第1章 「闇知らずの森」と「御仏の教え」 その4 野心

麻呂子王子が「闇知らずの森」に足を踏み入れた事件があったのと同じ年のこと。


さて、訳語田大王は先代・志帰嶋大王(しきしまのおおきみ=欽明天皇)の長男である。

訳語田大王の即位後は、そのすぐ下の異母弟・橘豊日王子が次の最有力大王であろうと言うのが衆目の一致するところであり、兄弟相続は慣例でもあった。

もちろん訳語田大王が長生きをして、現・大王の兄弟世代が適齢期を過ぎてしまえば、それは不変の決まり事ではない。


穴穂部王子もまた志帰嶋大王の王子の一人であった。


この穴穂部王子は「兄弟の中では自分こそが大王に最も相応しい人間である」と漠然と信じていた。

異母兄の橘豊日王子に嫁いだ同母姉の間人妃までもがなぜか穴穂部王子の大言壮語を信じるようになっていた。


この頃の王族は血統を護るために、異母兄弟での結婚は認められていた。

橘豊日王子の母は蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ=蘇我稲目の娘)であり、間人妃の母は蘇我小姉君(そがのこあねぎみ=蘇我稲目の娘)という、同じ志帰嶋大王の異母兄妹同士の夫婦であった。

つまり、穴穂部王子は間人妃からすれば同じ母を持つ弟だったのである。


おかげで何かというと間人妃から声がかかり、池辺双槻宮に呼び出されるのである。


「兄上はなぜ仏教に熱心なのですか。我が国には古来よりの八百万の神々がいらっしゃるというのに、なぜ異教の神にすがろうとなさるのですか。

おかげで豪族どもの間にまでも無用な対立を生んでいる。

ただでさえ競争意識の強かった大臣(おおおみ)と大連(おおむらじ)に争いの口実を与えるようなものではありませんか。事なかれ主義の兄上らしくもない」


「いや、私は八百万の神々への信心を忘れた訳ではない。

神々は私を律し、心を清めてくださる。だが、御仏は私を癒やし、心をお救い下さる。

神は厳しく、御仏は慈悲深い。厳しいばかりでは民も救われまい」


「大王は仏教信仰を快く思われておりません。

まぁ、兄上が大王に即位でもすれば仏の教えは認められることになるのでしょうが、それは仏教信仰に熱心な蘇我家との結びつきについて、更に余計な詮索を生むことになるでしょう」


「これ、私が大王に即位、などと不敬なことを。そういうことを平気で言うからそなたは大事を頼むに足らぬと見做されるのだ」


「本音で話しているのに、そのような建前で議論を止められては、埒が開きませぬ」


「穴穂部叔父は御仏の教えをどうされたいのですか。

物部大連(もののべのおおむらじ)様や中臣連(なかとみのむらじ)様のように頑なに拒まれるつもりですか」


そう問うてきたのは橘豊日王子の長子、厩戸王子(うまやどのおうじ)であった。


「俺ならば、そのような些末な問題に朝廷や大王が関わるべきではないと・・・」


「だから、穴穂部叔父は表面上の出来事しか見ていないと思われてしまうのですよ。

失礼ながら、叔父上には仏教のなんたるかが分かっていない」


「確かに俺は信者ではないからな」


「信者かどうかは関係ないのです。

大陸では久しく国が乱れ、幾つもの国が興っては滅び、滅びては興ってきました。そのような動乱の中でも仏教は国や部族を越えて、共通の言語であるかのように国々の間の交流手段として使われるようになったのです」


穴穂部王子は幼い厩戸王子の思いもよらぬ言葉に驚いた。

感心しながらもその言葉を口にするのが、まだ十歳にもなるかならないかの童子の言葉であるという異常さに気づいて舌を巻く。

その十歳の少年が言葉を続けた。


「大王が御仏の教えに興味を示さないのは、大王の目指すところが任那再興であり、半島の三国との付き合い方にのみ注意を払ってきたからでしょう。

ですが大王の治世が始まって十年あまり、大陸には新たに隋の国が興り、今や再統一の大事業達成を目前としています。もしも、このまま再統一が成し遂げられれば、広大な帝国が何百年も続いた混沌に終止符を打つ事になるでしょう。その治世が安定すれば、半島情勢に干渉してくるのは必至。

さて、その時に我が国はどうするべきとお考えなのです」


穴穂部王子は考えたこともない問いに目を白黒させた。


橘豊日王子はそんな穴穂部の様子に微笑んだ。


「穴穂部、焦ることはない。私も息子と問答をすると、いつもやり込められ、いかに自分が浅慮であったかを思い知らされる」


「いえいえ、聡明を以て知られる厩戸王子の考え、この俺には考えも及ばぬところ・・・

で、厩戸よ、朝廷はどうするべきだと思うのだ」


「その時になってから準備を始めても遅いでしょう。

今から仏教を取り入れて、諸外国と交流できる体制を作っておかなくてはならないのです。

仏教こそが半島や大陸諸国と共通して誼を通じ合える手段なのです」


穴穂部王子は衝撃を受けた。


年端もいかぬ童が何と広い視野で物事を眺めていることか、と。


よく耳にする御仏の教えの内容や、八百万の神を信奉するために廃仏、と言った議論の小ささに比べ、厩戸王子の広い視野とその慧眼に唯々恐れ入るばかりであった。


それと同時に、今の大王や朝廷内の人間には、このような理路整然とした論陣を張る者がいないことに愕然とした。

それに、このような正論を述べたとしても、大臣や大連が黙って従うだろうか、と危惧の念を抱かざるを得なかった。


橘豊日王子は大王の異母弟であり、次期大王の最有力候補である。

朝廷の政に口を挟んで波風を立てようとはしないであろう。

鋭い意見を拾い上げる者がいなければ、その意見は何の役にも立ちはしまい。


いや、自分ならば大臣家や大連家を制御し、厩戸王子のする賢明な献策を実行することが出来るのではないか。


穴穂部王子の心に新たな野心が灯った瞬間であった。


それまでの漠然とした「俺こそが大王に相応しい」という思いが、形となって穴穂部王子の心の底に生まれたのである。

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