あまりに堂の行った炊屋妃の態度に馬子は感服していた。


一方の残された群臣の間では落ち着きのないざわめきが起こる。


「私は訳語田大王の正室にして、橘豊日大王の妹です。次期大王が即位するまで政を預かる身です。この私の決定に異議がある者はすぐに名乗り出なさい。

咎を与えはしませんから、この場で申し出よ」


目の前で兄弟の王子を殺す命令が下されているのである。

咎がないと言われて安心して異を唱える者がいようはずはない。


「では朝議はこれまでとします」


朝議の間は一瞬にして静まり返り、群臣は一様に平伏した。


大和の朝廷の最高権威は炊屋妃に他ならない・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


穴穂部王子は旅の支度を命じながら「宅部は置いて行かざるを得ないな」と考えていた。


阿都にて公然と豊浦宮に反旗を翻した後で、残された宅部王子がどんな目に遭うのかにはいささかの心配もしていなかった。

そこはいつもながらの穴穂部であった。


それよりも穴穂部王子自身に、阿都へ移動することに関して特段の危機意識がなかったことの方が問題である。

六月七日になって屋敷を兵に取り囲まれたのが驚天動地の出来事というのでは、もうどうしようもなかった。


「抜かったわ!」と穴穂部王子は声を荒げると武器を手にした。


家中の者にも武器を手にするように命令して回ったが、誰も彼もが穴穂部王子の言うことに耳を貸すより先に逃げていく。

そうこうするうちに、四方の塀を乗り越えて敵兵が侵入を開始した。

見る見るうちにその数が増えていき、穴穂部王子にしても、もはや脱出するしかないと悟った。


ところが、いざ脱出口を探してみると、どこもかしこも既に塞がれ、逃げるどころか隠れる場所すらない。

「戦え」「武器を取れ」などと命令している間に逃げ道はなくなっていたのだ。


とうとう邸内には見張りの楼ぐらいしか兵士のいない場所はなくなっており、仕方なしに穴穂部はそこへ昇った。


昇ってしまったら逃げ道がなくなるとは予想していたのだが、楼から辺りを見渡してみると、その場所からならば隣の屋敷に飛び移れそうに見えた。


そうは言っても結構な高さである。穴穂部は迷った。


上手く着地できなければ大怪我を負いかねない。


こうして決心が付かないでいる内に、穴穂部が楼にいるのに気づいた兵がそこへ昇ってきた。


そんな状況になっても穴穂部は叫んだ。


「無礼であろう。俺を誰だか知っての狼藉か!

次期大王の穴穂部王子なるぞ!」


彼の口上は何の効き目もない。

敵兵は構わず剣を振り下ろしてくる。

それを避けようと飛び退いたが、肩口から斬り付けられた。

痛みと衝撃に体勢を崩した穴穂部はそのまま楼から落下すると、そこは隣の屋敷の敷地内であった。


傷はかなり深く、しかも落下時に体を庇えなかったせいで足と腰を痛めてしまっていた。


「敵が屋敷を取り囲もうとした時に逃げ出せば・・・・・・

敵兵が昇ってくる前に楼からこの敷地に飛び移っていたら・・・・・・・

守屋の申し出を受け取って、すぐに秘密裏に脱出していたなら・・・・・・・」


思い返せば彼には無念なことばかりであった。


遂に大王の地位が手に届くところまで来たというのにと考えると、死んでも死にきれぬ思いであった。


彼は地べたを這いつくばるようにして隠れ場所を探した。

植え込みの近くまで這い進んだが、思うように体を隠すこともままならぬ。


それほど時を置かずして松明を掲げた兵士達が自分を探しに来たのが見えた。


もう、隠れることは出来なかった。


松明の火に取り囲まれて、彼は歯を食いしばって周りを見上げた。


「穴穂部王子に相違ないな」と聞かれると、彼は傲然と言い放った。


「次期大王になるべき俺を殺して無事で済むと思うなよ」


誰も彼の恨み言に耳を貸そうとはしない。とどめの剣を突き付けられた瞬間、穴穂部は叫ぶ。


「馬子、蘇我の一族ども!この恨み、只では済まんぞ!」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「そうか」と穴穂部王子の最期を聞いて馬子は身震いした。


そばで聞き耳を立てる炊屋妃は元々白い顔がいっそう青白くなって見える。


「宅部王子はどうした」


「他の者は皆逃げ出しましたが、唯一人病床に伏せる者がおりまして、それが宅部王子かと」


「後顧の憂いとなるかも知れぬ。彼も討ち果たせ」


命じられた兵は「はっ」と短く答えて下がっていった。


「怨讐を晴らしたはずなのに、気分は最悪ね」と炊屋妃は呻くように言った。


「それはそうでしょう。これで万事解決ではありませんからな。

むしろ、やっと始まったところです」


「それで馬子殿、我らが担ぐ人物は決まったのですか。まさか、押坂彦人王子じゃないでしょうね」


「無論です。

反蘇我の旗印になりうるような王子を担ぐ訳には参りません」


それに押坂彦人王子は炊屋妃の競争相手だった広姫の息子である。

その彼が大王に即位することを炊屋妃が認めたがらないことは馬子もとうに承知していた。


押坂彦人王子が大王となり長期政権となれば、次代は炊屋妃の王子ではなく、押坂彦人王子の息子世代に大王位が移っていってしまうかも知れない。

それは彼女の望むことではないだろう。


「馬子殿の意中の人は誰ですの」


「泊瀬部王子です」


あまりに意外な名前に炊屋妃は呆けたような表情を浮かべた。


「穴穂部王子の弟ではありませんか。言うなれば我らは仇。恨まれていませんの?」


「泊瀬部王子の方こそ穴穂部に恨まれて命を狙われていたぐらいです。

穴穂部王子が討たれたことで、やっと安心して表に出て来られるようになったのです。恩義を感じこそすれ、恨むなんて有り得ませんな」


炊屋妃は考え込むようであったが、不安そうな顔をして疑問を口にした。


「泊瀬部がどんな人物か、我々はあまりにも知りません。

野心家の弟です。兄と違って野心がないのなら良いですが、野心を口にしないだけ狡猾であるなら、この決定は禍根となりますよ」


「泊瀬部王子は確かに何かを成したいと希望を口にしたのを聞いたことありませんな。それは取りも直さず、特に何も考えずに生きてきたからかも知れません。穴穂部がいたから野心の抱きようもなく、ノホホンと生きてきたと私は見ています」


「それでは・・・・・・まるで馬鹿のように聞こえます」


「それが良いのです。

炊屋妃と私がいるのです。私共の制御が可能ならば、馬鹿なくらいが丁度良いでしょう。

腹を括るとはこういうことですよ、炊屋妃様」

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