第5章 決戦への前奏曲 その2 狩りの誘い

押坂彦人王子が答える。


「ここは都から離れており、あなたさえ来なければ平穏無事だったのです。

もしも私に大王になる機会が巡ってくるとしたら、それは今ではないでしょう。

現実に目を向けましょう。まさに今、堅塩姫の子息と小姉君の子息で骨肉の争いを繰り広げているではありませんか。私の出る幕ではない。

どうぞお引き取り下さい」


「この中臣連も子供の使いで参ったのではありませんぞ。

この水派宮を兵が取り囲んでおる。手荒なことはしたくないが、私が一声掛ければ有無を言わせず兵達が王子を河内まで連れて行くことになるでしょう。そうなれば手加減していられませんぞ」


押坂彦人王子は中臣連の脅しに渋面で答えた。


「そういうことはして欲しくないのですが、どうしてもやるというのなら止めはしません。どうぞ、ご勝手に」


「後悔なさいますぞ」と中臣連勝海は憤然と席を立ち、屋敷の外で自分の兵に号令を掛けに出て行こうとした。


戸口からまさに体を出そうとしたその瞬間、押坂彦人王子の舎人・迹見赤檮(とみのいちい)の抜いた剣が中臣勝海を刺し貫いた。

心臓を一突きである。

中臣勝海は声も出せずに崩れ落ちた。


扉が開くと待ち構えていた兵達の眼前に中臣勝海の遺骸が放り出された。

指揮官を討ち取られた兵達が途方に暮れていると、その茫然自失の隙を突くように鋭い矢が一本、二本、三本と兵達に命中し、倒され始めた。


「中臣連勝海を討ち果たしたぞ!仇討ちを望む者は前に進み出よ!

この迹見赤檮が相手になる!」


大音声と供に迹見赤檮が姿を現したが、大将を討ち取られた兵達は蜘蛛の子を散らすように四散していった。


報告を聞くと押坂彦人王子は難しい顔をした。


「面倒なことになった。このまま局外中立という訳にもいくまいな」


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中臣連勝海が水派宮で討ち取られた報せは、即座に豊浦宮に伝えられた。


「思い切ったことをしますなぁ」と馬子は言いかけたが、炊屋妃の厳しい表情に口を閉ざした。


これほどまでして火の粉を振り払うのは押坂彦人王子の野心が本物な証拠ね、と炊屋妃は心の奥底に警戒の二文字を刻み込んでいた。


乱暴で軽率な小姉君の子供達の野望ならば、蘇我家の力を後ろ盾にして対抗できようが、深遠な者の野心は厄介かも知れない。


だが、彼女は自分の懸念を抑え隠し、馬子の意見を求めた。


馬子の方は炊屋妃の心情を測りかねていたが、努めて冷静に意見を申し述べた。


「押坂彦人王子を確保されて、守屋が河内で対抗しようとしてきたら厄介だったでしょう。ですが、こうなれば状況は我らに有利です。

不確定な要素と言えば・・・・・・・」


「穴穂部王子の態度ですか。

ですが私は彼を許す気はありませんし、決して大王になどしてはいけない人間だと考えています」


「炊屋妃様、お気持ちは分かりますが、今は大王の快癒を願う時でございます。そのお気持ちはまだお隠しになったままでいて下さい」


「分かっています。一年以上も抑えてきたのですから」


炊屋妃は我慢していたが、それはすぐに形となる。


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四月九日、橘豊日大王が崩御された。


中臣勝海を押坂彦人王子の手の者に殺された以上は、物部氏にとって次期大王に担げる人材は穴穂部王子しかいなかった。


穴穂部王子を担ぐ利点としては蘇我氏の血を引いていることである。

蘇我系王族と非蘇我系王族の対立にしないことで、蘇我氏を団結させることを防ぎ、あわよくば内部の分裂を誘えるかも知れない。

蘇我氏が内部分裂を起こせば、蘇我氏の工作で蘇我氏の支持に回っていた群臣達にしても立場を表すことをためらうであろう。


難点は、穴穂部王子が大王になれるならばと、誰とでも取引に応じてしまいそうなことだった。


「さっさと阿都にお迎えすることですな。取引できる相手がいなくなれば、腹も決まりましょう」とは物部守屋の警護を務める捕鳥部万(ととりべのよろず)の言葉である。


守屋は同意しながらも、穴穂部王子の真意を測りかねてどう動くべきか逡巡していた。


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五月になって物部氏の兵集団が三度にわたり大和から河内へと移動していくのを見送り、都に住む者達も此度はさすがに物部・蘇我の全面対決が避けられないらしいと気づき始めた。

むしろ朝廷に仕える群臣達の方が事態の深刻化に慌てふためき、両者がどこまで対立を激化させていくのか判断しかねていた。


阿都へ兵を集めるのが目論見通りに進捗していることに安心した物部守屋は穴穂部王子へ密使を送った。

書状には簡潔に一文が記されるのみであった。


「願わくは淡路島で王子と供に狩りを致したく存じます」


この書面を読んで穴穂部は「我が意を得た」とばかりに膝を打つ。


「ようやく来たか」


物部氏の武力を背景に即位してしまえば、模様眺めをしている群臣どもにも我が方になびいてくる者が出てくるであろう。

父の代にも争いはあったが、争いを再度起こさなければ自分の番は回ってこない。


「これも王家の宿命よ」と穴穂部は自分に言い聞かせる。


その上で穴穂部の屋敷に寄宿する宅部王子の元に向かった。


宅部王子は広瀬の殯宮での一件以来、寝たり起きたりの生活となり、とても穴穂部王子の用心棒をするどころではない。

それでも彼は穴穂部王子からすれば相談役であった。


「ようやく来たぞ。

守屋め、焦らしやがって。自分の値段をつり上げる気か」


「いや、きっと、勝てる算段が立ったところを見せなければ、穴穂部がどう転ぶか分からぬと心配していたのだ。

それだけ穴穂部は信頼されていないのだ」


「確かに、豊国師を池辺双槻宮(いけべのなみつきのみや)へ連れて行ったというのに、馬子からは色よい反応がなかったからな。あそこで馬子が協力を申し出れば、こんなに待つ必要もなかったのだ」


「そんなことを言っていては、また物部守屋から警戒されるぞ」


「下らぬ。おれが大王になれば蘇我だとか物部だとかで争うことなど意味が無いと分かるだろう。

国の舵を取ることと自分の家を栄えさせることとの間には何の関係もないと、愚かな群臣どもに教えてやるのだ。

そんな家ごとの争いなどしている暇はないのだ。大陸情勢と任那復興を睨みながら、大和を発展させていく難しさを、あいつらは考えたこともないだろう」


こうした高邁に見える言説を吐くのを見て、強権的で英邁な大王が生まれるかも知れないと期待してしまう者もいるが、それはうわべの言葉だけに過ぎない。

実のところ、これまでの穴穂部こそが利益に誘導されて態度を豹変させ続けてきたではないか。

そのおかげで味方がなかなか現れなくなったのだ。


そのことに宅部王子が気づいたのは、体が不自由になってからのことだ。

病身ゆえに穴穂部といつも一緒には居られなくなり、距離の離れた場所から眺めるようになって分かってきたのだ。


「穴穂部、そんな態度では身命を賭してお前について行く者は私しか残らないだろう」


「それならそれで構わぬ。

小人には大人の志は決して分からぬものよ」


「そんなことよりも穴穂部よ、その密書の内容は誰にも見られてはならないぞ。密かに河内へ潜入する算段はあるのか。

先月の内なら物部の兵が移動するのに紛れ込めたであろうに。こんな遅くになってしまっては大和からの脱出だって難しい。

こんな守屋からの申し出が露見してみろ、真っ先に馬子から狙われるぞ」


「大王候補をあからさまに狙えば、馬子を支持していた者達の中からも造反者を出すことになる。そんな博打を馬子が打つとは思えない」


「馬子は甘くないぞ」


「いや、馬子はいろんな方向から状況が見える奴だから、慌てて俺を引き止めようと条件を持ち出してくるかもな。

そういう計算高い男だ、馬子は」


その返事を聞くと宅部王子はそっと溜め息を漏らした。

もはや何を言っても無駄と悟ったのである。


穴穂部は宅部の元を離れると家人に旅立ちの準備を命じた。


「どちらへお出かけになるので」と家令の一人が尋ねた。


「都の争いから離れて淡路島にでも出かけるかな」と穴穂部王子は悠然と答える。


穴穂部の部屋には大連からの書状が無造作に置かれたままになっていた・・・・・・・

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