第5章 決戦への前奏曲 その1 次の大王
橘豊日大王が即位されて二年目(用明二年=西暦五八七年)、四月二日に大王は俄に発病され、伏せるようになった。
痘瘡(もがさ)と記録されているから、今で言うなら天然痘である。
訳語田大王の治世下で流行りだした病は未だに終息する気配を見せていなかったのだ。
こうした悲惨な天然痘の大流行は、天平時代に至るまで何波にも渡って日本を襲っている。
天平時代以降になると天然痘は日本に定着し、地域ごとに流行を繰り返すようになっていく。
「痘瘡は器量定め、麻疹(はしか)は命定め」という言葉が出来るほどに日本人にはなじみ深い病となっていくのだ。
だが、それはもっと後の時代の話である。
この時期に天然痘が拡がったのは、それだけ大陸との間で人の行き来が増えたためであろうが、「疫病の流行こそ八百万の神がお怒りの証だ」と廃仏派の主張の根拠とされていた。
とは言え、廃仏派からも痘瘡で亡くなる人が相次ぎ、むしろ民衆の間では廃仏派が寺や仏像を廃棄したり焼却したりした罰ではないかと囁かれていた。
病に冒された橘豊日大王は、病苦の中で自分にはもはや残された猶予がないと悟った。
日頃から仏教についての造詣の深かったため、大王は大きな決意を持って「三宝に帰依したい」と心の内を周囲に明かした。
三宝とは仏法僧を指し、帰依とは仏教徒になることを意味する。
天照大御神を先祖とする大王が仏教徒になると希望したことは、群臣に大きな衝撃を与えた。
物部守屋ら廃仏派は当然の如く反対したが、蘇我馬子など崇仏派は「大王の御希望ですぞ。詔に従って大王の快癒を願うべきです」と彼らを黙らせた。
こうして大王の希望を叶えるべく仏僧を探させていたところ、穴穂部王子が豊国師を伴って池辺双槻宮に姿を現した。
その姿を見て、穴穂部王子を次期大王に推そうと考えていた廃仏派の物部守屋は、彼を裏切り者と断じ、怒りを露わにした。
だが、崇仏派の蘇我馬子にしても穴穂部王子の行動を喜びはしなかった。
それどころか不審に感じ、警戒感を露わにした。
馬子の目には穴穂部の振る舞いは次期大王を狙ってのあからさまな示威行動にしか写らなかった。
大王になるためならば、なりふり構わず行動していく気なのではないか、と。
一年前の炊屋妃強姦未遂事件と三輪君逆暗殺事件を馬子が忘れるはずはなかった。
大王の療養と治療祈願の場となった池辺双槻宮を立ち去った群臣達は、自然と馬子が向かう豊浦にある炊屋妃の宮に集まりだした。
蘇我馬子が炊屋妃に池辺双槻宮での橘豊日大王の様子を伝えると「あぁ、豊日のお兄様も容態が思わしくないのですね・・・・・・残念で成りません」
「大王は大変な決意を持って三宝に帰依なさいました」と馬子は深々と頭を下げた。
「・・・・・・それは並々ならぬ決意表明ね・・・・・・・兄個人の救いを求めただけではないわ。兄は国の未来に希望を残そうとしているのね。残された者はこの思いにこそ応えなくてはなりません」炊屋妃はうなだれて嗚咽をもらした。
「炊屋妃様、ただ、内裏へ豊国師をお連れしたのが穴穂部王子でして・・・」
穴穂部の名前で炊屋妃の顔色が変わった。
「まさか、あの男は内裏に残っているの?」
「とんでもございません。穴穂部は自分が僧をお連れしたという行動を群臣達に見せるだけ見せるとさっさと退散しました。おそらくは相当に病を恐れているようですな。
此度の行動だって、橘豊日大王を思っての事ではありますまい。
次の大王への示威行動にしか私には見えませんでした」
「そう・・・・・・・・あの様な者に国政を壟断されることがあってはなりません。
馬子よ、それだけは心に留めて置いて下さいね」
「勿論です。一年前の仕打ち、この馬子は忘れたことがありません」
二人は目と目を見交わすと、黙って頷き合った。
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群臣連中が豊浦に集まっているのを耳にし、物部守屋も急ぎ後を追おうとした。
自分のいない間に馬子がどんな主張で群臣どもから支持を取り付けているか、と思うと気が急くばかりであった。
そんなさなか、押坂彦人王子の家中の者が声をかけてきた。
「大連様、お気を付けなさいまし。
既に群臣達は大臣様の工作によって、反物部の機運で固まってしまいました。そのような場所に今から入っていくのはよくよくご警戒が必要ですぞ。
大連様は陥れられ、引き返そうと思った時には既に退路を断たれている事になるやも知れません」
豊浦は炊屋妃の宮である。
現大王の病のため政務を行う場所を移すのに、前大王の妃の宮にするというのはもっともらしいが、ますます炊屋妃の存在感を大きくするのではないか・・・・と守屋は懸念した。
前王后といえば聞こえは良いが、あの馬子の姪である。
馬子がお膳立てした場所へ、のこのこと遅れて出向こうとしている――これは自ら虎穴に入るようなものではないのか。
物部守屋は考え直すと馬を返し、そのまま河内国にあるもう一つ別の物部氏の本拠地「阿都」へと向かった。
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それまで静観していた押坂彦人王子が、ここで始めて働きかけてきた。
この押坂彦人王子というのは訳語田大王の息子であるが、母の広姫は既に亡くなっている。
広姫が亡くなった後に正后となったのが炊屋妃である。
広姫は王族の娘であり、蘇我氏との血縁関係がない。
つまり、押坂彦人王子も蘇我氏とは血縁がないのである。
年齢から言えば次の大王候補に近い世代ではあったが、既に父の世代の堅塩姫と小姉君の息子達が有力候補に挙げられていたし、炊屋妃が有力な調停人の地位を固めつつある情勢では蘇我氏と血縁がないのは不利であった。
まだ機が熟していないことは押坂彦人王子自身にも分かっていたが、次期大王を巡って蘇我氏と物部氏が直接ぶつかることになれば、自分が反蘇我氏の神輿に担がれてしまうのでは無いかと怖れていた。
蘇我氏と物部氏が今の情勢で対決すれば、最終的には蘇我氏が勝つだろうと予想していた。
逆の結果が出れば国中が大混乱に陥ってしまうだろう。
蘇我家と血縁のない王子としては、蘇我氏と物部氏の争いから距離を置き、中立的位置に留まっていたかった。
そこで、助け船を出したように恩を売りながら、物部氏を大和から河内へ追い払う機会を逃さなかったのだ。
たった一つの助言だけで戦禍から逃れることが出来たかと押坂彦人王子は安堵した。
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ところが物部守屋は河内へ向かいながら策を巡らしていた。
前回の大王を選ぶ群臣会議では、無理をして穴穂部王子を推したおかげで王子とは良好な関係を築いてきた心積もりであったが、池辺双槻宮に豊国師を連れてきたことでも分かるように、穴穂部王子には大王になるためなら何でもやってしまいかねない軽率さがある。
どこまで信用できるのか分からぬ危うい人物なのをここに来て思い知らされたのだ。
そこで脳裏に浮かんだのが押坂彦人王子である。
先般、押坂彦人王子の家中の者から助言を受けた時には忘れかけていたが、あの王子こそは蘇我氏の血筋とは無縁の訳語田大王の第一王子ではないか。
河内へ引き下がる以上は蘇我の血筋の王子達と対抗する王子がいなくては、時間と供に劣勢になるばかりであろう・・・・・・・
神輿が必要であった。
ことがここに及んでしまっては、今更自分が押坂彦人王子の住まう水派宮(みまたみや)に向かったり、自分の軍勢を向かわせたりすれば、その意図が蘇我方に露見してしまうだろう・・・・・・
ここまで思案した物部守屋は中臣連勝海に使者を送った。
「水派宮の押坂彦人王子を説得して河内へお連れするように。無理であれば掠ってでもお連れせよ」
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一難去ってまた一難、と押坂彦人王子は水派宮に訪れた中臣連勝海を見て、愕然としたことであろう。
振り払ったはずの火の粉が更に大きくなって燃え上がりそうに見える。
「中臣連殿、あなたのお申し出を受けることは出来ません」
「なぜですか。
物部大連様があなたの即位を推されようと申し出ているのですぞ。それには今の都は不穏にて、あなたを御守りするために河内へお迎えしようと言うのです」
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