第2章 大王崩御 その2 密談

一行を迎え出たのは舎人王女(とねりのひめみこ)であった。

彼女は橘豊日王子の末の妹であり、普段は茜と呼ばれていた。


「豊日お兄様には麻呂子王子の世話をするようにと申しつけられています。

宜しくお願い申し上げます」


そう挨拶をして上げた顔は、麻呂子には花のように輝いて見えて、思わず顔を赤らめてしまった。

ふと見ると、拓磨も照れたように頬を染めていた。


彼女はそんな若者の様子に気づいていたはずだが、「麻呂子王子、わたしはあなたの叔母ですから、そのように呼んで下さいね」と言って、そのまま宮の敷地の中を先導して二人が滞在する部屋のある離れへと案内してくれた。


「今の時期、豊日お兄様は訪問客が多くてお忙しいから、この離れの方が静かで過ごしやすいと思うの」


「ありがとうございます」と麻呂子は頭を下げた。


しばらく荷を解いたりしていると、辺りが薄暗くなってきた。


「明かりを取って来ます」と茜が立ち去って、かなり経ったであろうか。

茜が向かったのとは反対の方向から何人かが向かってくる音が聞こえ、少しするとどやどやと一つ間を置いた部屋に入った様子であった。


麻呂子と拓磨は誰かが自分達に会いに来たのかと大人しくしていたので、声をかけそびれてしまった。


「ここなら誰からも聞かれる心配は要らないわ」という女の声が聞こえた。


彼らが入った部屋には明かりが灯され、何やら話が始まったらしかった。


「なあ」と麻呂子が声をかける。

拓磨は黙って頷いた。


すぐに麻呂子は隣の部屋に忍び込み、壁に耳を寄せた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「このまま事が運べば、橘豊日が大王に即位することになるでしょう」と女の声が聞こえてきた。


「それでは堅塩媛(きたしひめ)の子供ばかりが重用されていることになるじゃないか。

連中ばかりが偉くなる。

炊屋妃(かしきやひめ)は前の大王の王后になった。今度は橘豊日が大王か。

我らの母の子は忘れ去られたみたいじゃないか」


麻呂子には何となく合点がいった。


先々代の大王(志帰嶋大王=欽明天皇)は蘇我稲目の二人の娘を娶った。

一人が堅塩媛であり、もう一人が小姉君(こあねぎみ)であった。


前の大王(訳語田大王=敏達天皇、母は石姫王女)は堅塩媛の娘・炊屋妃を正后にした。

次の大王と目される麻呂子の父・橘豊日王子も堅塩媛の息子なのである。


とすると、ここで愚痴めいたことをこぼしているのは小姉君の子供達だろうか、と麻呂子は見当を付けた。


「おい、拓磨」と麻呂子はそっと囁いた。


こんなところへ茜が明かりを持って入ってきたら面倒になるから、明かりを消して連れてくるようにと頼んだのだ。

拓磨はすぐに麻呂子の意図を理解し、茜を迎えに行った。


少しして茜を連れて拓磨は戻ってきたが、茜は薄暗い中でも明らかに不愉快そうな顔を浮かべているのが分かった。

今にも文句を吐き出しそうなのを、人差し指を立てて「声を立てないように」と合図を送った。


茜が眉を顰めて考えあぐねるようにした時に「穴穂部、あなたは不満ばかり言うけれど、橘豊日が大王になると言うことは、私が正后になるという事よ。母の小姉君の子供がみんな不遇だということにはならないわ」と言う女性の声が聞こえてきた。


その声に茜は明らかに驚いたようで、口を閉ざすとすぐに麻呂子の隣で耳を澄まし始めた。


「あれは豊日お兄様の后の間人妃様よ」と茜が聞こえるか聞こえないかの微かな声で伝えてきた。

麻呂子は黙って頷く。

「どうやら、話し相手は穴穂部王子。間人妃の同母弟よ」と、茜はすぐ側にいても小さな虫の羽音のようにしか聞こえない小声で教えてくれた。


こうして三人は隣の部屋から聞こえてくる密談に揃って耳をそばだてた。


「確かに間人姉さんは王后になるだろうが、それで我が兄弟が堅塩媛の子供達と同じくらいに厚遇であるというには足りない。我らが不遇なのは姉上にだって分かるだろう」


「穴穂部、あなたは大胆な発想の持ち主だし、人並み外れた実行力もあるし、将来の国を背負うべき人間だと思う。正直に言って、兄弟の中で私は最も期待しているの。

だけど、そういう事を軽々しく口にしていては、発言者まで軽々しくなってしまう。

あなたはややもすると行動のせいで軽率な人間だと思われている。それはあなたにとって勿体ない話だわ」


「それは姉上の意見に過ぎない。

私こそ次の大王に相応しい、と言ってくださる方もいる」


「それは表立って蘇我氏と反目しようという連中でしょ。

或いは廃仏派かしら」


その問いに答える穴穂部王子の声は聞こえてこなかった。

麻呂子が不思議に感じて茜に問い掛けようと口を開きかけたが、今度は彼女の方が人差し指を口の前に立てた。


ややあって再び間人妃の声が聞こえてくる。


「そんな連中とあなたが交流している様は傍からどんな風に見えているのか、考えて。

彼らは蘇我氏の血を引く王族の間に亀裂を生じさせ、その上で廃仏派に取り込もうとしているの。でも、あなた方も私も蘇我の血を引く者なのよ」


どうやら間人妃が話している相手は一人ではないらしい。


拓磨が驚いたのを気取ったのか、麻呂子と茜の二人が拓磨の方を向いて人差し指を立てた。拓磨は思わず唇を固く引き結んだ。


「いいこと、自分に良いことを言ってくれるからと、その相手が必ずしも味方とは限らない、と言うことも学んでいかないと」


「姉君はそう悠長なことを言うが、今の世の惨状こそ見なくては。

父の代(志帰嶋大王=欽明天皇)には東国で繰り返し火山の噴火があったと言うではないですか。(異母兄の)訳語田大王の御代には天候不順の上に疫病までが蔓延した。

これは先々代大王から前の大王まで続けてきた政を天が否定していることの表れではないか。果たして橘豊日が即位したからと、天の定めに沿うた政を行えるようになるのか」

・・・・穴穂部王子の口答えは次回でも続きます。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る