プディング・ライフ

大上 狼酔

プディング・ライフ

 あの日以来、俺は鏡を見るのをひどく毛嫌いするようになった。眼に出来たクマと生命力を失った縦長の顔とが、視界に入ってくるのが嫌だったのもある。だが、一番の原因は、TVでの晴れやかな笑顔とそれとを無意識のうちに比べてしまう事にあるだろう。

 朝遅くに起きた俺は薄暗い部屋全体を見回す。

 そのままテーブルの前に腰をかけ、おもむろにスマホを取り出し、検索エンジンに「全国高校陸上 短距離」と打ち込む。どうやらもう少しで始まるようだったが、生放送を見る事さえも億劫だった。アーカイブで満足するし、結果だけを知れれば最悪それで良い。なにせこの愚かな行為に何の意味もないのだから。それを自分が最も理解しているつもりだった。


 時は中学の時に遡る。当時、俺は陸上の短距離で日本一だった。天才と自画自賛できるくらいには輝かしい功績を残していた。TVにも取り上げられていたし、高校生になれば更に知名度が上がるのではないかと気分が高揚していた。

 しかし世間というのは残酷なもので高校生になった途端、急に成果が出なくなった。焦り、不安、劣等感……今でも思い出したくない。高三になれば、最後のインターハイが控えている。そこまでに結果を出さなくては、と悩み苦しんでいた。周りからの圧力でどうしようもなくなっているような時に、ある大人達が手を差しのべてきた。それが随分と薄汚れた手だったのをよく覚えている。まぁ、単純な話だ。

「ドーピングをしないか?」

 様々な御託を並べていたが、つまりは悪魔の囁きであったのだ。俺も高校生ながらに躊躇はした。でも、一歩踏み出すと全速力で駆け出すのが俺の性らしい。東日本大会で俺はドーピングに手を出した。そこからは夢の中にいるようで記憶が曖昧だが、ドーピングが習慣化していたのは間違いない。

 間もなくして、俺の悪行は世間へと公表された。身内の情報漏洩リークが原因だったらしい。別にそいつの事は恨んではいない。じゃあ自責の念に打ちひしがれていたか、というとそこまでの高貴さは残念ながら持ち合わせていなかった。結局、俺の罪悪感は大人達への憎悪へと変貌を遂げるしかなかったのだった。


 出るはずだったインハイの映像をほっぽり投げ、なんとなく勢いでTVの電源を入れた。

『こんにちは! 3分クッキングのお時間です。 今回のお料理は、手軽で簡単! カスタードプディングを作っていきたいと思います。』

 画面全体に完成した料理が映し出される。ありきたりな料理番組が粛々と静まり返った部屋に流れている。

 つくづく思うのだが、プディングはプリンで良いのではないだろうか。別に拘りを持っている訳では無い事を弁解しておくが、無駄に洒落た名前を使おうとする奴らの気が知れないのだ。世間一般で用いられている名称を使用する方が明らかに合理的である。この短時間、それも一単語で画面の中の女性を著しく嫌いになった。我ながら彼女が随分と気の毒に感じた。


『~のようにして生地を固めます。この間にカラメルソースを作っていきましょう。』

 思えば自分の人生はプリンのような物であった。ドーピングという漆黒のカラメルに染まり、実力という生地だけでは見向きもされなかった。あぁ、プリンとはなんて憐れなスイーツなのだろう。世間は皆、甘いだの美味しいだのと喚いているが、そんな事ないだろうに。カラメルが無ければプリンとは呼べず、存在意義も無くなる。少し圧力をかければ跡形もなく消えてしまう。なぜ誰もその悲惨な現実に気付けないものなのか。


 ピンポーン

 暗く静かな部屋に呼び鈴が鳴り響いた。既に嫌な予感はしていたが、インターホンで誰かを確認する。はっきりと画面に映ったのは一人だけだったが、後ろにぞろぞろと人影が見える。

「すみません。○○新聞の者なのですがお話しを伺ってもよろしいでしょうか?」

 人の不幸が蜜の味である事は知っていた。勝者として君臨していたあの時、自分に負けて泣いて喚いた相手の姿が、無様で、滑稽で、非常に面白かったものだから。彼らにとってみれば同じ話なのだろう。

 無駄な抵抗をしようとたかが知れている。俺は扉を思い切って開けてみようと重い腰を上げた。


『……となれば完成です。』

『いやー、生地にカスタードを入れるものですから生地も甘くなるんですよね。』

『なるほど! その分カラメルがアクセントになって甘さが引き立つんですね。』

 甘い、のか。生地が甘いのなら余計な事はしないで欲しかった。俺に才能があるのならけがさないで欲しかった。

 ただ、こんな事を言っておいて難だが、カラメルが特段嫌いな訳では無い。勿論カラメルの魅力は十分に理解しているし、日々お世話になっている。素質を引き出すトッピングなのだ。

 ……カラメルの何に嫌悪感を抱くのか。それは日々お世話になってい、素質を引き出すスパイス物を想起するから他ならない。今さらカラメルを好む事は不可能に近いだろう。


 面倒くさくなってきた俺は、記者達がいる玄関へと歩み始めた。一歩一歩が足に重石を付けたかのようである。ドアノブまであと数歩。醜い覚悟を自分なりに準備していた。黙りこくった家電、孤独なキッチン、心を閉ざしたリビング。そのせいだ、あの嫌いな声がこの距離でも聞こえてしまったのは。

『プリンとプディングって違うんですか?』

『厳密には違いますね。プディングは様々な材料を混ぜて蒸した料理の総称ですから。プリンはその一種で、呼び方もカスタードプディングが正しいという事になりますね。』

『そういう事だったんですねー。』

『プリンといえばカラメルソースかもしれませんが、プディングはその限りではありません。例えばクリスマスプディングとかは……』


 訂正をしよう。自分の人生はカスタードプディングのような人生であった。

 ただ未来永劫このままなのか?

 一生俺は不確かな存在を頼りながら生きてゆくのか?自分の心を欺き、黒い染料カラメルで魂を汚すのか?

 否、苦しく苦い人生より甘美な生き様を求めたい。まだ高校生なのだから望みぐらい持っていたい。クリスマスかなんだか知らないが、己だけで認められるなら、何か染まらなくて良いのなら、そんなプディングが俺は良い。


 ドアノブにそっと手をかける。すでに外のざわめきが耳に入ってきた。どんな質問責めをされるのか、はたまた皮肉をひたすらに浴びせてくるかもしれない。

 ほんの少しだけ扉を押した。狭間から僅かな木漏れ日が部屋に入ってくる。

 そうだ。自分の人生を書籍化でもしよう。割と面白い半生ではあるのは確かだ。ならタイトルはどうしようか。嗜好を凝らした秀逸なタイトルにしたいものだ。「カラメルがかかった」だから、プリン……いや違う、カスタード……なんか余計だな。やっぱりプディ―――

「ドーピングをしたのは事実なのでしょうか!?」

「応援していた世間の皆さんに謝罪の言葉は?」


 外に出て扉を閉めきる寸前、うっすらTVの音が聞こえた気がした。

『あっ、カラメルソース! 程好い苦味で口溶けも良くて本当に美味しいですね!』


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プディング・ライフ 大上 狼酔 @usagizuki

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