第2話 "異"なる世界の王 ①
「王!王はご無事か!?」
「何事だ!?血だと!?」
「どういうことだ!!通せ!」
「王に会わせよ!何があったのだ!?」
「アロア!説明せよ!先ほどの声はなんだ!」
扉を挟んだ向こうから突き抜けてくる厚く重なった声の層。『彼』と臣下達とを隔てる一枚扉、その立て付けのいい扉は団塊となった諸々の体重を受けて"しなり"、ぎこちない悲鳴をあげている。
部屋の中にいる『彼』への安否を願う臣下達の声とすればどれだけ危なっかしく扉が曲がっていようとも、臣下らの体が押し潰されかねない危険性を除けば、然(さ)したる問題ではない。製材された木製の扉から乾いた軋みの音があがり危機感を覚えるほどであっても、『彼』には何のこともない。だがその身を案じて扉の前で盾となる女の騎士アロアが立ちはだかっていた。
「ええい!静かにしろ!」
「今しがた宮医が王を治している!」
「声を荒げるな!王は大丈夫だ!」
「だ、ダメだ!入ってはならぬ!」
「許可なく王の間に入るなど、私が許さん!!」
「ええい!静かにしろ!」
「王の体に障るであろうが!」
「静かにせんと窓から叩き落とすぞ!」
「なんという口の聞き方だ!」
「おのれ騎士の分際で!」
「貴様こそ静かにできんのか!」
あともう一押しすれば破断されるであろう扉へ身を挺して防いでいるのは、皮肉にもこの騒がしい現場と状況を招いた張本人のアロアである。元々の原因は『彼』にあるが、混乱と騒動を引き起こしたとすればアロアの尋常ではない声量による非常事態宣言だ。
扉を挟み、姿見えずとも聞こえてくる人一倍に声を震わせるアロアの奮闘ぶり。群衆の厚み、多人数による陣形固めで押し入ることで見える扉の変形具合。にも関わらず、アロアの声だけは扉を挟んでいても、臣下達の声量に負けずよく聞こえてくる。その声は勇ましく、それでいて素直な感情が取れる。それでもほんの少し前まで静かな語り方をし、穏やかな女性という印象があった彼の中に小綺麗な理想像というものが半ば失せてはいたことは確かだ。乱暴とまではいかぬものの、荒っぽさの勝ち気に富んでいるという、アロアへの新たな一面と印象を刻む。
『どっちも、すごい剣幕だな…』
「あ、あの…」
息が詰まりそうな絞られた声の主。彼の治療にあたる宮医と呼ばれる女医が彼の視界の外側に立っていた。宮医から見て『彼』の姿というのは口元から膝元にかけて体の前面が血生臭く汚れきっている。一つ言い改めるならばそれは吐血でなく、胃の内容物から吐き出された吐瀉物である。
しかしながら『彼』にまつわる
「…お、王……?」
宮医の目から見える彼の
むしろ突っかかりのあった喉と胸の合間が心地よく
「…王……その………具合の…ほどは」
怯えの具合をたしなめる程度に、彼は宮医と呼ばれる彼女へ、少し陽気な素振りで答えようと笑みを振り撒いた。
「あ。うん…大じょぶぐふっ!…」
「げほっえぇ!」
ビシャ…!
「っ!!!」
たった一語を投げ掛ける間際、彼の気道が血で溺れてむせかえる。胃液でへばりついたままの喉を酷使してまで奥から声を発したことが災いし、物の見事に『彼』の状態を悪く見せてしまうほどの血が吹き零れた。
致死にも満たぬ微量であるものの、宮医の目の前で血を吐いて見せてしまったことが、彼女の表情を青く凍りつかせ、正常な判断を曇らせるには事足りる材料となり得た。
宮医は直ぐ様踵を軸に力強く扉向こうへと直り、それまでの礼節を重んじていた姿勢の一切を崩して、ありありとした感情のままアロアと臣下達に向かった。
「アロア!!!」
「今すぐにあの下劣極まりない魔法師をここへお呼びしなさい!!!」
「早急に!!!」
「あの者をここへ!」
「なに…!?」
「どういうことだ!宮医!!!」
「王になにがあった!!?」
事態の急激な変化には二次的被害が起きやすい。宮医の感情が発露するということは、扉向こうのアロアだけでなく臣下達にまで及ぶことぐらいは容易に想像がつく。
「なんだ!?」
「王がどうした!?」
「今のはなんだ!?宮医か!?」
「王が一体どうされたと言うのだ!」
「なんだ!?何事だ!」
「お静かになさい!」
「一刻を…いえ!一時も無駄にしてはなりません!」
「早くあの者を連れてきなさい!」
宮医の差し迫る声を聞き及び、アロアと臣下達は小競り合いをやめ、労働者階級のような徒党を組み、宮医との合戦が始まった。
「「どういうことだ宮医!!!」」
重なった威勢がまた酷く扉の原型を
「い、わ、私の手には負えぬほど、王は今大変危篤な状態です!」
「これはもう私だけではお救いできません!」
「今すぐにあの気味の悪い魔法師をここへお連れしなさい!」
どこか聞き馴染みではある。だが現実的ではない言葉が聞こえたと、彼は宮医の焦りを汲むよりも随分と余裕に構え、ある言葉を拾っていた。
『魔法…師?』
言葉を心に投げ、反応を確かめてみるがその実像たる感情は浮かばない。身に及んでいる事態をまだ完全に飲み込めていない『彼』は、半分ほどの覚醒でしかない。
しかし、それにしたって場違いなほどに冷静に映ってしまっている。それは深刻な状況を極める中、やけに否定的で忌み深い言動があることに着眼してしまうような『彼』の落ち着きぶりから見えてくる。
『魔法師さん、……なんか…嫌われてる?』
その否定ぶりは宮医だけでなく、アロアにまで思い当たる節があるようで、彼女からも非難があがった。
「あの者をここへだと!?」
「ならぬ!それだけは王の許しであってもならぬ!」
「あの変態趣味の卑劣な魔法師をここへ呼ぶなどと!」
波風は波紋を押すように騒ぎ立ち、臣下らの声も押し寄せる。
「そうだ!何を言い出すか宮医!」
「あの愚劣極まりない男をか!」
「恥知らずの魔法師をか!正気か!」
「王の穢れが増す真似は許さん!」
「あの失礼なクソ野郎なんか要るか!」
「あり得ぬ!あの者をここへ呼ぶなど!」
「不遜と穢れと悪癖まみれの魔法師など!」
もはや形すら否定しかねない臣下達の非難轟々ぶりも『彼』は冷静に受け止めつつ、少々血の気が引いていた。それは決して先程の喀血に似た吐瀉によるものではない。道徳心に働いた精神性によってである。
『相当嫌われてるなぁ…』
『何したんだろう、魔法師の人…』
押し潰してしまいかねない異様な形体を頑なに維持する扉。突き出てこようとする臣下達の群衆をどうにか抑えてはいるものの、軋みが連なる音の調子を思えば限界も近い。最早抑えのきかぬ蝶番の金具がせりあがる様は、宮医の様相をも案じて物語っている。
「お黙りなさい!!」
「王を生かしたくばお連れしなさい!」
「…私とて!あの頼みたくもない願いたくもない呼びたくもない見たくもない、最低最悪失態失格人間を役立てようなどと!…などと!」
「…ともかく今すぐここへ!!!」
「魔法師ジウレクトを解放し、ここへ連れてきなさい!!!」
途中、何らかの重しに潰れていた感情の一端が漏れたところを垣間見たが、それは宮医だけでなく扉向こうからも滲んでいる。燻っていた不満が煙を立てたのか、発酵を始めた極度の嫌悪感が漂い、新たな争いの種を生みそうなほどのキナ臭さも匂ってくる。
「宮医!?正気ですか!?」
「あいつを王に会わせる!?」
「決っっっして許さんぞ!」
「あ、あの者を出すというのか!?それならば斬れ!出すぐらいなら斬ってしまえ!」
「一体何を言い出すのだ宮医!罪深いことだ!」
「危険だ!危険極まりない!我らが王の命が危ぶまれるぞ!」
「そうとも!あの者を出せば王が死ぬぞ!」
「そうだ!斬れ!王へ近づけてはならぬ!」
こうした嵐の発生には二つの要因がある。不満と事実。言い換えると主観と真実。臣下達と宮医の主観のズレで生じた気流が周りを巻き込む大きさへと膨れ上がる前に、『彼』は意を決して行動に移した。
「王の身を案じなさい!」
「このままでは本当に…!!」
「ぁ…あの」
最後の大砦で旗を振る。そんな果敢な医の宣誓者の
宮医が振り返ると、彼はニコやかに微笑んで見せたが、相性最悪とも言えるほど口元は血でべったりである。
「ひっ…!」
出だしは失敗だろうが、事態はまだ緩やかだ。差し迫る空間の中、彼の時間だけが唯一そう思わせる。
宮医を安心させるべく、汚れた口を襟で拭い取り、『彼』はもう一度微笑んだ。それはほんのりとした無邪気な少年の笑顔だ。
「大、丈夫ですか?」
血の気まじりの声は少し途絶え気味だが、生気は感じられる。だが彼の怪我は
「お、…王…!」
「申し訳…申し訳ありません…!」
「私では…もう…!」
「大丈夫、ですよ」
「もう平気で、すから」
膝をついて許しを乞う宮医を支えようと、『彼』は彼女が失墜してしまわないよう、宥め続け、励ました。『彼』自身の耳にはまだ聞き慣れぬ幼い声であり、落胆する者も、慌てふためく人々を安心させるには、まだまだ元気の足りぬ声である。だが『彼』の持ち合わせはそんなものだ。在るべきものは有り様によって使う。例え小さな少年であっても。
「大丈夫で、すよ」
「そんな、に心配しなくても」
「もう、だいぶ、今は楽ですから」
「あぁ…!王…!」
「どうか…どうか…!お許しを」
諭すにも励ますにも、今の『彼』には決定的に足りぬ要素がある。それは安心させるという期待数値だが、虚弱に写る病床人が易々と与えられるものではない。
『思ってた以上に…』
『深刻で…ヤバそう』
『落ち着かせなきゃ…』
『なにか…』
…
「ん"っんん!」
『彼』は咳払いを一つし、粘ついた絡みを取り除いて先程より少し声を澄ませ、波もたたぬように声をかけた。
「ん。大丈夫、ほら」
「そんなに慌てなくても、もう大丈夫」
「なんともないですよ」
「大丈夫です。慌てなくて大丈夫」
「し、しかし。王…!その血は…!」
「平気ですよ、こんなの」
「それに今はむしろ気持ちがいいです」
「呼吸も、ほら。だいぶ楽なんです」
「もう喋ってても苦しくなくて、」
「ね?」
「王…?」
「ほ、本当に大丈夫…なのです、か?」
「はい。もう大丈夫です」
元気の無さというのは言葉の多さで補えるものだ。ただの一つでも多く語り掛ける言葉があれば、人はそれを生きている瞬間として受容する。
「お、王…本当に大丈夫なのでしょうか?」
「はい。もう大丈夫です」
「まあ、まだ何となくだけれど。ん、んん」
「喉に違和感が…ん"ん」
宮医の目から緊張した強張りが緩み、落ち着きが見え始める。笑顔は安心の初歩であり、言葉とは平穏の一手である。見た目が凄惨な現場とは相反して、元気な素振りを見せる彼の状態が決して解決できたというわけではないが、微笑んでいる彼を見てその慌てぶりは解消されていく。
「ど、どこか痛む所などは」
全身各所の傷を抱え、いくらなんでも無事という嘘は通せない。現に『彼』の内側から放たれる痛みはまだ尾を引いていて、熱もある。そんな状態の誤魔化しをしたところで双方に利はないだろうと、彼は無意識に宮医の心意に沿う形で寄り添った。
「いや、まあ…。そこかし、こ…ぐらいで」
「左腕は特に動かすと痛いです、ね」
「あ、でも気分はいいですよ」
「……」
「その…誠にお聞きし難いと思いますが」
「そ、その血は……一体」
「あー…はい」
「すいません…こんなに汚してしまって…」
「ぃ、いえいえ!滅相もございません!」
「し、しかしこんな大量の吐血を…!」
「…吐血?」
『彼』は口元の血を少し口に含み、
『口ん中、酸っぱいし…ゲロかなと思ったけど。言われてみれば赤いゲロとかまんま吐血か』
『…いや。中々にヤバくないか』
…
「どうしよう…」
「お、王!?やはり痛みますか?」
「あ、いえ。そんなには」
袖口に染みて滴る具合が気になり、袖を折るようにして捲るのを見て、宮医は糸を張られたように反応した。
「あ、…垂れちゃうな…」
「も、申し訳ありません!」
「す、すぐに御召し物をお取りかえ致します!」
「え…?」
「あ、いや!そんな」
「アロア!すぐに王のお召し物を!」
「それと水を御用意なさい!」
「なに!?急にどうしたというのだ!?」
「王はどうなりましたか!?」
「落ち着きなさい!」
「我が王は健在です!」
「言われた通りになさい!」
緊張していた波及は望まれる要求へと変わり、扉向こうの一団のざわつきにまとまりが芽生える。ただその方向性はやや難航した。
「は、はっ!」
「ええいどけ!聞こえたろう!」
「王の着替えと…!着替えと…!なんでしたっけ!? 」
「馬鹿者!水だ、水!」
「団長!水っす!」
「水だ!すぐに用意せねば!」
「着替えなにがよろしいか!?」
「水だけでいいのか!葡萄酒はどうだ!?」
「馬鹿者!王の体に障るであろうに!」
足りぬものは補えるが、何を補うにしても指針だけは通すべきだ。だが何事も取り入れられた知恵と自由な発想に要らぬ追い風が吹くこともあり、話の筋というのは外れることもある。それは時折、豪快な意見に傾くものだ。
「だ、だが酒は万物の力と聞くぞ!」
「「!!!」」
アロアのその一言が歯車を狂わせたのは疑いようがない。衝撃的な言葉が木々を揺らすほどの強風となり、臣下達の身体を突き抜ける。それが果たして受け入れられるかどうかなど愚問であり、突き抜けた衝撃はすでに臣下達の正常な路線をかき乱し、すっかりと別の方針へと置き換わっていた。
「な、何を馬鹿なことを…!」
「いや待て!アロアの言い分も一理ある!」
「そうとも!酒で治った者はこの城にもたくさんいる!」
「しかしだ!血をどう説明する!?」
「確かにそうだ!」
「では酒ではなく肉がよろしいか!?」
「おぉ!血肉がなければ酒も飲めん!」
「そうとも!失せた血には肉がいい!」
「なるほど肉か!ならば私が即座に厨房へ運びいれよう!」
「ちょうど今朝獲れた獣の肉がある!それならば王の血となろう!」
「よし!アロアに肉は任せ、我々は酒を用意しよう!」
「酒はいくつだ!?」
「いくつも要らぬ!」
「だが何を持ち入れる!?」
「各々の大切にしているものを持てばいい!我が王のため、私は100年物を振る舞おうぞ!」
「何を!ならば我輩は101年物を!」
「私はさらに104年物を献上しよう!」
ガラス瓶を金細工で施した美酒の幾らかが臣下達の言葉と共に浮かび、新しく湧いては別の古き伝統の埃を被った美酒が埋め尽くす。だがそんな議論の白熱も臣下の一人が遮って終いにさせた。
「ええい!年代物に囚われおって!王のためぞ!よく考えぬか!」
馬鹿らしいことこの上ない議論の場が一人の男へ集中し次の言葉を傾聴する。男も全員の意識が自分へ向いたことを確認し、さらなる一喝の意を込めて言い放ったがそれは奇しくもアロアによって狂わされた一人の男の提言だ。
「出し惜しんではならん!我ら皆、王家に代々仕えし一族ではないか!一番に古く、一番にうまい酒!今こそ10年に一度しか味わえぬ180年物を開けようぞ!」
「そうとも!王のために国一番の美酒を奉ろう!」
「おお!そうしよう!」
「王のため!酒など惜しくない!」
「(馬鹿者共…っ!)」
強風に雷を吹き込んだ男の言葉に、最早それまで抱えていた悩みなど忘れたかのように祝宴をあげんとする臣下達のときめいた表情は扉越しであっても明瞭である。それは部屋の中にいる宮医も強く感じ取り、怒りに満ちて滲み出るほどである。
白熱した議論の場に箱詰めされたように投げられる熱い息と体温が集結する一団は、皆一様に職務へと誠実に励んだ汗を満面の笑みと共に振り撒いている。それは異様にも揚々と瞳を輝かせ、大層誇らしげな所を見れば些か不気味なものである。
「「宮医!他に必要なものは!?」」
「酒も肉も必要ないですから早く言われたものを持ってきなさい!」
どれだけの熱意が彼らにあったとしても、憤慨の一喝で彼らの空気を鎮める宮医の度量というものが何よりも際立つ。命を預かるものとして馬鹿騒ぎの一枚岩を発破するのは当然であるかのようだ。
「まったく…!」
「あっ、王!大変なる無礼、どうかお許しを!」
「あ、いえ全然…」
…
『この人もすごい勇ましいんだな…』
宮医のことも、扉向こうのまだ顔も知れぬ臣下達もアロアのことも一先ずは安心を与えられたはずである。しかし突然の変化に対応を急ぐこの応急的なやり取りは、『彼』にムズ痒いような居心地を感じさせた。微笑ましく、暖かな日常の活力を浴びて『彼』の心に山なりに登る感情の起伏が伴い、怪しげな雲行きを見るような疑惑を覚えたような顔が見える。
……
汚れた衣服を脱ぐと小さな体が現れる。着衣はロングワンピースだけのようだったが、膝下ほどの長さでブカブカとしたカボチャのようなパンツを下に身に付けており、体型の線を見せないふんわりとした布地。だがおよそ健康体とは呼べぬほど痩せた身も同時に露する。
「いだっ…!」
しっかりと水気を切った布が血に汚れた小さな顎下と首元を拭うと刺すような痛みが走る。小さな生傷と首下のわずかな皮膚に触れた瞬間、過敏となった神経が水の冷えにひどく反応を示したのである。
「も、申し訳ございません!」
「だ、大丈夫です」
「ちょっと沁みちゃって…」
「それでしたら、お薬を塗り直しましょうか?」
「あ、それなら自分でやれますので」
「ごっ!?」
喉になにをつっかえたのか。そのあとの言葉が宮医から中々出てくることはなかった。
「…ご、御自分で、でございます、か?」
「は、はい」
「これ以上誰かにやってもらうのも、何か」
「申し訳ないというか…」
やけに後に引く宮医の言い方が彼の中にある無意識の小さなプライドを踏みつけたが、怒り狂わせるようなほどのものではない。チクリと刺さる程度の至って弱いものだ。しかしながら宮医の反応の驚き方がどうも異質に思えて仕方ない。
「えっと…ダメですか?」
「い、いえ!…だめというわけでは」
「で、ですが。私がいますので、その…」
「大丈夫ですよ」
「自分でやれることは自分でやりますし」
「し、しかし、王…!」
宮医の態度は決して小馬鹿にした物言いではなく、通常で考えれば"ご厚意"というやつである。しかしそんな過保護的扱いを受ける側にとって、つまりは『彼』にとっては居心地の悪さを感じる。少しばかり癇にも障った。
『さっきから…王、王…て』
『人を王様扱いなんかして、一体なんなんだ…?』
『そりゃまあ怪我人を手厚く扱うとか、病人には優しくするだとかは分かるけど、何もここまでするこたないだろうに』
…
「そんな心配しなくても」
「特に大したことじゃないでしょう?」
「で、ですが。これまで通りですと…!」
『彼』は顔にこそ表さなかったが、いい加減宮医の低い姿勢や畏れ多くへつらう言葉遣いが煩わしく感じており、関心事としてはやりずらい部分だった。
『これまで通りって…』
『いつも患者さんにこういうことしてるってこと?』
『はあ…あのさぁ…』
『至れり尽くせりは結構だけど、なにもこんな部屋やそんな格好でさ。小児科病棟じゃあるまいし、大体なんで…』
『なんで…、…なんで……?』
見えが良い『彼』の観察眼が思考の歯車にある動力へと継がれていく。言葉に弾むような調子が出てきたかと思えば、冷静に記憶の蓋を開けた途端、絶大な見落としに『彼』はようやく気が付いた反応を見せる。
『…あれ…?』
『な、ん…ん?』
行き詰まりを味わうたびに彼の目は左右へ泳ぎ瞬きが増えた。さらにそれは連動して姿勢が少しずつ丸みを帯びて顎も引き、眉間にシワが寄る様子も見れる。思考が与える情報の海は注ぎ口を大きく広げ、『彼』の心の空洞に莫大な要素を流し込む。
『…いや、ちょっと待って』
『ええと…』
景色、場面、空間、事柄、状態のそれらから何束にもなって提出された膨大な報告書は、どれから手をつけても回らぬものばかり。皮肉なことに作業を振り分けた脳内と感情による知的な刺激を受ける各部署の仕事ぶりは早く、相対的にそれらから排出された感情や印象の総体へ合理的な判断を下し、"現実"を見出だす窓口はハガキ入れのように小さい。追いつかぬ処理と情報流入の不協和が『彼』をしぶとく疲れさせる。
『…やべぇ…』
『ここ…』
『…どこだ!!?』
大きく見開いた目の中は、ベッドの上でしか世界を知らぬ『彼』の現実に新たな一面と海洋を広げた。『彼』の魂を受容した一人の少年の存在を認めるかのように、窓辺からは今尚も世界から脅かされている『彼』を覗き込むように陽光が差しこんでいる。
『…どこっ、ここっ?』
『いや、え、待って!』
『病…院じゃないよな?』
『牢獄…?…にしちゃ綺麗だし』
『部屋…っだとしたら広すぎじゃね?』
手の中に引かれた最初の"問題"については出だしとしては悪くない自問自答であり、『彼』も目の前の現実に対して事実を抱えきれぬほど精神が未熟であることもない。
驚愕と焦りによって額に発汗する彼の様を見て、宮医は平然とその汗を拭う。それを受けてハッと顔をあげると、やや驚いた宮医と目があった。
「あ、も、申し訳ございません!」
「あ、汗をお拭きしようと…!勝手なことを致しました!」
「あ、い、いえ!」
…
『ってかそうだよ、この人誰っ?』
『見た感じ…いや。治療してくれてたところを見れば…』
『看護師…さん?お医者さん…?』
『…いや。占い師?』
『ってか格好が…古い…?』
眉まで隠す白布と鼻息すら感じさせぬほどに隠された下顔半分を覆うその様は、一昔前の占い師のような出で立ちだと、『彼』の記憶ではそう見える。だがそれは知識や記憶の形態で、
「あ、あの…!」
「はい!なんでしょう、我が王」
「王!?」
「え、えぇ、我が王」
「い、如何いたしました?」
「あ、いや…」
『彼』の虫の居所の悪さに何やら針のようなものが刺さったような確信が走る。これまでの居心地の悪さと煩わしさを裏付ける宮医の姿勢と、自身の身に起きている最中に異常なほど慌てふためく臣下達の情勢で板挟みとなって、すっかり取り残されていた"疑念"が渦を巻きはじめた。
『ヤバい』
迫る信号を反射的に気持ちではね除けたが、心臓はバカ正直に強く拍動する。どれだけ気持ちを抑えようと、緊張によって引き締まる筋肉が『彼』の体をみるみるうちに硬直させ、安静の二文字を取り払う。『彼』は片手で額を支え、今度は脳内の波状を差し止める。
『待て待て待て』
『落ち着け。落ち着け』
『整理しろ、整理』
『一旦全部置こう、考えるのを…』
『…』
頭の重さの比重は姿勢によって変化する。片手で支える『彼』の頭というのも、いくらか重さを増していた。丸まった背中の筋肉が頭を支える働きをせず、全てを小さな掌に預けた。床下を見下ろす彼の視線には水を張った桶が見えており、そこに反射する虚像には苦々しい現実に苛まれた少年の顔が映り込む。まばたきや微かな唇の動き、指の動きすべてが『彼』と同じ行動を取る。
『…子…供…?』
『…あ。これ…水面に映ってるのか』
『ん…?ん…?』
『…』
『もしかして…これ俺かっ!?』
額を支えていた掌の隙間から溢れるほどに異常な発汗の症状が見えたが、宮医は比較的冷静に対処する。鮮やかな決断力が彼女の職務であるかのように、それは王の断りなく動いた。
「王、汗が」
サッと拭き取り、サッと手を引く動作のそれはまさに執刀医の付き人の如く手早い処置である。
『どどど、どういう…こと、だ…?』
『俺、なのか…?』
『この映ってる子供は…俺?』
水面を相手に頬をつねり、舌をだし、片目を瞑る。まるっきり同じの動作を反射して行う鏡像は『彼』の姿をくっきりと現す道化となった。それも確信を得る一つの証拠となり、事実を知らしめる。
『…お、俺だ…』
『つまり俺は今…子供に…』
『いや、その前に…』
『いやいや、それよりも前に』
『いやいやいや、何よりも先ず…』
『いやいやいやいや、肝心なことは』
『ぶつぶつ…ぶつぶつ、ぷすぷす』
おおよそ予想はしていたが思考と感情の激突ぶりに、『彼』の制御は熱暴走の手前にまで到達してしまったことは大きな誤算である。ようやく『話し手』を移り変わりさせてみようとしたものの、どうやらこの関係性は切れそうにない。『私』はまだ『彼』の側にいる必要があり、自らの目を見て物を言わなくてはならないようである。少しばかり目を離した隙に『彼』の顔…いや。少年の顔はその背丈には似つかわしくないほど雲行きが怪しくなっている。それは宮医も感覚的に理解し、思考の邪魔にならぬよう配慮している様子だ。
「お、王?」
「その、もしよろしければ」
「左の傷の方をもう一度治療致しますが」
「あ、は、はい」
「お、お願い、できれば」
…
『治療…』
『そうだ…俺は今怪我を…』
『病人で…』
『いや怪我人で…』
『…待て待て…いつ怪我した?』
『いやそれより…』
…
「俺の…」
「正体…」
「はい?」
「あ、いや。なんでも…!」
「それでは左腕の傷の方から」
「あ、はい…」
『彼』はすぐにでも考えの落ち着くところを目指し、それは安定した地盤への避難とも言うべきもので、見ず知らずの異様な世界線からの一時的な逃避であった。
『整理だ…整理しろ…』
『一番とか最優先とか関係なく、正体…!俺の…正体!俺は…!俺は……!』
『~っ』
『…誰だっ!?!』
「王、あの、汗をお拭きしましょうか?」
『あぁくそ…!まるで糸に巻かれてく気分だ…!』
流れ滴る汗の滝に宮医も思わず苦言をこぼす。一方で『彼』は安定するどころか標もない有耶無耶に踏み込んで、より劣悪な窮地へと陥りかねない沼地に物の見事に足を絡め取られていた。 その沼地から不自然にも糸に巻かれていくような心地を覚えたが、それもそのはずで、傍らで治療に努める宮医が左腕の裂傷に丁寧に包帯を巻いていたのである。
妙な感覚が二重に合わさる不思議な体験を得て、彼の落ち着きどころは一層遠退いた。
『覚えてねぇ…ってか思い出せねぇ』
『自分が何なのかわかんねぇってどういうこったよ。俺ってこんな子供じゃねえし、髪の毛とか青く染めた覚えもねえし、こんな怪我だって負った覚えも…』
『…』
『いや、待て…』
『なんで俺が…今の自分が"自分じゃない"ってこんなにはっきり分かるんだ…?』
藍色の髪の隙間から、一滴の汗が左の眉を通過する。その汗の滴が落ちるのを『彼』は反射的に掌で受け止めた。泳ぐ目の行き先は記憶を辿るように忙しなく、レム睡眠のようである。
『俺は俺が誰だか覚えてないはずなのに、今の俺が俺じゃないっつう違和感は…一体なにから?』
『…なんだ?合点しない理由は?』
『…別の姿…?…比べた?』
『何と比べた…?』
『…この子と俺の…何を?』
『…そうか!』
『…比べたのは、"俺"だ!』
…
「俺は俺か!」
「は、はい、王は王にございますがっ!?」
「あ、安静にしていただけますと幸いでございます!」
答が行き当たるところが口をついて出ると、その先では不可解ではあるものの宮医の応答が発せられた。宮医への反応を気遣う余裕がなく、彼は再び熟慮の形へと戻っていく。
『って、俺が俺だって分かったところでなんだっつーの。記憶だ、記憶。思い出せる記憶をとにかく思い出すんだ!』
『えぇっと名前…は、さっきやってダメだったから』
『場所…そうだ、生まれた場所…っ』
深く潜る必要もなく、その記憶の一端はすぐに『彼』の中に現れた。高層ビルの間を行き交う人々の頭上には、縦看板でぎっしりと埋まっており、日が暮れていくにつれてきらびやかに電球が店頭し、暖簾がはためいている。
行き交う人々の話し言葉には"日本語"が通じており、数百行を埋め尽くす新聞雑誌の疎らに散った文体が『彼』にどっと押し寄せる。パチンコの波と言えるほどの確定的な証明となり得た一つの情報に、アタックチャンスの構えをもって喜びを体現した。
『…日本語…』
『…そう、ニッポン…!ニッポンだ!』
…
「よぉし!ニッポぉン!」
「きゃあっ!?」
「ど、どうされましたか!?」
「あ、ご、ごめんなさい!」
恥ずかしげに右腕を脇へしまいこむが、拳の握り具合を確かめる様は手応えのある様子を見せる。
『アタックチャーンスとか…古いな俺…』
『いやいや。むしろこれは確実な証拠だ。こんなポーズを知ってて取れるのはニッポン人しかいない』
『よしよしっ、生まれは分かった!いい出だしだ!』
『そしたら住所…!住所は………』
頭に浮かぶ街並みの記憶には景観が定まっておらず、殺風景なところかと思えばその光景はビル群が待ち構える繁華街へと辿り着く。一歩踏み出すたびに場景の時間や天候がコマ送りで変化し、地名や店の名称は並びも漢字も不順なものもあれば、モヤがかかったように見えずらく、しっかりと把握することができない物も多かった。
『くそっ…全然わかんねえ…』
『あっち行ったり、こっち行ったり。浮浪者か俺は…。家とか戻れっつーの』
『…これ以上追っても辿り着く気がしねえ。するってえと、あとは…年齢!』
『確か俺は…』
滅茶苦茶な建ち並びの光景とは違い、やけに強くはっきりとした光景がタイムラプスのように再生される。それは東京スカイツリーの建設現場を見上げる様に映り、着工から完成までの月日がものの数十秒で流れていった。風土から漂う年月の空気を感じとりやけにハッキリとした年季のある数字が脳裏を
『………20…代…くらいか?』
『…』
『あぁわかったよ!そうだよ!34だよ!』
視線を横にして背ける具合に呟いたが、自分から掘った遺跡の残骸を埋め直すこともできず、『彼』は憤りながらも己の羞恥的な部分を認めた。
『なんでこんな年齢だけはハッキリ覚えてんだよ!』
『34てオッサンの一歩手前じゃねえか!見た目はどうこうできるが、年齢だけ見りゃ中年最初期じゃんか!』
『…はっ!いや待て!』
『俺、年齢の割には若かったような気がする! 』
過大評価とまではいかぬが自身の存在をやや曲がった方向から見つめ直す様は少々見苦しい。実際に『彼』の姿がどうであるかは不明瞭であるので、ここでは肯定も否定もしがたい。ただ、否定的な意見をこちら側が投げるよりも早く『彼』は自ら発した己の意識に対する憐れな美化を背徳的に感じ、後悔を覚えていた。
『…いやまあ…そんなわけないよな。若く見えるからなんだっつーのな…』
『34…34歳かぁ…。何してたんだ、俺』
濃い霧の中でやけに弛んだ縄を頼りに小舟で伝う『彼』の道筋は迷ったように漂うばかりで、中々着岸すること気配もない。空白の進行に焦りが心を蝕んでいき、『彼の』表情に影が落ちるのが伺える。
『…ヤバい』
『どうしよう…』
『…仕事の事とか全然思い出せねえ』
『…ってことは…つまり…なんだ?俺ってまさか…』
絶望に浸水され沈みかけた船の頭が岩盤にぶつかると『彼』に記憶を見せる。輪郭がボヤけた手をかざし、料理のレシピ本を見ながらフライパンを器用に回し、洗濯物をシワなく広げる炊事と洗濯と掃除の家庭業務。それら三つの役割を季節関係なく続けていく景色を垣間見て、『彼』は思わず涙ぐむほどに両手を上げた。
『俺…!』
『主夫だった…!』
ビリィ!
ボコロッ!
興奮様にあげた治療したばかりの右腕と傷が塞ぎきっていない左腕の裂傷が同時に開き、さらには左脇腹の肋骨が内部から決して生温くない痛みのズレを生じさせる音を発した。
「ぐごふっ」
「きゃああ!?お、王!?」
「大丈夫でございますか!?」
生唾に混ざった血の色をあまりの激痛で吹き出し、側にいた宮医をまた青ざめさせる。
「だ、大丈夫…!」
「き、急に両腕を上げになられて、一体どうされたのですか!?」
「き、気にしないで、ください…!」
「まぁなんてこと…!傷が開いて…!」
「すぐに治療いたします!」
「お、お願い…します」
…
『ぐぁああっ!』
『いってぇええええ!?』
『バカしたぁっ…!怪我してんの忘れてたぁっ…!』
『だ、だけど勝ち取ったぞ…!』
『俺は…俺は…!』
『主夫…!だった…!』
『…』
『いやだからなんだっ!?』
ようやく辿り着いたところで現状の痛々しさと目まぐるしい現状から逃れることはできない。自身の"元"の出生が知れたところで『彼』自身を苛ませる状況には何の進展もない。
『主夫だからなんだってんだよ!いやまあ思い出せただけでもありがてえけどさ!』
『それとこれと何の関係があんだ。主夫から王とかになれるはずもねえし』
『じゃあつまり、ええと。どういうことだ?』
『夢…じゃねえな。頭は痛みでハッキリしてるし』
裂傷で流れ出る血流が『彼』の興奮を下げ、冷静な思考を取り戻させる。それは同時に命を危ぶめているが、命の危機に瀕してこそ状況を打破するために頭が冴え渡る。『彼』の場合それは呼吸に現れた。眠っている時よりも深く長く息を止め、それは吐く時も同じ秒数を刻む。その呼吸が起因となり、鮮血に流れる傷口も目に見えて出血が少なくなっていく。
『名前不明、住所不明、出生はニッポン、職は無しの主夫』
『主夫…ん?主婦か?』
『俺ってどっちだったんだ?』
『…いや。一人称からして前者だろうけど』
『…』
『トイレどっち入ってたっけ…』
『確か…』
『いや、待て。"こっち"の問題も見なきゃなんねえんだ…』
『俺が見ず知らずの、見た目外国人の少年姿でここにいる理由を…』
手を握る動作には右と左で若干のズレが見える。火傷のような爛れた皮膚が思うように伸びず、痛みにひきつられて動作不良を起こしていた。
『待てよ…』
『俺…ってか。この子が本当に王様なら…』
『なんでこんな痛々しい怪我を負ったんだ?』
『事実めっちゃ痛ぇし』
『…病気かる』
『いや…指の間に切り傷がある。…防御創にしちゃ小さいけど、どうみても刃物傷だ』
『皮膚は…なんつーか。なんか…見た目は感染症っぽいな』
『打撲痕は複数…俺は…いや。この子は襲われたのか?』
『…誰に?』
横目に宮医を見て疑問を持つが、多少の抵抗もあった。それは宮医の医療目的が『彼』ではなく、『王』と呼ばれる『少年』に対しての深い敬愛によるものであるため、そんな意識など欠片もない別世界の人間が施しを受けている立場には、半ば騙している形で生を受けていることである…と、言葉に形容できぬ罪悪感のようなものが芽生えていた。
『…もし仮に俺が単なる記憶喪失であるなら、現実世界…あっちのことなんか何一つ思い出せないはず…』
『でもそうじゃない。記憶は二分割もせず、二つ同時に存在するでもなく、ハッキリと一人の俺がいる。でもこの少年の記憶の一切が思い浮かばない』
『それはつまり…』
『この体には…この人達が信じてる王様は…もういないってことか…?』
『…俺がここにいる理由は…この少年の傷と何か関係がある…?』
…
「あの、きゅう、いさん?」
「は、はっ!」
「いかがなさいましたか、我が王!」
「…一つお伺いしたいのだけれど」
「この子…いや。俺に…一体何が起きたんですか?」
「!」
「お、王…覚えておられないのですか?」
臣下達の勢力にすら怯ことなく挑んだ宮医の意思が、目に見えて
「何があったんですか?」
「…王は…」
「貴方様は…拐われたのです」
「拐われ…た?」
…
『誘拐…?』
『誰に…?』
次の言葉が口から出るよりも『彼』は宮医の異変に気づく。先程まで目を合わせていた宮医からは信じられぬほどの後悔の眼差しがあり、それ以上の追求に対して抵抗を示していたからである。
「そうなん、ですか…」
「王…申し訳ございません。私共がお側についておりながら…」
「…」
"謝らないでください"と、『彼』の言葉は外にも内にも内在していたが浮かぶことはなかった。自身にはそれに至るまでの記憶や出来事や役割や責任がなく、思い入れがないために実感がなかった…とするのが半分ほどであり、あとのもう半分は『彼』自身もまた宮医を思いやることなく、不用意にも詰めてしまったことの罪悪感だった。
しかしながら、黙ってその場を言葉なく悲しみが過ぎるのを待つほど『彼』は慎ましいというわけでもない。問題があることを受け入れ、それが例え己とは無関係であっても労いに対して尊敬の意を表する構え方を『彼』は備えていただけである。
「宮医さん」
「は、はっ」
「俺から…その」
「言うのもあれなんですけど」
「色々と治療してもらって、本当にありがとうございます」
「っ」
「私は…っ」
「貴方様の…王のためならば…」
止まっていた治療の手が再開され、宮医の胸奥から思い思いの感情と言葉が重くのしかかってくるのを感じ、のっぴきならぬ事情が『少年』である『王』の身の回りに起きているのだと『彼』は深く実感する。
『…何か。相当尋常じゃないことが起きた』
『それも。この少年に…いや、王に』
『その事情を一番に理解しているはずの王様は不在で、部外者の俺がここにいる』
『居てはならない奴が、居て欲しい人間の前で息をしてる』
『そういえば…』
『…前にもおんなじような事があったような…、なんだっけな』
『彼』の追憶はどこからも応答がなく何の影響も及ばなかった。日常の光景もビル街も交友関係も見えず、薄暗い中でひっそりと息を殺していた自分だけが明暗隔てなく見えている。
暗い気持ちへと沈みかけていたのを、左腕に巻かれていく包帯でほんの僅かに引っ張られ『彼』は暗い水面の底から光の中に瞳を写す。後悔の眼差しを後に引いてなお、宮医の目は職務に忠実であり医の志が根強い形を残していた。自己犠牲的に奉仕する姿に『彼』は心の奥からそれを讃えようと、暗闇の深みから脱し宮医を見つめ続けた。
『…医者』
『…なんだろな。…懐かしい気がするのは』
『…いいなぁ…。こういうの…』
包帯の巻きが終わり、宮医はゆっくりと腕をおろさせ『彼』の状態を確認する。作業的な物言いはなく、心慮を持った気遣われる言葉が終始『彼』に向けられていた。
「王。治療が終わりました」
「いかがですか、痛みなどは」
「…うん。大丈夫です」
「ありがとうございます。宮医さん」
「い、いえ」
「…あのう、その、我が王」
「わたしのことは…宮医、とだけ呼んでいただければ結構ですので」
「っ」
…
『あ、そっか…』
『王様ってのはそんなに丁寧じゃないわけか』
『まあ…普通…そんなもんか…』
『…そんな…もんなのかな…?』
『……まあでも』
『今…王様は不在なわけだし』
『…感謝する王様が居てもいいだろうし』
…
「そうですね。…ではこれからはもっと感謝を込めて、宮医さんと呼ばせていただきますね」
「っ!」
「そ、そんな…勿体なきお言葉を…!」
宮医は両手を前に出し、受け取りを拒んでいたが『彼』が宮医へ与えるのは威厳と誇りに意志を残すための、言わば寵愛である。それすらも宮医にとっては余りある光栄に畏れ多いのだろうと、噛みきれぬような狭苦しい味が心に巣食ってくる。
『…なんていうか、王様も大変なんだな』
『人として扱われてないような気分になるとは想像もしなかった』
治りかけのむず痒い皮膚の端を、痛く傷つけぬように爪の端で軽く掻きむしり、爪の間に赤黒い皮膚片が『彼』の指先にこびりつく。
『それに加えて…この有り様』
『…宮医さんの言ってた誘拐…。それが本当なら、この少年が目的だったのか』
『あるいは別の目的が…』
「我が王」
「あ、はい」
「お召し物をすぐに御用意致しますので、今しばらく部屋を離れます」
「あ。分かりました」
「代わりにアロアをお側に置きます。彼女に何なりとお申し付けください」
『アロア、さん…か』
『そういえば確か…ずっと付きっきりで看病してたのはアロアさんもだったのかな』
『アロアさんにも、お礼言わなきゃだな』
…
「分かりました」
「では、我が王。どうかごゆるりと」
程好く落ち着いた宮医の一礼を見届け、部屋に一人きりの時間がやってくる。『彼』は窓の向こうを見つめながらベッドへと横になる。その考えの行き先は現実でもなく現世でもない。少年の体へと"一番最初"に宿った時からまだ残存しているであろう記憶の一部。
そこには映像のようなものはほとんどなかったが、唯一その記憶が覚えていたのは左手を握ってくれていた誰かの暖かな手の温もりであり、その感触をもう一度確かめるように、『彼』はうつらうつらとしながら繋ぎ手を探していた。
"異"なる世界に雑"味"を帯びて 源ミナト @JNG
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