第20話 心頭滅却

 鏡の前の小さな椅子にちょこんと座っている成瀬さんは、なんだか本当に子どものように見えた。


 そんな彼女に背後から声を掛ける。 

  

「とりあえず髪を洗うね。あ、もしかして自分用のシャンプーとか持って来てる?」


「持って来てるけど……でも萌花ちゃんのを借りてもいい? 萌花ちゃんって髪がさらさらしてるし、いい匂いもするしで、どんなシャンプー使ってるんだろうって、いっつも気になってたの」


「別に普通の安物だよ。でもまあ気になるのなら、ウチにあるのを使おうか」


 髪がさらさらで、いい匂い。

 ……本当に?

 そんなことを思わなくもないけれど、でも今の私は彼女の甘い言葉をそのまま受け入れたい気分だった。

 

 鏡の下に置いていた、どこのスーパーでも売ってるような青色のシャンプーボトルをツープッシュ。

 ドロリとした液体を手に取り、泡立ててから成瀬さんの頭を洗う。

 丁寧に丁寧に気をつけて。

 爪を立てないように。指の腹でこするように。

 

「……なんか……変な感じかも……」


 心地よいのか、ぼんやりとした声が聞こえてきた。

  

「痛くはない? 私、長い髪って洗ったことが無いから、下手かも」


「そんなことないよぉ……」


 その返事もぼんやりしていた。


 とりあえず問題はなさそうだし、この感じで続けよう。


 優しく優しく。決して髪の毛を引っ張ったりしないよう、細心の注意を払って。

  

 ……これ、意外とイイかも。


 なんていうか……心がポカポカしてきて、相手のことが愛おしく感じるというか……。


 娘の髪を洗う母親の気持ちって、こんな感じなのかもしれない。

 

「洗い流すから、目を閉じて」


「はぁーい……」


 甘えるような子どもっぽい返事。

 でもちょっと眠たそう……?

  

 シャワーで泡を洗い流し、続けてリンス。


「………………」


 髪の毛全体にリンスを馴染ませるあいだ、成瀬さんがなんの反応も示さなくなってしまった。

 流石に眠ってはいないと思うけど、でも寝息が聞こえてもおかしくないような、安らかな顔をしている。


 こんな表情をされると、声を掛けづらい。

 まあ、掛けるけど。


 ぼんやりしてると、お互い風邪をひいちゃうし。


「流すから、目を閉じて」


「……うん」


 すでに目を閉じていた成瀬さんがコクンと頷くのを見てから、シャワーを彼女に向ける。

 小さな泡がシャワーの水に押されて彼女の身体をすべり落ちていった。

 

「……じゃあ、次は身体を洗うね。ボディーソープは――」


「萌花ちゃんと同じのがいい。同じ匂いになりたい」


「うん」


 なんとなくそう言うのではないかと予測していた私は、手元に寄せていたボディソープのボトルを手に取る。

 ちなみにこれは、おばあちゃんが買ってくれた、とっておきのやつ。


 成瀬さんの要望の趣旨を考えると、普段使っているボディソープのほうがいいんだろうけど、でもそれは父親とも共有の代物なのだ。


 私と成瀬さんが同じ匂いになるのはいい。

 でも、そこに父さんまで入るのは、なんかちょっとどうかと思う。


 そういうわけで、秘蔵の品の登場である。

 ボトルが真っ赤だが下品な色合いではなく、容器を眺めているだけで華やかな気分になれる、そんな高級品だ。


 もちろん容器の見た目だけでなく、香りも極上。


 オレンジ色のどろりとしたボディソープを手に取りつつ、成瀬さんの身体を洗う順番を考えてみたが――まあ、悩んでも仕方がない。

 上から順番でいこう。

 デリケートな箇所さえ避ければ、どうということはないと思う。


 だって今の私は、成瀬さんの母親も同然。

 彼女の身体に触れたって、変なことなど考えるはずがない。

 

「ひとまず首を洗って、そのまま背中。次にお腹を洗って、最後は手足。洗う箇所はそのくらいでいいよね?」


「うん……そこ以外は自分で洗うから」


 成瀬さんの声にはかすかな緊張感があった。

 

 つられたように私も緊張しつつ、たっぷりとボディソープが乗った手を、成瀬さんの首にソッと添える。


「んっ」


 瞬間、成瀬さんの全身がビクッと震えた。


「……」


 ドキリとしたが……でも大丈夫。

 今の私は成瀬さんの母親同然。


 娘の嬌声きょうせいに反応する母親などいるはずがない。

 心頭滅却。


 軽く息を吐いて気を取り直した私は、彼女の首筋を撫でるように洗っていく。


 成瀬さんはくすぐったいのか、首根っこを引っ込めていた。

 そんな亀状態の彼女を見ていると、いたずらっ子のような気持ちが湧き出てくる。

 

 もしここで思いっきり首筋を撫で回したら、どんな反応をしてくれるのだろう。

 きっと、可愛い姿を見せてくれるはず。


 でも――心頭滅却。

 

 こんなことで嫌われるわけにはいかない。


 いまの私は、無心むしん化身けしん

 邪心を持たない、洗体せんたいの母だ。


「……っ……っ……!」


 それにしても成瀬さん、本当に首回りが弱いな……。

 さっきから私が手を往復させる度にビクンビクンと反応している。

 まあ、だからなにってわけでもないけど。


 ………………。


「も、萌花ちゃん……? そろそろ……ひんっ……首以外も……」


「あ……」

  

 しまった。

 無心で首ばかりを洗っていた。

 これでは邪心を消した意味がない。

 

 息も絶え絶えになっている成瀬さんに、背後から何事もなかったかのように声を掛ける。


「ごめん。背中に移るね」


「う、うん。おねがいしま――っ!」


 私が背中に触れた瞬間、成瀬さんの身体がびくりと震え、背筋がピンと伸びた。


 やはりくすぐったかったのだろう。

 しかし、いちいち反応が可愛いな、成瀬さんは。


 しかしここも心頭滅却。


 もっとも無心になりすぎると、さっきみたいに一生背中を洗い続けることになりそうなので、ほどほどの無心でいこう。


 無心。

 ひたすら無心。

 成瀬さんの背中、本当にきれいだ。

 無心。

 なんか今ちょっと邪心が混じったけど、それもまた良し。

 無心。

 

 こんどは変に撫でまわしたりすることもなく、無事に背中を洗い終えることができた。


 ……なんかようやく落ち着いて来たかも。

 本当の意味で無心になれてる気がする。

 成瀬さんの反応が穏やかになってきたからかもしれない。


「お腹も洗うよ?」


「……う……うん……」


 背後から手をまわし、おなかを撫でまわすように洗う。


 ……特にこれといった反応が無い。

 まあでもそれが普通か。

 きっと首筋が極端に弱かっただけなんだろう。


 ………………。


 身悶えする可愛らしい成瀬さんが見れなくなったことをちょっと残念に思ってる私は、我ながら悪い子だ。


 いま成瀬さんから聞こえてくるのは、ふぅふぅというかすかに乱れた吐息だけ。

 ……息が荒い……?

 でもまあ、こんなものか?


 あと、彼女の身体がさきほどから小刻みに震えてる気もするが、これもまあ人間なのだから微振動くらいはあるだろう。


 しかし、こうやって穏やかな気持ちであらためて見ると、成瀬さんの身体は本当にきれいだ。

 私が無心の化身だとしたら、成瀬さんは美の化身。

 肌はきめ細やかで、シミひとつ見当たらない。

 お腹の手触りも良好で、余計なお肉がついているわけでもなく――


 ――むにゅ。


「やんっ!?」


 ………………。


 なにかが手に当たってる。


 ……この柔らかな感触って……。

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