第2章 大王崩御 その1 池辺双槻宮へ
訳語田大王の治世が始まって十四年目の八月十五日(敏達十四年=西暦五八五年九月十四日)、ようやく残暑も終わる頃のこと、病に伏せられていた大王が崩御なさった。
既に疫病が蔓延し始めて何年も経つ。
この時の病気は現代では天然痘であったと推測されているが、――まだ伝染病とは何であるかも知られていない時代のことである――神罰や祟りのせいとする迷信は根強かった。
そのためか庶民のみならず朝廷に関わる者達の間でも、疫病が収まらないのは大王家の統治が間違っているせいだと噂され出していた。
つまりは「大和王朝の失政のせいである」と言うことだ。
特に、民衆の間では大王が大連(おおむらじ)に仏像と仏殿を焼かせたことで罰が当たったのではないかと囁かれていた。
当初は仏教信仰を容認していた大王であったが、廃仏派の物部大連守屋(もののべのおおむらじのもりや)が「疫病が収まらないのは仏教受け入れたための神罰だ」と強く主張し、「仏教禁止令」を出させることに成功していた。
この勅令を楯に物部氏が、蘇我氏の建てた寺を焼き払ったのだが、この事件を耳にすると多くの者は眉を顰めた。
しかも、禁止令を出し、寺や仏像を焼いても、病勢は衰えるどころか、大王までが病に倒れる事態になってしまった。
これで仏教信仰に対する神罰という噂は立ち消え、反対に仏教禁止令が病の沈静化しない原因ではないのか、という噂さえ出始めた。
そんな噂に対して物部大連守屋は「疫病は仏殿建立時から流行りだしたのだ」と真っ向から否定した。
飽くまでも「異教を広めたために下された神罰だ」と主張し続けたのだ。
大王の喪と次期大王を誰にするかとの議題で群臣達が集まった時にも、やはり守屋は廃仏論を譲らず、御仏の教えを信奉する蘇我家と近しい王子が即位することに難色を示した。
これに対して橘豊日王子を次期大王に推す蘇我大臣馬子(そがのおおおみのうまこ)は強く反論した。
「そいつは不敬な物言いじゃないのかい。
大王は廃仏の詔を出したのに神罰が下ったことになる。その言いつけを実行した誰かさんは生き延びたというのにだ。まるで大王の方に自分より大きな落ち度があったとほのめかしているようにしか聞こえない。
いやいや、その誰かさんこそが大王にそんな考えを吹き込んだ張本人かも知れないな」
大臣・馬子の反論に守屋は「たわけたことを!」と叫んだきり、この話はしなくなった。
大王だけでなく、時を同じくして大臣も大連も病にかかり、闘病に苦しんだのである。
筆舌に尽くし難い苦しみを味わったというのに、回復してくれば以前と変わらずに仏教信仰で言い争う――ありがたい三宝の教え(仏教のこと)に対して我らはなんと不遜であることか、と蘇我馬子は思う。
それと同時に、言い負かしては見たものの心中で馬子は厩戸王子に対して「畏れ入った」と舌を巻いていた。
先ほどの反論は、池辺双槻宮へ橘豊日王子を次期大王に推す挨拶に行った時に、厩戸王子に言い返された台詞だったからだ。
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「順当に行けば、橘豊日王子以外に次期大王たる人物はございませんが、疫病が蔓延している情勢では、廃仏派から反対意見が多く出るかも知れません」と挨拶した時に、すぐ側に居た厩戸王子が反応した。
「それは変な話ですね。
大王は仏像・仏殿を焼くように御命じになり、それを大連が実行したのです。
だと言うのに八百万の神々から大王には神罰が下され、一方の大連は息災でいる。
まるで大王にだけ落ち度があったと言っているようなものではありませんか。
そのような考えは大王に対する不敬に当たるのではないですか」
あの時は蘇我馬子が言い返せないほどやり込められてしまったのだが、今はこうして同じ思いを守屋に味あわせている。
溜飲が下がるだろうと想像していたのに、却って肝が冷えるばかりである。
だが、馬子は先の見通しに期待を膨らませていた。
「これで蘇我家の親戚筋から大王が即位することになる。しかもそれが御仏の教えにも造詣の深い橘豊日王子なのだから、今後の蘇我家の権勢は一層大きくなるだろう」と。
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九月になると、葛城にいた麻呂子の元に池辺双槻宮に来るようにと連絡が入った。
麻呂子は家人とともに宮に赴いたが、身の回りを世話する舎人として拓磨を連れていた。
「闇知らずの森」の事件から既に三年が経ち、二人とも十三歳になっていた。
麻呂子は背も伸び、今では体格的にも拓磨に引けを取らない。
二人の関係は王子と舎人の間柄ではなく、昔ながらの友人のままであった。
葛城ではそれで問題なかったが、飛鳥で過ごすようになっても同じままでいられるのか、と母の広子は心配していた。
「あなたは王子ですけれど、決してお父様の跡を嗣ぐ立場ではありませんから、身分の上下を鼻に掛けるよりも、お友達を大事にしなくてはいけませんよ。
池辺双槻宮の異母兄弟達は橘豊日王子様の家を継いだり要職に就かれたりする方々。でも、あなたは葛城で領民と供に生きていく人間なのです。同郷の友人を大切にしなくてはなりませんよ」
「お母様、そんなこと当たり前です。
拓磨は私の友です。粗略に扱うはずもありません」
「今のお前がそう感じていることは分かっていますけど、お父様の宮で王族とその使用人の関係を見てしまうと、今までの気持ちを無くしてしまうのではないかと不安なのです」
「私が心変わりするはずありません。
もしもそんな様子があったなら、お母様からも注意して下さい」
母は息子を抱きしめた。
「体に気をつけるのですよ。ちゃんと食事して、体を冷やさないように。
それに身だしなみや立ち居振る舞いにも気をつけるのですよ。あなたは日子坐王(ひこいますのみこ)の子孫でもあるのですから、その誇りは忘れないで」
「お母様、私が遠くに行ってしまうみたいな物言いですね。
葛城から飛鳥までは、そんなに遠い訳でもないのでしょう?今度のお父様からの用事が終わったらすぐに戻ってくるのですから」
「そうだったわね。でも、お前と離ればなれになるなんて今まで無かったことだから」
「すぐに帰ってきますから、心配なさらないで下さい。
麻呂子は必ず無事に戻って参りますから」
こうして麻呂子の一行は朝に葛城を発ち、ゆっくりと道中を進み、夕方には池辺双槻宮に辿り着いた。
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