第1話 "異"なる世界 ③

「聞こえますか、王」


 横になったままの彼の耳へ静かな声をなげる宮医。布地を通して聞こえる女性の曇った声は、彼の記憶の一つに合点する。どこかはっきりとはしないが、宮医からはまるで医療従事のような、それでいて母親のような優しさを感じた。


「王…わたくしめの声が聞こえますか?」


 切なげにも聞こえる言葉をくれた宮医から伺えるのは、眉を上へ潜めた目元のそれだけであり、あとは飛沫感染から防ぐかのように一面布に隠れている。表情など汲めそうにないと思わせるが、心の片隅にまで行き渡る配慮を有する心の現れというのが宮医の目の形からハッキリと彼にも伝わる。彼女の目は緊張の糸が見えるほど真剣な眼差しだった。


 喉の奥から言葉を投げようと息が継ぎ、彼の唇に力が入る。


「…聞こえ"…っ」

「え"ふっ…!くふ、こふ、ごほ」


 彼は言葉を伴う声で宮医に答えようとした。しかし喉を通る空気の途中に異物が塞ぎ、首を締められる。

 登っていく空気の間にとてつもなくむせかえるような突っかかりを感じ、喉の奥へ落ちることもなく口の外にも出ていかない違和感を吐き出そうと、彼は上体を起こそうとするがそれも叶わず、首を横に向けて咳き込むのがやっとだ。


「あぁ王!そのままで結構です!」

「ご無理はなさらないでください!」

「私めの声には、首をお振りいただくだけで結構でございます!」


 宮医は彼に安静になるよう注意深く促し、彼もそれに応じてゆっくりと呼吸を整え、宮医へ向かって二度三度頷いて見せる。

 ただの咳とは言えない。彼の静かだった呼吸音は声を発しようとしただけで大きく乱れ、風通しの悪い気道の音が彼の耳にも宮医にも聞こえていた。


「それでは、王。今一度お尋ね致します」

「お体の方は?どこか痛む場所は?」


 寝ながらの問答に頷きと首振りを返すだけの彼と彼女と答弁は体の痛みや状態に関するだけのもので、彼が首も振れぬ時にはアイコンタクトによるまばたきで意思を伝える。

 しかし彼の返答できる反応は思っていた以上に時間を有し、彼もまた応対一つに呼吸を整えていかなかければならないほどで、それを見兼ねて宮医は質問を取り止めた。


「王。ありがとうございます」

「もうお聞き致しませんので、ご安心ください」

「傷の方、治療させていただきます」

「御体に触れますこと、お許しくださいませ」


 傷や各所の痛みを宮医に全て伝えたその後、彼の苦悶とも言える皮膚の痒みや熱と痛みのある傷口に、再びあの心地よい冷えた布があてられていく。

 新たに施された治療による感触の違いは彼にも分かる。布を表面へ据え置いたものではない。傷の表面に巻きついて保護するような感触だ。ぐるぐると傷口に巻いていく宮医の丁寧な手つきに彼は少しばかり好奇心のような興味が湧くほどの余裕が芽生えた。

 冷え布を置いた上から長細く裁断された薄地の絹を巻くもの、それは言わば包帯である。だが彼の好奇心を捉えたのは、全身の肌を覆い隠すような衣の中でも唯一きらびやかに見えている宮医の手袋だ。


 どこかの紋章か模様か、金色の糸で端麗に縫われた形の刺繍がされており、朝陽に照らされて金色に光っている。なにやら大きな式典に使いそうな縫い目と装飾の縫い付けは職人芸当のものである。まだ半ば呆然とした意識に沈んでいる彼の目からでもそう見えるほどだ。その好奇心が言葉一つを掘り起こし、『彼』から第一語が心に湧いた。


『…綺麗…だ』


 やっとの第一声にはまだ辿り着けてはいないが、これは大きな進展である。言葉の台詞には『私』でなく、『彼』の声があるからだ。


 左手に包帯が巻かれていく際に、絹生地の柔らかい感触が掌に当たって、彼は思わず反射的に宮医の手を取ろうとする。寝ている生地の布とは比べ物にならないほどの艶やかな触り心地だが、彼の中にはどこか足りない心地と共に当てはまらぬ感触を感じ得た。


「王、どうかご安心くださいませ。すぐに良くなります」

「いえ、前よりもっと良くしてみせます」


 左手を両手で包む様に宮医は彼にそう言って、ベッドの脇へと優しく左手を寝かせる。小さな動作の一つを追っていただけの彼の目も、ようやく回復した精神の向上が余裕を他へ分け与えたのか、何度も何度も彼の耳に聞き及んでいたとある単語が彼の心に反芻はんすうして繰り返される。


『…お…う…』

『…おう…?』


 好奇心に湧いた言葉を噛み、解いて考える信号の余波が彼の神経に刺激を起こしていく。痛みと痒みの雑音にさいなまれて邪魔されるばかりだった時間は消え、静かで穏やかな時間の到来により、『彼』の魂が生の実感を得始める。


『…おう……』

『おう…って、なんだ?』

『おう、おう、…王…?』


 彼の四肢、五指が魂の声に応える。指が動き、指の腹、踵の皮膚、背中の面、後頭部への凹みある弾力と、それら全てに伝わる肌の感触は柔らかく清潔感がある。


 仰向けでずっと見えていた馴染みのない石作りの天井。手の込んだ装飾品と横目の視界に映る見たことのない装束の医者…いや。彼女はどうやら「きゅうい」と呼ばれている。しかし傷への処置は医療を心得ている者のそれである。


 彼の心に感ずる領域とそこへ受領されてくる視界の情報が量を増やし、狭いように思えていた世界から部屋の全体像が見えてきた。


 広い屋敷の豪華な応接室のよう…いや。応接室にこんな広い寝床はない。ましてや石造りの天井と右に朝陽が見える窓と鉄格子。どちらも石工の手が加えられた四面体のものであり、冷たい岩肌は感じられず、研磨された表面のなだらかさが伺える。彼の目は世界の立体と実像を捉え始めた。


『ここは…』

『…たぶん…寝る…場所だ…』

『そう…あれ、だ…』

『…寝室だ』


 現在の場所を特定し、飲み込めるほどに彼の魂は覚めたが、状況を把握するための思考などは皆無である。苦痛と苦悶の晴れ間から陽気が差し込んできただけの片時の余裕でしかなく、心が陰るのも時間の問題だった。


 だが感情の発露とも言うべき思考と想像へ働きかける求心の成長は恐るべき速度で進んでいく。それは言わば感情を考えるための趣向に近い、青々とした知的性である。彼の中に調べは決して良くない時が刻まれていく。


『…いち…にぃ…さん……シ』

『ゴぉ…ロク……7…8…』

『8…ハチ………キ、キュウ…9、10…』


 数十秒、時には何分と時間をかけて刻んでいく。それは天井の装飾の継ぎ目を見た思いつきによるもので、数えるという反応速度が彼の今現在の思考速度の調子を物語る。単なるおもむきという若い思いつきの芽吹きは「ただ数える」という幼稚な発想を生み、その発生が彼の命に帆を立てるような追い風を立てていった。


『64、65、66、67…68…69、70』

『…71…72、73、74…75、76』


 天井の石の継ぎ目を往復して数えること、およそ百に手が届こうとする頃には、『彼』の心を動かす情報の受容というものが劇的に速くなる。

 天井の装飾にこしらえられた数珠玉と、色分けがくっきりと分けられたような青い線の刺繍が見えていたことも幸いし、途中で折れる事なく時は静かに刻まれていく。


『97、98、99、100』

『ふぅ…よし…ぁあ』

『…なんか…、疲れた…』


 感情を露にできる余裕を抱え、己の目で物を見て判断できるほどに、それは冬解けの水を被った光葉のように感情を輝かせていた。


「王、手当ての方は済みました」

「どこかまだ痛いところはございますか」


 彼の耳元へそっと語りかける宮医へと視線を向けると、宮医の後方で体格が良く背の高い鎖帷子くさりかたびらの女性が視界に入る。背格好の大きさとは裏腹にどこか居心地の悪そうな面持ちもあり、宮医よりも高い身長を有しておりながら態度の大きさは宮医よりも畏縮している。


 小さく首を横に振り、自身の体調への問いかけに彼は反応良く応じる。彼のゆっくりだった時間の流れも単純な数えの訓練を終えたことで調子があがり、宮医らの反応にようやく追い付くほどにまで回復を得た。


「ほっ」

「左様ございますか」

「ではどうかごゆっくりと、お休みになられてください」

「王の御体は我々がお守り致します故」

「アロア」


「は、はっ!」


「治療は終わりました。手を借しなさい」


「はっ」


 一人は白い衣、一人は小さな網目の鎖を敷いた重たげな服…いや。鎧にも見えるほど決して安直な格好でもなく、腰に差した剣の柄と、長い鞘を見るに彼女は何か、騎士のような存在を思わせる。


『…あの人……』

『…なんかまるで…騎士…みたいだ…』


 彼の記憶が正しければ、それはずっとどこかおぼろ気ながらも見覚えのある格好であり、夕闇と夜中の一時に今と同じ格好の彼女に会っていた…ような気がしている。だが格好の出で立ちにまで深い印象はなく、彼は彼女らの衣服について疑念に似た感慨すら思うようになる。


『…なんで…そんな…』

『…こう、…昔の?…格好なんだ…?』


 動作一つ一つの振る舞いにきびきびとした礼節ある行動を心掛けるアロアだったが、時折彼に向けて強く念じられたような視線を感じた。その視線に彼も気づき目を合わせたところ、アロアは振り返るように視線を反らし、それ以降彼を見ることはなくなった。


 二人の後片付けの最中には、先程まで彼の傷口を覆い、癒していた布が見える。血のような黒い染みと、黄色く変色して粘り気のあるもの。単なる怪我によって出たものとは思えぬむごい血色だが、関心事が未だ薄いままの彼にとっては大した事には感じられなかった。

 だがそれを抱えて集めていた淑女の二人は見つめあい不安げな息を溜めていた。


「アロア」


「はっ」


「少し」


 短い手振りをたて、宮医はベッドから少し離れた場所にアロアを呼びつける。聞きいられたくはないのだろうとした彼女らの行動の一端が、むしろ彼に聞き耳を立てさせる。


「宮医っ…王の御体は」


「今のところは安心できるでしょう」

「意識は戻りましたが、治療を怠れば直ぐにでも傷口が悪化しかねません。これからは与えていく薬の調合も少しずつ変えていきます」

「幸いにも傷の治りは順調のようです。熱も引いてるようなのでしばらくは大丈夫でしょう」


「本当ですか宮医っ」

「それで王は?…助かりますか?」


「油断はなりませんが、このまま治療を続けていけば心配ありません」


「そ、そうですか…!」


「アロア、もう十分ですよ」


「はっ…?」


「お休みになりなさい」

「王がここへ来てから、いえ。王を助けてから貴女は満足に寝てもいない」

「食べる姿すら私は見ておりません」


「これは国の一大事です!」

「この重き役目を前にして休んでいる暇など!」


「その傲慢な考えが王をさらに危険に晒します」

「貴女が万全でなくば、王はまた危機に瀕します」

「王の身が危ぶまれたその時、今の貴女は王をお守りできて?」


「っ」

「やってみせます。守ってみせます」

「この私が命をかけて!」


「…そう。ならもう止めはしません」

「私は隣の部屋で薬の調合に入ります」

「その間、貴女は王の傍に居てさしあげなさい」


「はいっ」


 彼女らの会話はそこから途絶えた。扉が開いた時、澄ましていた彼の耳へ波打つようななびきの音が聞こえ、彼は右の窓辺へと顔を向ける。窓の陽光を幾度も遮るほどに旗めく厚手の布…いや。旗が見える。宮医らやアロアの服装に刺繍された紋様がさらに大きく広げられた布地が、外で大きく風に吹かれて波打っている。


 記号、シンボルとも言うべき形式化された模様と、高貴さを思わせる大旗の泳ぎに彼の目はすっかり虜になっていた。


「…王」


 そよ風のような優しい声が彼を呼ぶ。部屋に唯一残った騎士のアロアだ。宮医が何度もそう呼ぶものだから、彼にもその呼称と人物像がすっかり定着化していた。

 彼が顔を向けるとアロアは膝を床に付き、寝伏せるベッドの側で深々と頭を垂らす。


「私が…お守り致します」

「お側におります。どうかご安心を」


 疑いなど微塵も湧かぬほどにアロアの言葉には忠義心に溢れ、それは神への信仰に匹敵する宣誓にも取れる。顔をあげるアロアを一目見て、彼はどことない主観的で安楽な感想を抱いた。


『綺麗な…人だなぁ…』

『アロアさん…だっけ…』

『それが…名前なの…かな』


 アロアの声を聞き及ぶと、心地よい安心感に彼は包まれる。腕や足に巻かれた布から染み込んでくる痛みを和らげる快い気持ちも合わさって、緊張が緩んだ一瞬の隙に彼は眠りの中へと溶けていった。



 ……



 真上へと昇る太陽の暖かな陽気は、意地悪げに静かな寝息を立てていた彼の顔に浴びせている。熱射とまではいかぬも安眠していたはずの彼の瞼を貫き、覚醒意識へ届かせるには過剰なほどの眩しい光線である。


「……うぅんっ」


 眠気のある唸りがあがり、たまらないと言った具合に眉間へとシワが寄り、光を拒むように集っていく。


「…うー、ん…!」

「まぶしー、…な、もう…!」


 声帯に絡みつく粘着物質が彼の発声を阻害し、それはまるで夜中から朝にかけて酒を飲み明かして焼けたような声だ。艶やかさというものがない。布に手を伸ばし、顔をすっぽりと覆い隠して陽光から逃れてみるものの、眩しさはまるで衰えず彼の体へと掛かる白い薄布が光を透過し、より視覚神経を刺激するばかりだ。


「んー、も、ぅ…!」


 光が射す右手の方角に背を向けようと、彼が左へ体を横転し捻ってみたところ、


 ゴキリ……!


 極めて不穏で不気味な音が体内時計の目覚ましさながら、アラームベルの代わりとなってひび割れた骨のズレが身体中に響き渡る。


「い"っ…!!!!」


 左脇腹を庇うようにして浮き上がる体には、それを維持し続ける体力もなく、彼は仰向けだった体を上下反転させうつ伏せになり、地に頭を擦りつけたような土下座の格好を寝床の上で披露する。


「ぅぐぅうう…!」

「…い"…だ、ぁ…あ!」



 痛みをこらえ息が止まる。冷や汗は止まらず吹き出て額から枕へと染み込み、歯を食い縛る間からヨダレが垂れ落ちているのを防ぐ余裕もない。


「ふぅ、!…ふぅ…!」


 呼吸のたびに痛みが疼くが、痛みを逃がそうとする浅い息がそれを和らげようとする。かと言って息そのものにも喉の痛みがついて回り、安眠から起きて早々の二重苦に襲われ彼の土下座の姿勢はまさに、体罰じみた激痛への慈悲を嘆願するかのように見えなくもない。


「はぁ…!はぁ…!」


 彼は力んでも特に障りのない平常な右腕で上体を支え、ようやく頭を起こす事に成功する。

 痛みで歪む表情と冷や汗でべっとりと濡れた顔には頬と目元にうっすらと青い腫れがあり、彼の状態が芳しくないであろうというのは痛みのショックで貧血を起こしていた蒼白な表情から読み取れる。


「はぁ……はぁ……」


 深い呼吸が痛みの発生を下げ、ようやく収まりがついたのか、険しく閉じていた瞼が少しずつ開き、藍色の瞳がさらに高く景色を見渡して世界に向いていく。


 豪華で広いベッド。濡れて凹んだ枕に、額に置いてあったであろう手拭い。小さな両手に巻かれた包帯。細い両腕に巻かれた包帯。

上体から体をすっぽりと隠してしまいそうな、長いドレスのような寝間着。全身に走る痒みと痛みの違和感。


「…っ…?」


 自身の有り様に彼はひどく困惑した。これまで体感として浴びてきたであろう痛みを抱え、身に沁みていたにも関わらず彼はすこぶる当惑する。


「なん、で…怪我なん、か?」

「んぶっ…ぇ…!…喉に、も…変なのが」

「げほっ…!ォエ…」


 首元に当てていた手を顔の前に近づけ、切り傷やすり傷が細かく刻まれている事に顔を歪ませる。指先の爪は綺麗に整えられており、表面も磨かれているが、爪の中は黒々と内出血を起こしていた。

 彼にとっては痛みも怪我も異質だが、自分の手が何よりも異質に見えていた。


『これ…俺の…手?』

『なんか…小さいってか…幼い?』


 翳し様に広げた指の間から、向こうの景色に焦点が合っていく。椅子、鏡、花、窓、カーテン、ランプ、机、絨毯、垂れ幕。家具のどれもが高級感に溢れており、随所には手の込んだ彫りが見えている。


「こ、こ…どこ…っ…」

「ん、ん"っ…?」

「声…変、だ…」


 掠れた幼き声が骨伝導を伝って彼の耳に届くが、彼にとっては違和感でしかない。痰を吐くように喉を鳴らしてみるものの、それでも様変わりせぬ幼い少年の声は、彼の喉から発している。


「な、ん…!」

「う"…げほ、えほ…!」


 喉奥の突っかかりに肺がしぼみ、喉を抑えて咳込むと、その異物感がせりあがるのを感じた彼は思わず口元を両手で覆う。咳き込んだ口を手で抑えたその表面には、なにやら暖かく粘り気のあるものを感じた。吐き出した何かを恐る恐る確かめようと覆っていた両手を顔から離す。


「……え…」


 彼の両手に広がっていたのは危険を感じさせるほどのドス黒い赤色。赤黒い粘着性のある血の塊もへばりついており、掌の切り傷を覆っていた包帯に滲んでいった。


「う"っ…!オェ…!」


 咳に続いて投射…いや。吐瀉されるが為に喉を逆流して駆け上がってきた、胃液に混じって黒々とする汚泥のような血反吐。それが見た目が幼い少年とも言える彼の口から堰を抜かれたように吐き出される。

 噴き出した液体を両手で受けようとした為に、掌も服もシーツも一緒くたに赤く塗り潰される。


「げほっ…!…えほ…っ!」

「うわ…っ…!」

「んで…こんな…!」

「……?」


 真っ白なシーツを血の光景に変えてしまったにも関わらず、彼は幾分落ち着いているように見える…いや。事実、およそ健康的とは思えぬ色味の血ヘドを口から吐いているにも関わらず、彼はすこぶる平静であった。

 それと言うのも彼は目の前の光景なんてものより、喉の違和感の有無に意識が向いていたからに他ならない。


「ん、んん"…?」

「んっ、ん"ん!」

「…スー、…ハー…」

「…息…楽んなった…」

「スン、…鼻も、通っ…た?」


 鼻から通る息も、口から吐いて出る息にも血の匂いが混じっているものの胸の気道を両手で絞られるような狭苦しさを感じることもない。呼吸の隙間を這うような虫の息は見る影もなく消えた。


 しかし寝床の光景は端から見れば、怪我を負った少年の口から血が吹き出し、膝元まで赤く濡らすほどに滴った血飛沫の有り様でたる。


「あ…ヤバい、どうしよ」


 ようやく自分の身に起きている問題に目を向けられたかに思えても、その向かう先にはややズレた方向性もあった。


「シーツも服も…汚しちゃったな…」

「ってか。なにか拭くもの…」


 彼の落ち着きぶりは平静ではなく


ある意味その状況を追いきれずに混乱し、狼狽えてしまっている一種の麻痺状態とも言えよう。歩けもしない癖にその場をウロウロと問題を解決しようとする手からは未だに血液が垂れ落ち、彼が手を伸ばそうとするや真っ白なシーツに新しい血痕が沁みていく。

 そうしてあたふたとしている内に金具が回る音に続いて、扉の軋みが部屋に波を立てて彼の耳に入ってくる。その波には聞き覚えのある声、アロアのものも混じっていた。


「王、失礼いたしま…」


 アロアの手には水を張った桶を抱えており、部屋へと入るや否や心臓を掴まれたかのように凍りついていた。


「……あ」


 アロアと目が合い彼は少し動揺する。固まったままのアロアが、おそらくではあるが自分を見て何かしら衝撃を受けているのだと彼は即座に理解した。

 だがアロアが見た鮮烈な光景への擁護とも言える対応力には劣っていたようであり、アロアの表情がみるみる悲劇的な形相を浮かべていく事には、彼の手には負えぬほどに進んだ。すこぶる健康的な肌色だったアロアの表情が青ざめて冷えていくまでの間は僅か1秒にも満たず、目覚めて少しの彼には到底追い付けぬものだ。


「えと…、あの」

「汚してしま、」


 アロアの反応を確かめるべく、差し障りない言葉を投げようと試みた彼の声は、次の爆裂的なアロアの声に完全に打ち消されて空に消える。


バァン…ッ!!!!


アロアは桶を捨てて扉を全力で開け放ち、物腰柔らかく接しようとした彼の対応を置いてきぼりにした。


「宮医いぃぃぃぃぃッッ!!!」

「王がぁああああああ!!!!」

「血を吐かれているううう!!!」


 部屋から踵を返し、廊下の向こうへと放たれたアロアの声量は地鳴りのように屋敷中を駆け巡って放たれ、それは彼のいる部屋の天井から埃を落とすほど強烈だった。

 あまりの豪快なアロアの声量による爆音には耳を塞ぐ余地などなく、小さな耳鳴りがしばらくの間彼の世界から音を遮った。

 しかし意識がほんの僅かに薄れていても、頭と心に響いた不思議な符号が彼に木霊する。幾度も聞かされてきた言葉でもありつつ、たった一つの言葉が自分に対して何度となく言われ続けてきたものは、ただの一つの呼称に過ぎない。しかしそれが意味するものは人々の中にある一種の象徴である。


 世界の始まりは彼の意など介さない。それは"異"論もまた常である。彼の口から出た言葉がその世界の始まりを告げる最初の宣誓となった。



「…お、王……?」

「……え……?…俺が…?」

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