第1章 「闇知らずの森」と「御仏の教え」 その3 魑魅魍魎
「私たちは、もう戻れないのか」と麻呂子は話を聞いて心配になった。
「お前達の名前を聞こう」と鎧武者は麻呂子の問いに質問で返してきた。
「私は麻呂子。彼は拓磨だ」
武者はじっと麻呂子を見つめ、ややあって口を開いた。
「お前は誉田別尊(ほむたわけのみこと=応神天皇)の末裔にして日子坐王(ひこいますのみこ)の血を引く者だな」
そう言うと暫し考え込むようにしていたが、ほどなく諦観したような口調で「これが我が運命か」と口の中で呟いた。
「このまま引き返せば、お前達は魑魅魍魎に食われるだけだ。
これよりわしが最期の戦いに赴くゆえ、その間に森から逃れ出ろ。
わしが頃合いを見て声をかけるから、元来た方角へ振り返ることなく駆け戻るのだ。
我が最期の戦いを見守る者がいないのは残念であるが、これも我が宿命。・・・・・いやもしも、見事に討伐に成功した暁には、我が勇姿をお目に掛けられるかも知れぬ」
そう言うと鎧武者の男は立ち上がり、地面に突き立てられた矛を引き抜いた。
それと供に上空に雷が轟く。
「どうしたことだ」「どうなっている」「動けるぞ、自由になれるぞ!」という声が何処からともなく聞こえてきた。
すると、鎧武者の男が大音声で答えた。
「待て!長きに渡りお前達を森に封じてきたが、どうやら潮時のようじゃ。『惣鬼(そうき)』『迦楼夜叉(かるやしゃ)』それに『土熊』、今ここで決着を付けようぞ。
前回は討ち漏らしたが、あのような幸運に恵まれることは二度とはないぞ。今日こそがお前達の厄日、最期の日となろう。
さあ、今こそ我が矛の餌食としてくれよう。いつでも掛かって参れ!
掛かってこぬと言うのなら、こちらから行くぞ!」
風が渦巻き、雷鳴が鳴る。
麻呂子と拓磨は風に飛ばされまいと身を屈めて、その時を待った。
と、稲妻が光り、男に落ちたかと見えた瞬間、矛が振るわれ、稲光は弾き返された。
「石矛か、太古の遺物じゃ」と何物かの声が響き渡る。
「今だ!走れ!」と鎧武者が叫ぶ!
稲妻の閃光や落雷の轟音が後ろで繰り返される中、鎧武者の男の言いつけ通りに麻呂子と拓磨は走り続けた。
途中から「そこの小童、待て!」という呼び声も聞こえてきたが、二人は言いつけを守ってひたすら駆け続けた。
気がつくと二人とも森の外に立っていた。
先ほどの雷が嘘のように森の外は穏やかな天気であった。
「あの鎧武者は勝てたのかなぁ」と拓磨が言うのが聞こえた。
麻呂子が振り返ると、「闇知らずの森」の木々の間に日が差しているのが見えた。
もはや神も魑魅魍魎の気配もなく、穏やかで小さい森の様子しか窺えなかった・・・・・・・・・
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その頃は既に日本列島には多くの人々が住み、何世代にもわたり暮らすようになっていた。
奈良盆地には現・天皇家の直接のご先祖と伝わる大王家が王権を築き、大和朝廷の原型となる政権が、西日本と東日本の一部を治めていたと伝わる。
大王家は神話の神々と直接に繋がる子々孫々であり、天壌無窮の神勅の通りに大和を末永く繁栄に導くとされていた。
当時、訳語田大王(おさだのおおきみ=敏達天皇)の異母弟であった橘豊日王子(たちばなとよひのおうじ=後の用明天皇)は妻の間人妃(はしひとひめ)と供に磐余池辺双規宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)で暮らしていた。
磐余(いわれ)は訳語田大王の住まう訳語田幸玉宮(おさだのさきたまのみや)からそれ程遠くはない。
どちらも今で言う奈良県桜井市周辺である。
間人妃は多くの子を産んだが、最初の子を身籠もった時は厩(うまや)のそばで産気づき、そのまま出産したと伝わる。
それが訳語田大王の治世三年目(敏達3年=西暦574年)のこととされる。
この初産で生まれた男の子こそが高名な厩戸王子(うまやどのおうじ=後の聖徳太子、厩戸王)であった。
その数日後、葛城では当麻倉日子(とうまくらひこ)の娘・広子が男の子を産んだ。
驚くほどの安産であったため、産湯で綺麗にしてもらった我が子に広子は「お前は親孝行だね」と語りかけたという。
この赤子が麻呂子王子と呼ばれるようになる。
この子供の父親も橘豊日王子であった。
同じ頃に同じ父から生まれても、二人の運命は大きく異なることになる。
母の家柄にもよるが――間人妃は橘豊日王子と同じく、父を志帰嶋大王(欽明天皇)とするのに対し、麻呂子の母の家は、御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと=第十代崇神天皇)の弟・日子坐王(ひこいますのみこと)の子孫と伝えられるが、既に王統から約二十代以上も離れてしまっている――何よりも兄の厩戸王子が偉大すぎたから、と信じられている。
だが、後々になって麻呂子は思い返すのだ。
これは彼が幼い日に関わった因縁によるものなのではないのか、と。
あの日、子供の出来心であっても禁足の地へ入り込んでしまうようないたずらを犯しさえしなければ、別の生き方が出来たのかも知れない、と。
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