第3章 大王家 その3 許嫁

「亡き訳語田大王のご兄弟では橘豊日大王が最年長であり、思慮分別や人望から言っても速やかにご即位が決まるはずだった。ところが穴穂部王子が序列を飛び越して『大王になりたい』と群臣会議に飛び入りしてきやがった。

しかもだ、穴穂部王子は声高に『天に悖る政治をしてきたから、亡き大王の治世では東国で噴火が繰り返され、不作も続いた。こんなにも疫病の流行が収まらないのだって政治が誤っているからだ。これを変えるには世の中を一新しなくてはならない。そういう変化を期待するのは橘豊日王子には無理な話だ。それが可能なのは、この穴穂部しかいない。慣例に囚われずに群臣会議が私を大王に推戴すれば、現状を変えることが出来るのだ』などと不遜な言動を吐くじゃないか。

軽率な王子の戯れ言と誰しもが感じただろうが、蘇我の血筋から大王が出るのをよく思わぬ連中には面白い騒ぎだったろうな。まぁ、物部大連守屋や中臣連勝海(なかとみのむらじのかつみ)といった、いつもの連中のことだ。

まったく、軽率な王子に群臣会議がかき回され、それをもてはやす連中までがいたおかげで余計に時間が掛かってしまったわい。

穴穂部王子の言う通りに問題山積の状況であるならば、大王を誰にするか悠長に時間を費やしている場合ではないと言うのに。

それに仏教信仰がなければ朝鮮半島情勢に干渉してくると予想される大陸の帝国との交流もままならん。だと言うのに穴穂部王子はそこについては結論を先送りして、決定をしないままにすると言う。対立を生まぬ形で制御してみせる、と大ぼらを吹くだけだ。

出来ぬ事を口で言うだけは易い。

あれでは単に蘇我と争う者の支持を取り付けようとしているだけにしか見えん。そうした自分のしていることの意味も分からぬ痴れ者には大王なんぞ夢のまた夢。物部守屋と中臣勝海を喜ばすぐらいのものよ。

話せば話すほどに、みな呆れるばかり。その気配にさすがの守屋も推すのを断念せざるを得なくなったわい。

そんな空気に気がついていないのは当の穴穂部王子ばかり。あれでは駄目だ」


馬子の愚痴に間人妃は赤くなったり青くなったりであったが、そんな様子に大王は気がつかぬようであった。


その様子を見て「夫婦というのは大変なものね」と麻呂子のそばへ酌をしに来た茜が呟いた。


「どうしてですか?

父上は大王の役目を果たすことにだけ集中していけば、間人妃は内助を惜しまないでしょう。それが后の役目なのですから」


「知った風な口を利くね。

お兄様は間人妃を大切にお思いだけど、馬子の手前、大臣の話に感心して聞き入った態度を示して、間人妃の気持ちになんか少しも注意を払っていないという態度を敢えて見せているの。

それは御仏の教えを広めるためには蘇我家の協力が必要だから。大王は自分の役目は大八洲に御仏の教えを広めて民衆を分け隔てなくお救いする事とお考えなの。

そのために間人妃の苦しみに気づかぬふりをする・・・・・・・」


「それはおかしい」と麻呂子は反論した。


「本当に大切に思っているのなら、大臣殿にもその気持ちが分かるように振る舞って、そんな口の利き方をさせぬようにしなくてはいけないと思います」


「あれ、分かった風な口を利くね。でも、それはあなたの考えでしょ」


「私は父に、母に対してそのように振る舞って欲しい」


麻呂子は思わず顔を伏せた。

どうという訳でもなく口惜しかった。


決して茜の言っている意味が分からなかったのではない。

むしろ、父と后の間に在る信頼に嫉妬しての反発であったかも知れない。

父と自分の母との間には、そんな信頼があるのだろうか・・・・・・・


そんな思いの麻呂子が固く握り絞めた手に、茜がそっと手を添えた。


「麻呂子・・・・・あなたは優しいね」


麻呂子はギクリとした。


盗み聞きの薄暗がりの中でも手を添えてもらったが、こうして改めて触れてみると彼女の手は信じられないくらいに柔らかく、心地よかった。


悔しさや嫉妬の気持ちは瞬く間に雲散霧消していった。


ただ何となく予感めいたものが心に芽生えていた――この支えがあれば自分はもっと勇気を振り絞って、何ごとにも立ち向かっていけるだろう、と。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


翌日、麻呂子は父である橘豊日大王から直々に呼び出され二人きりの場で話をした。


「父上、此度は大王にご即位、おめでとうございます」


うむ、と大王は頷いたが、すぐに息子に固くならずに近くに寄るように言いつけた。


「麻呂子、私が大王になった以上、お前は大王の息子である。

何を当たり前のことを、と感じるかも知れないが、あらゆること全てが異なってくる。

私はお前を第三王子にしようと思っている」


麻呂子は思い出した。

父にはもう一人年上の王子、つまりは厩戸王子と麻呂子の両方にとっての兄がいることを――


「第一王子は厩戸王子、第二王子は来目王子、そなたが第三王子だ」


麻呂子は思わず顔を上げ、父の顔を見た。


来目王子は厩戸王子の同母弟、つまりは麻呂子よりも年下である。


「麻呂子よ、済まぬが正后の息子を優先させてもらう」


慌てて――自分の表情を隠すためにもであったが――麻呂子は頭を下げて「はっ」と返事をした。


「お前には不満もあるだろうが、我慢してくれ」


「とんでもございません。この麻呂子にどうして不満などありましょうか」


麻呂子は無邪気を装い、その顔を上げた。


父は心配そうに麻呂子の様子を窺っていたが、麻呂子の穏やかな表情にその真意を探ることを諦めたようであった。


「それともう一つ頼みがある」


麻呂子は静かに父の言葉を待った。


「茜のことだ。麻呂子は茜のことをどう思う」


完全な不意打ちであった。全くの予想外の質問・・・・・・


「お強い方です。芯の強い方、それでいて聡明な方と思います」


父は麻呂子の返事に溜め息をついた。


「そんなことをあれの前で言ったら、はたかれるぞ」


「は?」


やれやれ、と言うように大王は首を振った。


「まぁ、十三歳では仕方がない。女の褒め方を麻呂子に求める方が無理か・・・・・

茜の将来についてなのだが、お前に託したいと考えている」


「え?」


大王は、意味ありげな含み笑いを浮かべた。


「分からぬか。

将来のお前の嫁にどうかと言っているのだ。もちろん、お前がもう少し大人になってからの話だ。

つまりは許嫁の約を交わしておいてはどうかと言っているのだ」


まさに青天の霹靂の話に麻呂子は卒倒しそうになった。

ただ、ここで気を失っては面目が立たないと気力を振り絞って耐えた。


「ち、父上の・・・・・・・・お、大王のご意向であれば、それに従いましょう」


大王は動揺を露わにする息子の様子を楽しんでいるようであったが、慌てふためきながらも決して嫌がっていないのも見透かしていた。


「であれば茜にも伝えておこう。

彼女も喜ぶであろう」


「そうでしょうか!」


思わず上げた麻呂子の大声に、大王は満足そうな笑い声で応えた。

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