第2章 大王崩御 その3 兄と弟
穴穂部王子の言葉は続く。
「・・・・・・・穏健な橘豊日兄上では意見の対立している課題に果断な決定をするのは難しい。
おそらくは妥協の上の決定しか下すことが出来ないのではないか。
それでは天の怒りは収まらず、天候不順が続き、疫病もまだまだ蔓延ることになる」
麻呂子は思わず怒りに拳を握りしめたが、その拳の上にそっと茜の手が乗せられてきた。
驚いて茜の方を振り返ると、彼女は黙って首を振った。
「穴穂部、あなたは自分の言っていることの意味が分かっているのですか。
あなたは私の夫を侮り、貶めているのですよ」
「姉上、私は建前抜きの話をしている。本当のことを恐れずに口に出来なくては議論する意味が無い」
女性が深く溜め息をつくのが隣の部屋にいても聞き取れた。よほど腹に据えかねているらしい。
「では世の中を変えるためにはどうすれば良いのですか」
「私を大王にしてもらいたい」
「・・・・・・・・穴穂部、機会があるのならあなたはいつか大王になるべき人物と私も考えていましたが・・・・・・・・・
あなたが軽挙妄動に走らなければ、そういう未来があるかも知れないと期待したこともありましたが・・・・・・・・
あなたは自分の言っていることの意味すら分からない愚か者です。
大王になりたいと言うことは、私の夫に早く死んで欲しいと言うも同然。
そんなことを口に出来る人物を豊日に引き立ててもらうことは出来ないわ」
「世の中を変えるには苦痛を伴うもの。
そのためには建前や礼儀に囚われていることこそ愚かだ。
豊日の兄上が大王要請を拒否して、私を次期大王に推さないのであれば、私だけではなく多くの民が次期大王の治世が短くなることを願うだろう」
穴穂部の言葉に間人妃の怒りが隣の部屋にいても伝わってくるようであった。
同時に麻呂子の拳に添えられたままの手からも怒りから来る震えが感じ取れた。
「あなたは御仏の教えを一体どうするつもりなの?」
「豊日の兄とは別の方法で折り合いを付けられる。
・・・・・・・例えば、仏教の布教を認める代わりに蘇我馬子には隠居してもらうとか・・・・・」
「それが穴穂部の考えなの?それとも物部や中臣の人間に吹き込まれたこと?
もしもあなたの発案なら、私は穴穂部のことを見誤っていたことになる・・・・・・
お前は軽率なのではなく愚かなのだわ」と間人妃の深い悲しみのこもった溜め息が聞こえてきた。
「姉上、一体誰に向かって言っているのだ。物事は多くの面から眺めなくてはならない。一面しか見ずに決めつけては見誤る。姉上は自分の夫に大王に成って欲しいと願うあまり、他のことが見えなくなっている。世のためを願うのならば、私の言うことをよく考えてみることだ」
「いや、兄上、姉君の言うことはもっともな話です」
初めて発言した別の男のことを「誰だろう」と麻呂子は考える。
「多分、泊瀬部王子。穴穂部王子の弟よ。どうやら小姉君の子供が揃ったようね」とは、茜の言葉。
それに対して「いや、もう一人いるようですよ」と拓磨が囁いた。
――泊瀬部王子らしい者が続けて言うには「馬子がいなくなれば、それこそ廃仏派は遠慮容赦なく仏教信者に弾圧を加えることになるでしょう」
泊瀬部王子の言葉に穴穂部王子が黙り込み、間人妃も口を開くことはなかった。
麻呂子は思わず、茜が手を添えていてくれた拳を引っ込めた。
と、緊張と怒りに身を固くしていた茜が、姿勢の平衡を崩したのかつんのめるようにして床に手を付く。
ギシッと床板が鳴った。
麻呂子と茜、拓磨が息を呑んだ。
隣の部屋の人間も物音に飛び上がらんばかりにして驚き、身構える気配が伝わってきた。
どうする、と麻呂子は拓磨を振り返り、それから茜の顔を見たが、誰しもが言葉もなく固まっていた。
隣室の誰かが立ち上がる気配がした正にその瞬間、表側から声をかける者がいた。
「そちらに母君はおりませんか?明かりが見えたので探しに参ったのですが」
「厩戸、どうしたの?こんなところへ」
「父君から母君を呼ぶように言われたので、あちこちと探していたのです。離れに明かりが見えたので、もしやこちらかと」
「久しぶりに弟たちが来てくれたものだから、少し話し込んでしまったわ。
すぐに行きます。お前達も来なさい」
そうして隣の部屋から何人もの人間が立ち去っていく音が聞こえ、やがて静まり返った。
「肝を冷やした、とは正にこういうのを言うのだな」と危機を脱した安心から麻呂子が気の抜けた声を上げた。
「あなた達に付き合ったばかりに思わず恥をかくところだったわ」
「無事で良かったです」と拓磨がしみじみと言いながら戸を開けた。
戸を開けた瞬間、そこには――・・・・
――部屋の前に立つ人物の姿に、三人は声を上げることも出来ずに腰を抜かしてへたり込んだ。
「危ないところでしたね」と穏やかな声が響く。
その部屋の前に立つ人物から発せられたと麻呂子が気づくのには幾分かの時間があった。
「う、厩戸王子ぃ~」と茜の悲鳴に近い安堵の声が微かに発せられたのが遠くから聞こえてくるように感じられた・・・・・・・・
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