第4章 穴穂部王子 その2 殯の宮

三輪君逆の護衛と道案内の任を大王である父から言いつかり、麻呂子は誇らしい気持ちであった。


一方の三輪逆はと言えば「童ごときに」と当初は感じたことであろう。

もっとも姿を現した麻呂子とそれに従う拓磨の二人ともが五尺五寸(約一六五センチメートル、当時としては長身)を超す背丈であり、挨拶こそ丁重であるが三輪君を文字通り見下ろしてくる。

大王の指示でもあるし、見たところは頼もしくも感じられるから「一応は従うか」と言うのが、出発時に三輪逆が抱いた正直な気持ちであった。


「三輪君(みわのきみ)、それほど時間の余裕がある訳ではございませんので、急ぎましょう」と麻呂子は三輪を促した。


三人は馬に乗り、三輪君逆を前後から挟み込むようにして、麻呂子が先導して出発した。


葛城の手前で馬に乗った武者の先導する一団が見えた。人数にして十五―六人といったところであろうか。


麻呂子は三輪君に尋ねた。


「殯の宮の警護は幾人ほどでしょう?」


「二―三十人ですかな」


ならば、我らが先に到着して警備の者達に警戒を呼びかけ待ち受けられるようにすれば、勝負は付くだろうと麻呂子は考えた。


問題は、如何にしてこの集団に気づかれぬように追い越し、どのようにして先に広瀬に辿り着くか、であった。


「麻呂子王子、東の山を突っ切れば先回りできる」


拓磨が麻呂子の気持ちを先取りしたかのように教えてきた。


麻呂子は振り返った。

三輪君が馬にしがみ付くようにして付いて来ているのが目に入る。


「三輪君、山道を行けますか」


「それしか方策がないのであろう。ならば行くまで」


「よし、その心意気ならば!」と麻呂子は拓磨に向かって頷いた。


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同母の間人妃や、或いは大臣の馬子から「軽率」の誹りを受けた穴穂部王子であったが、訳語田大王の亡き後、橘豊日王子と即位を競って勝てるとは端から期待してはいなかった。

だからと言って大人しく品行方正に振る舞ったところで、大王候補としての順位が上がる訳でもない。

あそこで名乗りを上げたのは、次の次を狙えばこそだった。


だというのに橘豊日大王の御代が長引いてしまえば、却って世代交代の機運の方が上がるかも知れない。

そうなれば自分の努力が無駄になってしまう。


亡き訳語田大王の息子世代と自分の世代が次期大王の座を争う――そうなれば、その中で最も警戒すべきは厩戸王子ということになる。

英才の誉れ高い厩戸王子と同じ土俵に立つことは避けたい、というのが穴穂部王子の本音であった。


だが、今考えるべきは厩戸王子のことではない。

穴穂部王子が危惧しているのは、この度の次期大王決定の経過であった。


ほぼ、次期大王が橘豊日王子と決まっている中で穴穂部王子の売り込みは波乱を呼んだ。


外交政策などの繊細な問題では黙り込むしかない無能な下臣達も、単純そうに見える崇仏か廃仏かという問題には挙って口を挟んで来る。

それは蘇我氏を支持するのか反蘇我となるのかに群臣達を分断するのには便利な口実であった。


それが分かっているからこそ、蘇我馬子は躍起になって穴穂部擁立の動きを封じ込めようとしたのだろう。

物部守屋には穴穂部王子がやりようによっては反蘇我の旗印に使えることが脳裏に刻み込まれたことであろう。


穴穂部王子はここまで思いを巡らせたところで冷たい笑みを浮かべる。


今後は蘇我氏も物部氏も、この穴穂部王子への対応の仕方に気を揉むことになるであろう・・・・・・


だが、と穴穂部はそれまでの楽天的な期待を振り払うように頭を振った。


唯一の誤算は訳語田大王の正后・炊屋妃が議論に終止符を打つために詔を出したことであろう。


新大王即位の断を下した前正后の権威は、訳語田大王の生前よりも遙かに大きくなってしまった。


現大王であっても、今後は炊屋妃の意向に逆らった政策は出しにくいだろう。


そんなことよりも、橘豊日大王に何かあって次の大王をどうするかという段になっても炊屋妃の考えに注目が集まるだろうということが問題であった。

今や彼女には、そこまでの権威が備わっている。


堅塩姫の娘如きに自分の将来を左右させられるというのは、穴穂部王子としては我慢がならなかった。


「あの女をどうにかしないと、俺の野望を成し遂げるのは難しい」


穴穂部王子の思念は憎しみや憤りだけでなく、野望にも猛っていた。


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麻呂子の一行は、ようやく山間を抜けて広瀬の近くに出た。

山道では何度も三輪が馬から滑り落ちそうになるのを拓磨が支え、時には麻呂子が併走して引っ張り上げもした。


三輪は既に息が上がり、汗だくで着衣も乱れていた。

とっくに彼の脳裏からは「童のくせに」などという先入観は消え、「なんと頼もしき若武者達か」という印象になっていた。


平地に出て進む先を見ると、単騎で先を行く者の姿が見えた。


「見覚えがある」と麻呂子が言うと、三輪が「どれどれ」とその者の方に目を凝らす。


薄暮の中であったが、三輪からすれば見間違えようがない。


「あれは宅部王子ですな・・・・・はて、穴穂部とはぐれてどうするつもりじゃ」


「宅部・・・・・・」と麻呂子は思い出した。

「厩戸王子が、腕自慢で穴穂部王子の護衛を買って出ていると教えてくれた王子か・・・・・・」


咄嗟に馬の腹を蹴ると、馬は飛び出すように地面を跳ね、瞬く間に宅部王子に並ぶ。


「宅部王子と見受ける。そこに止まれ!」


宅部は麻呂子に気づいたが、彼もまた馬の腹を蹴ると馬に頭を低くさせた。


これは止まる気がないどころか、こちらを振り切ろうとしていることが明らかであった。

麻呂子も馬を煽って宅部王子を追わせる。

三輪君逆のことにかまけている暇はない。


振り切れないと悟ったのか、宅部王子は馬を返して麻呂子に向き合う格好になるや、弓を取って矢をつがえる。


麻呂子はいっそう馬を煽って速度を増すのと同時に剣を抜いた。


「一射目は避け、二射目は払い、三射目は放たせるな」の教えがあったが、勢いよく距離を縮めていたので、一射目を剣で払うや否や、そのまま宅部に斬り付けた。

宅部王子の方は剣を抜く暇もなく肩から胴に切り裂かれ、そのまま馬から転げ落ちた。


そこで始めて麻呂子は振り返った。


拓磨が三輪君と供にすぐ後ろから向かってきていた。


宅部王子はまだ息がありそうだったが、それに構わず麻呂子は馬を進めながら三輪に伝えた。


「おそらくは、穴穂部が彼を先行させたのでしょう。露払いのつもりか、殯の宮の衛兵を言いくるめて穴穂部自身を迎え入れさせるつもりだったのか・・・・」


「ともかく先を急ごう」と三輪は息を切らせながら叫んだ。


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殯の宮に着くと、馬を降りた麻呂子は「誰か」と声を発した。


門前に警備の衛兵が集まってくる。


「橘豊日大王の第三王子、麻呂子にございます。

炊屋妃に大王より伝えたいことがあって参上致しました。三輪君を伴っております。

是非ともお目通りを願います」


取り次ぎ役の衛兵が中に入って行く。

待つ間に三輪君は居住まいを正す。

慣れない馬での山越えに汗だくになって着衣も乱れていたのだ。


やがて扉が開かれるとそこには炊屋妃が出迎えに姿を現していた。


麻呂子は慌てて彼女の前に進み出でて挨拶する。


「事は緊急を要します。三輪君逆殿から詳細をお聞き下さい。あと、炊屋妃の代理として衛兵に命令を下すことをお許し下さい」


「麻呂子王子、あなた頼もしくお成りね。豊日の兄上は良い息子達をお持ちですね。

分かりました、後のことはあなたに任せましょう」


「頼みましたぞ」と三輪君が言って、炊き屋妃と供に殯の宮に入っていく。

扉が閉ざされるのを見届けてから、麻呂子は衛兵達に指示を出した。

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