第4章 穴穂部王子 その1 事態の緊迫

亡き訳語田大王の殯宮(もがりのみや=遺体を安置する建物)は葛城の北側、広瀬の地に設けられていた。


橘豊日大王が即位された翌年の五月のある夜、夜更けだというのに松明が辺りを煌々と照らし、多くの衛兵が警戒をしていた。


殯の宮の表口で仁王立ちになって命令を下すのは三輪君逆(みわのきみのさかう)である。

彼は亡き訳語田大王に重用された側近であった。


この前大王の寵臣が今宵、殯の宮にやって来たのはある企てを密告されたからだった。


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前日のこと、穴穂部王子は荒れていた。


蘇我大臣馬子の元を訪れ、自らを次期大王として大兄(皇太子に相当する)に推してくれるのならば、仏教布教に協力をしようと申し出たのだ。


「穴穂部王子、そのような話を自分の味方になってくれそうな人、誰にでも吹聴して回っているのではありませんか。この大臣の元には王子が廃仏派の大連らとも懇意に会合を重ねていると教えてくれる者もおります」


「たわけたことを!」と穴穂部はいきり立った。

そのように憤怒の態度を見せたのは、目の前の大臣に対してではなく、大臣にそのような秘密を教唆した者に対してだったかも知れない。

大臣の指摘は、まさに図星だったのである。


穴穂部王子には焦りがあった。


橘豊日大王は虚弱だと噂されていたが、姉の間人妃との面会の後に顔を合わせる機会があり、その様子を直に見たところ、顔色も良く快活に穴穂部の近況などを尋ねてきたのだ。

とても数年の内にこの世を去るような人間には見えなかった。


「謀られたか」と、誰に対してでもなく怒りをぶつけたくなった。


このまま大王の治世が長く続くようであったなら、穴穂部達が属する世代は年を取ってしまい、押坂古人王子が次期大王と目されるようになるばかりか、厩戸王子の名前までが挙げられるようになるかも知れない。

そう考えると苛立ちのあまり、穴穂部王子は居ても立ってもいられない。


何としても自分が大兄(おおえ、今で言う皇太子)となることで次期大王の立場を固めなくてはならない。


そこで、思いつくだけの朝廷の有力下臣と面談を重ね、彼らに都合の良い約束を交わしてきたのだ。

自分に都合の良い話を浅はかに吹聴する輩などいるはずがないと思っていたのだが、実際には自分に都合の良い話を自慢する軽輩が後を絶たなかった。


蘇我馬子は小太りで猪首であった。

訳語田大王の葬礼では「矢を突き立てられた雀のよう」と嘲笑されたこともある。

その猪首の上に乗った顔面に備わる両目から射るような鋭い眼差しを向けられ、穴穂部は焦りに焦った。


「そのような振る舞いを炊屋妃も不快に思われているようです。

あなたの兄に当たる茨城王子(うまらきおうじ)が犯した伊勢斎宮・磐隈王女(いわくまのひめみこ)に対する不埒な行為、あれがどうなったのかお忘れではありますまい。可哀想に磐隈王女は斎宮を解任され、それ以来、表に出ることなく引き籠もったままです。

炊屋妃様はその件を苦々しく覚えており、茨城王子の同腹の兄弟、即ち穴穂部王子や泊瀬部王子に対して良い印象を持たれていない。

そこへ八方美人で、場当たりな約束を乱発する茨城王子の弟君を大兄にするなどと話しましたなら、たとえ大王が許しても彼女が認めないでしょう」


これには志帰嶋大王に嫁いだ二人の姉妹、堅塩姫と小姉君の子供達の対立という微妙な問題を孕んでいる。

堅塩姫も小姉君も馬子の姉であり、堅塩姫の子供が橘豊日大王・磐隈王女と炊屋妃、小姉君の子供が間人妃・穴穂部王子と泊瀬部王子なのだ。


穴穂部は馬子の言葉の裏に潜められた意味にカチンときた。


「何を、臣下の分際で俺に説教しようと言うのか!無礼にも程があろう!」


穴穂部はそう叫ぶと席を猛々しく蹴って立ち上がった。


次の間に待たせていた宅部王子に声をかけると大臣の屋敷を後にした。


「いくら何でもあれはまずいぜ」と宅部は穴穂部を諫めるように言った。

「相手は大和随一の実力者だ。睨まれれば、お前さんの大兄の芽がなくなるぜ」


「お前は俺に意見などするな。お前は俺を警護してさえいればいいんだ。

・・・・・・・・いやなに、馬子と話をしていて面白いことを思いついたんだ。あいつが俺に思い出させてくれたと言った方が良いかな」


「どうせろくでもないことを思いついたのだろう」


「いや、なかなかの名案だ。馬子にも吠え面かかせてやれる一石二鳥の名案だ」


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その夕刻のこと、池辺双槻宮を泊瀬部王子が訪れた。


「間人姉上、助けてくれ。

穴穂部兄が、殯の宮の炊屋妃を今夜にも襲うというのだ」


泊瀬部王子の言葉に間人妃は驚愕し、同席していた大王の方を振り返った。


橘豊日大王は怒りに顔色を変えていた。

十年近く前にも妹の磐隈王女が斎宮として天照大御神にお仕えしていたというのに、やはり小姉君の息子である茨城王子に犯され、その任を解かれた無念を思い出したのだ。


太后として身を守られているはずの妹・炊屋妃が再び小姉君の息子に凌辱されるなどと言うことがあって良いはずがない。


「誰か!」と大王が声を上げると、そばに控えていた厩戸王子がすかさず助言した。


「蘇我氏や物部氏と関係のない者に行かせましょう。こんなことを両氏の争いに利用されては厄介事が増えるだけです」


もっともな忠告に大王はむしろ驚いた。

こんな時にも冷静な判断を素早く下せるとは、と息子ながら末恐ろしいとさえ思ったのだ。


「ならば・・・・・・・三輪君逆を呼べ」


三輪君逆は亡き訳語田大王の寵臣である。

彼ならば炊屋妃からも信頼されているはずだった。


大王の前に参上した三輪逆はすぐにも広瀬の殯の宮に出立しようとした。

猶予がどれほどあるかは分からないのだ。


「道に詳しい者に案内させよう」と言いつつ、橘豊日大王は迷った。


誰が詳しい?

穴穂部と出くわしても機転が必要だろう。

腕力だって要るかもしれない。


「恐れながら」と茜が廊下に膝を付き、声を掛けてきた。


「茜、どうした」


「今、私の元に麻呂子王子が訪れておりますが、彼ならば道行きも詳しく、腕前も確かかと」


橘豊日大王は、赤く頬を染めながらも澄まし込んだ茜の顔を、意外な気持ちで眺めていた。

こんな時でなければ冷やかすような言葉でも掛けてやるところであったが、状況がそれを許さない。


「よし、麻呂子をすぐに呼べ」

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