第6章 丁未の変 前哨戦 その1 挙兵

七月になると炊屋妃は額田部王女の名で蘇我馬子に命じて軍を興した。


前の大王の后としてではなく、志帰嶋大王(欽明天皇)の王女としての権威を示そうとしたのである。


大王家の詔による兵の徴集に飛鳥の地は騒然となった。


泊瀬部王子の初陣というだけではなく、そのお披露目も兼ねる儀式的な意味合いがある出陣であったから、蘇我系王子達が挙って参列したのだ。

各王子の護衛の舎人達も駆り出され、総兵数は五千人にも膨れ上がった。


志帰嶋大王の子供世代では大王候補となる者は泊瀬部王子しか残っておらず――まだ額田部王女のことを現実的に考える者はいなかった――他は訳語田大王の子供と橘豊日大王の子供が主だった王子達であった。

その中には当然ながら厩戸王子の姿もあった。


この頃の七月と言えば、今の暦ではおおよそ八月に相当する。

その暑さの中を兵役とは無縁だった者が多く混じっての行軍である。


模様眺めをする気かと額田部王女が懸念していた押坂彦人王子からも参戦希望の申し出があった。


表面上は「協力はありがたいが、王子がこれ以上増えることは軍事上好ましくない」と断ったところ、二心なき証として兵のみが派遣されてきた。

その中には中臣勝海を討ち取った手練れとして名高き迹見赤檮(とみのいちい)も加わっていた。


五千の大軍と言っても、王子やその護衛の舎人達だけで千人近くを占めてしまう。

これは戦力外のお荷物のようなものだった。


「とても全軍を長蛇の列で進めていくことは無理だろう」と蘇我大臣は憂えた。


守屋の本拠地である河内の阿都に攻め入るのには飛鳥の北西にある明神山と二上山の間の逢坂を抜けた先を大和川沿いに進んで行かねばならない。

その道中にある穴虫峠から下りて行くと、進路の北側を東から西に流れゆく大和川に南側から餌香川が合流する河原がある。


物部大連が最初に防衛線を敷くとしたならば格好の場所になるはずだ。


将官の一人、大伴連嚙(おおとものむらじのくい)が意見を述べた。


「少数を以て大軍を叩くのには、峠から順次出てくる兵が隊列を組み直す前に撃退するのが理想。ならば餌香川の河原で敵は待ち構えていましょう。

我らとしては、『全軍を以て敵の防衛陣地を突破する』と言えば聞こえは勇ましいですが、地形的にも兵の練度から言っても待ち構える敵陣を強行突破するのは難しいでしょう」


馬子は渋い顔をして、溜め息交じりに聞いた。


「何か妙案はないのかい」


「軍を二つに分けましょう」と安倍臣が答えた。

「身軽にした軍兵を以て明神山よりも更に北側、信貴山の南嶺の道を進めるのです。敵の防衛線の更に奥、志紀を衝いてしまえば、餌香の河原の防衛陣地は既に背後を抑えられる格好になりますから戦いは無意味になります」


真っ当な献策なのは馬子にも分かった。

ただ、あまりにたやすく事が運んでは、王子達に群臣の存在意義が分からないのではないかと心配になった。

自分達が懸命に働く姿――つまりは派手な戦闘を見せてこそ我らのありがたみも分かろうというもの。


「別働隊の兵数はどれほどのつもりかな」


「千もあれば十分でしょう」


「いや、二千でどうだ」


「それでは別働隊の動きも遅くなってしまいます」


蘇我馬子はもっともらしく反論をする。


「だが、四千もの兵で穴虫峠を越えるのでは、主力の行軍がずっと遅れてしまう。

そうなると守屋の方は各個撃破を狙えるようになってくる。別働隊の兵数が少なすぎるのは不安材料になるぞ」


大伴連も安倍臣も物部氏の本拠で戦うことに不安を覚えぬ訳ではない。

そこで懸念材料を煽られれば、自信もぐらついてくる。

「千より二千の方が安心だろう」と考え直す。


こうして馬子に押し切られる形で作戦は決まった。


主力は三千名で逢坂への道を進み、穴虫峠を目指す。

一方の別働隊は二千名で北上することとなった。


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問題の餌香の河原までは五里ほどだから、通常の行軍なら飛鳥から一日の距離である。

だが実際の行軍には王子達が加わっており、彼らは長距離を馬に乗るのさえ不慣れであった。

軍勢は奈良盆地を北西に向かい、二上山を西に見る場所で野営となった。


二上山に日が沈む景色は、これから戦地へ赴く彼らをひととき慰めた。

だが、あの山を越えたらどんな恐ろしい試練が待っていることか・・・・・


厩戸王子と来目王子が野営のために帳を開き準備していると、麻呂子がやって来た。


麻呂子王子の暮らす葛城は二上山の麓近くにあるのだ。


「こんな場所で野営するのか」と驚いた顔で麻呂子が挨拶してきた。

麻呂子の感覚からすれば、飛鳥を出て二上山も越えぬうちに夜営に入るというのは、信じられないほどゆっくりした行軍である。


「こんな行軍に王族は不慣れなものです。無理して進んでも山間部に入ったところで日が暮れたら、どんな悲惨な事態が起こらないとも限りませんから」


「それにしたって、まだ二里くらいしか進んでいない。これでは先が思いやられる」


「麻呂子は言っているだけだから良いですけれど、実際に進んでいる方は本当に大変なのですよ」


こんな具合に厩戸と麻呂子が話していると、来目王子がとぼとぼと疲れ切った様子で近づいてきた。

行軍の間は幼くとも鎧をまとっている。

それをやっと脱ぐことが出来たのだが鎧を脱ぎ去っても体は重いままだった。


「兄上、誰と話しているのですか?」と麻呂子の方を見て来目王子も気がついた。


「あ、麻呂子!麻呂子も一緒に行くの?」


「こら、来目!麻呂子はこの近くに住んでいるのですよ。だから我らを励ましに来てくれたのです」


「えーっ、麻呂子はこんなところに住んでいるの?だったら麻呂子の家に行きたいな」


「来目、物見遊山で来ているのではないのです。この野営地から抜け出すことは逃亡兵と同じこと」


「えーっ?」


来目王子はまだ十歳にならぬと言うのに、こうして出陣している。

第三王子であるからと参陣の声も掛からないというのは、麻呂子からすれば何とも歯がゆい話であった。


そんなことを考えていると、厩戸が麻呂子の肩に手を置いた。


「気持ちは分かるが、今は抑えてくれ。父のためでもある」


驚いて麻呂子が見上げると、その視線の先の厩戸は何とも申し訳なさそうな、それでいて不安ともどかしさを隠しきれない複雑な表情をしていた。


「心得ています」と麻呂子は会釈をした。


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葛城の自分の家に帰りながら麻呂子は思い返していた。

本当のところ厩戸の言った意味は何なのだろう、と。


心得ています、と答えはしたものの厩戸の真意は測りかねた。


自分が参戦を求められていないというもどかしさを推し測っての言葉なのだろうか。

それにしたって、それは果たして父・橘豊日のために我慢するべきものなのだろうか。


参戦を促されなかったのは蘇我大臣と炊屋妃の意向と聞く。

参戦する王子の内、炊屋妃の息子が二人、間人妃の息子が二人、という平衡を崩したくないらしい。


つまりは生きている血縁王族の都合ではないのか。

それを父の為と片付けられては納得しきれるものではない。


これほど自分が王位継承と関係ないままでいろ、とあからさまに言われたのは初めてではないのか。

そう考えた途端に厩戸王子が以前に口にした言葉が脳裏に甦った。


「こういうのは勝った者は覚えがないのに、負けた側は執拗に覚えていたりするもの。嫉妬や恨みというのは恐ろしいものです」


それは堅塩姫と小姉君の子どもたちの間の諍いについて厩戸王子が述べたのだ。

自分はまるで小姉君の息子達のように厩戸王子達を見ていると言うことなのだろうか・・・・・


「父の嫡男に言いつけられたことには従おう。父からは厩戸を助けてやってくれと言われている。

私は父との約束を守るのだ」


そんな腑に落ちぬ思いを抱きながら自分の家に着くと、茜が来ているという。


麻呂子は茜の待つ部屋に喜び勇んで駆け込んだ。

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