第4章 穴穂部王子 その4 遺恨
穴穂部は家来と供に引き返しながら恥辱と憤怒の中にあった。
「なぜ、先回りされた!なぜ、計画が漏れた!裏切り者か!密告者か!」
穴穂部の脳裏には宅部と泊瀬部の顔が浮かびあがり、憎しみの念が心の中に渦巻く。
その時、道の脇から人とも獣とも付かぬおぞましい叫びが上がり、一同は足を止めた。
「何だ・・・・・・?」
丑三つ時の原野に闊歩する魑魅魍魎の類いかと穴穂部は怖気立つ思いであったが、勇気のある見張りが声のする方を確かめに藪に分け入り、そこで深手を負って動けずにいる宅部王子を見つけた。
彼は人の気配がしたので助けの叫びを上げていたのだ。
何人もの手によって運び出されてきた宅部の姿を見て穴穂部は叫んだ。
「誰にやられた!」
そう問い掛ける穴穂部は、つい先ほどまで心の中で激しく宅部をなじっていたことなど少しも気にしていなかった。
「麻呂子と・・・・・・三輪・・・・・・・」息も絶え絶えの中で、そう言ったのが聞こえた。
「麻呂子だと?・・・・・・・まだ小童じゃないか」
「俺はもう駄目だ・・・・・・穴穂部が大王になるのを見られないのが心残りだ」
「何を弱気になっている。お前はここでは死なぬぞ。お前の死に場所はこんな荒野であるものか」と、穴穂部は家来達に合図する。彼らは力を併せて宅部を馬に乗せた。
「傷が開かぬようにゆっくりだ。だが、それでも急ぐんだ!」と言いながら、頭の中で裏切り者の弟・泊瀬部王子と三輪君逆にどうやって仕返ししてやろうかと考えていた。
「待っていろよ。この屈辱、やり返さずにおくものか!」
小童としか思えぬ麻呂子のことは記憶の隅にも留めていなかった。
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しばらくして、蘇我大臣は穴穂部王子の邸に呼び寄せられた。
橘豊日大王が即位する際に、蘇我馬子は橘豊日王子を推し、物部守屋は穴穂部王子を推した。
つまり、馬子は穴穂部からすると敵対的臣下である。
そういう関係だからこそ特に前置きもなく、穴穂部王子は唐突に思えるくらいの勢いで本題に入った。
「ざっくばらんに言わせてもらおう。
近頃の三輪君逆の専横は目に余る。大王に対して災いと成りはせぬか、国にとって厄災となりはせぬかと懸念しているのだ。
君側の奸を取り除くに躊躇する必要はあるまい。
悪い芽は早く摘み取らねば、畑全体に害をもたらすとも言うだろう。
一刻も早く、三輪君逆を討たねばなるまい。すぐにでも、この穴穂部が計画を実行に移そうかと考えている。
そうなった時に蘇我氏は力に成ってくれるか」
馬子はゆったりとした動作で穴穂部王子に向き合った。
「三輪君逆が前の大王の寵臣として実権を振るい、現大王をないがしろにしているとあらば、それを取り除くことには何の異存もありません」
「おおーっ、では!」
「お待ちくだされ。
この私はこの通り猪首で目つきも悪く、風采の上がらない男でございますが、それでも美しい炊屋妃は我が姉・堅塩姫の娘、姪にございます。
その炊屋妃のいる殯宮に押し入ろうとした理由をお教え下さい」
「そんなことを言えば、俺だってお前の甥だ。下らないことを聞くな!」
「この馬子は姉の堅塩姫からよくよく娘・炊屋妃のことを頼まれています。
なればこそ長年の堅塩姫と小姉君の子供達同士での諍いにはほとほと困惑しておりました。そこへこの度の騒動です。
よもや穴穂部王子は、かつて茨城皇子が磐隈王女にしたように、炊屋妃を犯すつもりで押し入ろうとしたのではないでしょうな」
話の途中から穴穂部は青ざめていたが、しまいには顔を赤くして怒りを露わにした。
「無礼であろう!
その噂、我が母と我が兄弟を貶めようという悪意を感じるぞ。そんな風評を真に受けるとは蘇我大臣ともあろうものが・・・・・・・・些細な悪評にとらわれるようでは、大儀を見失うぞ。
大人しく三輪君逆を取り除くのに力を貸せ」
「穴穂部王子の大儀は分かりましたが、私目にとって三輪君逆は姪を守ってくれた恩人。それを無碍に討ち取ることは出来ません」
「そのような世迷い言、話にならぬわ!誰からそんな馬鹿げた噂を仕入れたのだ」
「穴穂部王子、あなたの弟君ですぞ!」
穴穂部は思わず立ち上がると座っている馬子を蹴り飛ばした。
「言え!泊瀬部はどこにいる!」
「そのように激情を隠すことなく粗暴に振る舞われるとは!あなたが足蹴にしているのは大王に仕える大臣ですぞ!
穴穂部王子のその振る舞いこそが、あなた御自身の信用を落とし、その身が大王に相応しくないと如実に語っているのにお気づきになりませんか!
お教えする謂れもありませんが、この馬子が隠し事をしていると疑われるのは不本意でございますからお答えしましょう。私は泊瀬部王子の所在など全く知りません。大臣の仕事に王子のお守りなどありませんので」
穴穂部の剣幕や暴力にも全く臆することなく堂々と意見する蘇我馬子の胆力に、穴穂部王子は気圧されてしまっていた。
「王子が私怨で三輪君を討とうというのなら賛同致しかねます。
そんなことをこれからも繰り返していくおつもりなら、王子が望む地位は離れていくばかりになります。それだけはよく肝にお銘じ下さい。
――それと、当然、王子の私怨絡みの狼藉に大臣が力を貸すこともありません」
そう言うと、王子の許可も待たずに馬子は手早く挨拶を済ませて立ち去っていった。
蘇我馬子が去った後も、穴穂部王子はしばらく身じろぎもせずに馬子が座っていた場所を睨みつけていた。
しばらくそうしていたが、急に何かを思い出したかのように勢いよく立ち上がると表に飛び出した。
「馬、引けぇ」と一声叫ぶや、穴穂部王子は馬で出かけていった。
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穴穂部王子が向かった先は物部大連守屋の屋敷であった。
既に物々しく百名以上の兵が武具に身を固めて並んでいた。
「馬子の協力は得られそうですかな」と穴穂部王子の姿を認めると大連は尋ねてきた。
「いや、邪魔立てはしないようだが、協力までは出来ないと」
「小心者の馬子らしい。
蘇我氏は財力と血縁でのし上がってきた家系。こうした荒事は苦手なのでしょうな」と守屋は笑い飛ばした。
「ただ、大層な気迫で『狼藉に大臣の力を貸せぬ』と言い放ちおった」
「狼藉と!
あのような小臣(こまえつきみ)には事の大小を見極めることは出来ぬものですな。
気にすることはありません。
王子が大王に即位された暁には滅び行く一族になるのです。
ここから、王子の英雄譚が始まります」
「英雄譚か」と穴穂部は得意になった。
彼は自ら兵を率い、池辺双槻宮を取り囲んだ。
だが、既に三輪君逆が逃げ去ったことを聞かされた。
穴穂部と守屋は三輪君逆が逃げ込んだと報せがもたらされた広瀬の殯宮へ急行する。だが、そこに待ち受けるのは蘇我氏の派遣した武装兵と大王の衛兵達であった。
蘇我大臣馬子が進み出て、穴穂部と守屋に向かって怒鳴った。
「狼藉者め、何しに来おった!」
「知れたことを!三輪君逆を出せ!」と守屋が馬子に対抗して前に進み出た。
「訳語田大王の殯宮に向かって武器を向けるとは不届き以外の何物でもないぞ!
三輪君逆は前の大王と炊屋妃に暇乞いの挨拶を済ませると『迷惑を掛ける訳には参りません』と立ち去ったわ。
事の善悪の区別も付かなくなった野心家どもとは随分と心がけが違うようだ!」
この馬子の言葉に穴穂部王子は顔色を失った。それを見て守屋が慌てて答える。
「小臣のくせに黙れ!
大空を知る鳳の心を、小雀が分かるはずもないわい!」
捨て台詞を言うと守屋は自軍のところまで引き下がり、馬子も殯宮の中に引き返した。
そのまま両軍が緊張状態のまま睨み合いである。
三輪君逆が居るという確たる証拠もなしでは、さすがの守屋も殯宮に向かって攻撃を
踏み切れない。
そこへ守屋が各地に放っていた伝令が到着し、海石榴市(つばいち)の宮に三輪君逆が一族と供に身を潜めているという情報がもたらされた。
「馬子!
三輪君逆の所在が分かったぞ。奴が退散してくれて命拾いしたな!
だが、いつでも物部氏が大人しく引き下がる訳では無いぞ。
次にこのような機会があった時は覚悟しておけ!」
こうしてこの時は蘇我氏と物部氏の直接的対決が回避されたのである。
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この夜、殯宮には三輪君逆が二人の子供もろとも討ち取られたという報せが届けられた。
それを聞くと、炊屋妃は声を上げて泣き出した。
「どうして、どうして、こんなことになってしまったのでしょう。
前の大王の寵臣・・・・・恩人が血を分けた兄弟に殺されるなどと・・・・・」
「炊屋妃様、おいたわしや。
必ず、必ず、不逞の輩には罰が下されることになります。
例え神々が忘れようとも、この馬子の目が黒いうちは奴等に安逸な日々を将来に渡って与えることはありません。
怨讐を晴らした暁には、理想の国造りに励み、御仏の教えを広めます。その後は御仏の慈悲におすがりし、我が罪をあがないましょう。
今はどうか、ご辛抱ください」
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