第21話 なまごろし
「…………」
成瀬さんのお腹を洗っていたはずの私の手に、なにか柔らかい物が当たっている。
いや、当たっているという表現は正確ではない。
ぽよんとした弾力のある物体を、私の両手の親指がグイっと持ち上げているのだ。
そして、軽くのけ反った成瀬さんから発せられた、『やんっ』という今日一番の艶やかな声。
顔を真っ赤にしながら恥ずかしそうにうつむく、彼女のその意味ありげな態度。
間違いない。
胸だ。
私の指が触れている柔らかな物体は、成瀬さんの胸だ。
でも……私が洗っていたのは、成瀬さんのお腹だったはず。
いやもちろん、お腹の上に胸があることくらい、私だって把握している。
けれど、だからこそかなり遠慮した私は、おへその周囲を重点的に洗っていたというのに。
なのに……胸に触れてしまった……?
――
キツネにつままれたような心地である。
なんとなく自分の身体を見下ろしてみるが、到底そんな事態は起こりそうにない。
お腹を洗えばお腹だけ洗える、ごく普通の人体がそこにはあった。
「ねえ、成瀬さん」
「な、なに?」
「私を化かすのはやめてほしい」
「ご、ごめんなさい……?」
素直に謝られてしまい、かえってこちらが困った。
だって、どう考えても八つ当たりだ。
「いや、ごめん。むしろこっちが謝らないといけなかったね」
「……そ……そう……?」
「うん。ハプニングとはいえ、成瀬さんの胸に許可なく触っちゃったから。ごめん」
「……」
私の謝罪を聞いているのかいないのか、成瀬さんは顔を赤くしたまま無言で俯いている。
そこで気づく。
……私の親指、彼女の胸に触れたままじゃない?
うん、触れたままだよこれ、完全にそう。
だって、むにゅっとした感触が親指から伝わってくるんだもの。
これでは成瀬さんが黙り込むのも当然だ。
セクハラ行為を続けながら謝罪したって、反省しているとは到底思えないだろう。
むしろ煽り行為に等しい。
しかしなぜだか分からないが、身体がまったく言うことを聞いてくれない。
成瀬さんの胸から親指を引きはがそうと必死になっているというのに、私の指ときたら、ここを安住の地と定めた老人のように、その場を動くそぶりさえみせないのだ。
「ご、ごめん、成瀬さん。いつまでもこのままじゃいけないのは分かってるんだけど、でもなんか私の親指……この場所が気に入ったみたいで……」
「そ……そっか……気に入ったのなら……しかたないね……」
吐息まじりではあったが、成瀬さんも私の妄言を受け入れてくれた。
言うまでもなく、実際にこの場所が気に入ったのは指ではなく私だ。
そんなことは分かっている。
でもそれを言葉にしたら、きっとすべてが壊れてしまう。
おっぱいに興味津々な変態と一緒にお風呂に入るなんて、成瀬さんも断固拒否するだろう。
お泊まりだって、キャンセル。友達関係も解消。
当然のことだ。
でもイヤ。そんなの絶対にイヤ。
だからこそ私は、全ての精神力を振り絞り、成瀬さんの胸に懐いているこの親指を早急に引きはがさないといけないのだ。
しかしそう簡単に離れてくれるのなら、そもそも苦労はないわけで。
「うぬぬぬぬ……」
そうやって親指と一進一退の攻防を繰り広げていると――。
「も、もえかちゃぁん……」
「……えっ?」
「これ……なまごろし……すぎるよぉ……」
成瀬さんの、喘ぐようなつぶやき。
しかし意味がよく分からない。
「なまごろし……?」
「……こ……これいじょうは……ちょっと……ムリかもぉ……」
「……!」
その切なげな声に、私はハッとした。
間違いない! これは私への死刑宣告!
これ以上セクハラ行為を続けるようなら、こちらにも考えがあるぞという、そういう趣旨の発言だろう。
当然、警察への通報も待ったなし!
もはや、一刻の猶予も無い。
急げ私、親指に負けるな!
「たあっ!」
雄たけびを上げながら、全力で指を引きはがす。
どうやら親指も成瀬さんの死刑宣告にビビっていたらしく、いままでの
とはいえ、いまさら離れても正直手遅れな気が……。
「な、成瀬さん……? ごめんね……?」
おそるおそる成瀬さんの顔色をうかがう。
すると――。
「……ふえ……?」
なぜか彼女は不思議そうな顔をしていた。
「……な、なんで……手を離しちゃうの……?」
その口調は、どこか不満そうでもある。
「……なんでって言われても……」
「お、お胸も洗ってくれるんじゃないの……?」
「…………」
なんで?
いやほんとなんで?
「洗わないけど。ごめん、そんな話したっけ?」
洗うと伝えた箇所は、首と背中とお腹と手足。
胸は入ってなかったはず。
「さすがに胸はデリケートすぎる部位だし、洗う気はそもそもなかったよ」
「……で、でも今の流れ、完全にそうじゃなかった……?」
「流れ……?」
「その……わたしを
「…………」
焦らす?
焦らすってなんだろう。その気にさせるっていうのも、意味がよく分からない。
私の親指が、成瀬さんの胸に移住しようとしていた事件はあったけど、別に胸を洗おうとしていたわけではないし……ん?
あ、もしかしてそういうこと?
私の親指が成瀬さんの胸に長時間居座っていたあの異常な状況を、かなり好意的に解釈してくれた?
胸を洗うべきか悩んでいると、彼女はそう考えたわけだ。
いかにも成瀬さんらしい、無邪気で可愛い勘違いだ。
もちろん実際は、やわらかな感触をいつまでも味わっていたかったという、なんとも変態的な理由だったんだけど……でもそう勘違いしてもらったほうがこちらとしてはありがたい。
ここは乗っかっておこう。
「実はそう。成瀬さんのことを焦らしてた。でもその気になってくれなかったみたいだから、やめておこうかなって」
「……っ!?」
なぜか彼女はギョッとしていた。
「ほ、ほんとにそうだったんだ……」
でもすぐに納得したような表情になっている。
一瞬しくじったかと焦ったけど、別に問題はなかった……かな……?
……結局、『焦らす』っていうのがなにを指しているのかよく分からなかったけど……。
分からないまま乗っかってしまったけど……。
……………………。
チラチラと上目遣いでこちらを見てくる成瀬さんの、どこか嬉しそうな表情に胸が痛んだ。
わけも分からず放った私の発言は、幸運なことに成瀬さんにとって喜ばしい言葉だったらしい。
でも、私はその意味を分かっていない。
分からないまま、成瀬さんの気持ちを弄んでしまった。
……やっぱりこういうの、良くないよね。
ウソをついてでも成瀬さんに好かれたいのはたしかだ。
でもそれは、本当に良くない。
どうしても成瀬さん相手だと、嫌われたくないという気持ちが強すぎて、私のずるいところが出てしまう。
でもそれじゃいけないんだ。
私は、成瀬さんには本音でぶつかりたい。
その結果、嫌われても……いや、『嫌われてもそれでいい』とはさすがに言えないけど、でもウソをついて好かれたって意味が無い。
そして謝るとしたら。
なにも理解していないのに乗っかってしまったと、きちんと訂正するとしたら、今この瞬間しかない。
「ごめん、今の発言は訂正を――」
「ううん、別に訂正はいらないよ」
「え?」
「だって萌花ちゃんの気持ち……ちゃんと伝わってきたから……」
「そう……?」
以心伝心ってこと?
私のほうは成瀬さんの考えがよく分かってないけど、成瀬さんは私の考えが分かってる?
……まあ、たしかにその逆よりはあり得る気がする。
「要するに萌花ちゃんは……その……私が嫌そうだったから、このあたりでやめておこうって、そう考えてくれたわけでしょ?」
「…………うん」
大まかなニュアンスは、それで間違ってないと思うので頷いた。
実際、成瀬さんがあのとき嫌がってくれなかったら、ずっと触っていてもおかしくないし。
「でもそれ、萌花ちゃんの勘違いだよ……?」
「勘違い?」
「…………」
なぜか無言で俯いてしまった。
会話の途中なのに?
しかもなんかニマニマと笑ってるし……。
どういうことなの……?
これホントに会話が噛み合ってる?
「成瀬さん……?」
声を掛けると、うつむいていた成瀬さんがスッと顔を上げた。
ニマニマ笑いは消えていて、やけに晴れやかな表情だ。
「えっとね――次はわたしの番でいいよね?」
「わたしの番?」
「うん。今度は萌花ちゃんがここに座って」
そう言いながら立ち上がった彼女は、私の手を優しく取ると、腰に手を添え身体を入れ替えるようにして私を椅子に座らせてくれた。
「えっと……」
鏡越しに見える彼女は、やけに楽しそうだ。
「次はわたしが萌花ちゃんの身体を洗ってあげるね」
「え?」
私の身体を……?
「大丈夫だよ。わたし、萌花ちゃんの気持ちは全部分かってるから。だから今度は、わたしの気持ちを伝えたいの」
「……」
よく分からないけど、すっごく不安……。
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