第19話 ご褒美すぎる

 空っぽの浴槽を見て、サーッと血の気が引いていくのが分かった。


 お湯張りをしていない――というか給湯器の電源すら入れてなかった。

  

 いくらなんでもこれは大失態だ。

 

 私も成瀬さんもすでに洋服を脱いでいて準備は万端なのに、この状況でお風呂に入れないとあっては、いくら心優しい成瀬さんでも、いい気がしないだろう。


 なんとか……なんとかしないと……。

 挽回の方法が、きっとなにかあるはず……。


 くらくらする頭をおさえつつ浴室を見回していると、浴槽の真横にある、鏡が設置されている壁面に目が留まった。


 ――シャワーだ。

 鏡のすぐ脇に、シャワーが掛かっている。


 あまり使わないので失念していたが、これなら……!

 

 ……いやでも。これだと一人ずつしか身体を洗えない……。


 それなら素直にお湯をためたほうがいい気がする。


 いやいやでも、お湯がたまるまで15分くらいはかかるし、結局その間にシャワーを使うことになるのでは……?


 いやいやでもでも、お湯を張りながらシャワーを使うと、水の勢いが悲惨なことになりそうな気が……。


 ま、まあいい。

 悩むのはあとにして、ひとまずお湯張りだけはしておこう。


 使わない可能性もあるが、その時はその時だ。

 

 ピッと給湯器の電源を入れ、お湯張りのスタートボタンを押す。

 

 ティロティロンというお湯張り開始の音を聞きながら、私は必死に頭を回転させた。


 私も成瀬さんもすでに裸。

 

 そこからお湯がたまるまでの時間を、どうにかしないとといけない。


 ……やはりシャワーしかないか。

 お湯の勢いが死ぬかもしれないが、贅沢を言える状況ではない。

 

 まず、成瀬さんにゆっくりじっくりシャワーを使ってもらう。

 そして、成瀬さんが身体を洗い終わった時点で、お湯がある程度たまっていれば、普通に湯船に浸かってもらえばいい。

 

 まだまだのようであれば、そのときは仕方が無い。


 半身浴と言い張って、少ない湯量のお風呂に入ってもらおう。


 この方法だと、一人ずつしか身体を洗えない欠点が解消できないが、やむを得まい。


 私は外で待機。

 お風呂場の中で順番待ちをしても、身体を洗う成瀬さんをジッと眺める変態が生まれるだけだし、それが無難だ。


 ようやく方針が決まりホッと息をついた私は、事情を説明するため成瀬さんに向き直り――そしてギョッとした。


 彼女はなぜか全裸だったのだ!


「な、成瀬さん!? なんでお風呂場で裸になってるの!?」


「え!?」


 彼女は心底驚いた様子だった。


「お風呂場だから裸になってるんだけど……!?」


「…………なるほど」

 

 もっともな話である。

 裸の成瀬さんにびっくりしすぎたせいで、変なことを聞いてしまった。

 質問を変えよう。


「タオルはどうしたの? てっきりタオルのまま入るつもりかと……」


「さ、さすがにタオルを巻いたままお風呂には入らないよ。だから、そこのタオル掛けに掛けたけど……ダメだった?」


 ダメじゃないけどダメすぎる。

 

 左手でタオル掛けを指差しながら、右手で恥ずかしそうに胸元を隠している成瀬さんは、ちょっとびっくりするくらいセクシーだ。

 加えて豊かな胸が手からこぼれ落ちそうで……いくらなんでもこれは目の毒としか表現できない。


 私は成瀬さんの裸体から視線をそらしながら、もごもごとつぶやいた。


「いや、ごめん。それは別にいいんだけど……。実はあの……お風呂を沸かすのを忘れてて……」


「あ、ほんとだ。全然お湯がたまってないね」


 浴槽を覗き込む成瀬さんの背中……すっごく綺麗……。

 ああ、いけないそんなことを考えている場合じゃなかった。


「いま入れ始めたばっかりだから、お湯がたまるまで15分くらい掛かると思う。だから成瀬さんは、シャワーを使ってもらえる? 身体を洗い終わるころには、湯船に浸かれると思うから」


「あ、うん……」


 頷く成瀬さんは、不思議そうにこちらを見た。


「萌花ちゃんはどうするの?」


「私は外で待機する」


「え、なんで? 一緒にお風呂に入るんじゃないの?」


「そのつもりだったけど、シャワーはひとつしかないし」


 そう答えると、成瀬さんは不満そうに口をとがらせた。

 

「一緒に入ろうよ。シャワーがひとつしか無くても、頑張ったらどうにでもなると思う」


「……」


 私はどうにもならないと思う。


 というか、どう頑張ったらいいんだ。

 密着か?

 たしかに互いの身体をピタッとくっつけていれば、シャワーがひとつでもなんとかなるかもしれない。


 でもそんなことしたら、ドキドキしすぎてお風呂どころではなくなってしまう。


「ね? それならいいでしょ?」


「……いや、あの……」


 下心がバレないように理由を説明するのが、すごく難しい。

 そうやってまごついていると、成瀬さんの表情が曇ってしまった。


「ここまで一緒に来たのに、いまさら一人で入るのはさすがに寂しいし……」


「……」


 そう。

 たしかに私だって寂しい。


 とはいえ一緒にシャワーを使うのはさすがに……。


 ……でも考えてみれば、彼女は1人になるのを寂しがっているだけ。

 必ずしも同時に身体を洗う必要はないわけか。


 ………………。

  

 覚悟を決めよう。

 だって成瀬さんのためなんだ。

 

 彼女にこのお泊まり会を楽しんでもらうためにも、私は欲望も下心も捨てて、理性ある変態として全力を尽くすのだ。


「……成瀬さん。鏡の前に小さな椅子があるでしょ? そこに座ってもらえる?」


「これのこと? 座ったけど……なに?」


 成瀬さんの背後に立った私は――彼女の背中越しに鏡を覗き込む。

 

「お湯張りが終わるまでの約15分。私がゆっくりじっくり成瀬さんの身体を洗ってあげる。それなら1人じゃないよ」


「……」


 鏡越しに見える成瀬さんの表情は、どこかぼんやりとしていた。


「萌花ちゃんが……? 私の身体を洗う……?」


「うん。あ、心配しないで。成瀬さんの身体に触れても、いやらしいことは考えないようにするから」


 それは明らかに失言だったが、幸いにも成瀬さんは聞き流してくれたようだ。

 

「……萌花ちゃんがわたしの身体を……」


 ぼんやりしたまま、そんな言葉をつぶやいている。


 ホッとしたのもつかの間。

 彼女の表情を眺めるうちに私は大切なことに気付いた。

 考えてみれば、いま私がしようとしていることって……単なるセクハラでは?


 裸になった成瀬さんの身体を、じっくり洗うと宣言する私。

 同性同士でもセクハラは成り立つというし、普通にアウトな気が……。


 これは前言を撤回し、当初の予定通り外で待つほうがよさそうだ。

 

「ごめん、私に身体を洗われるのなんて嫌だよね? やっぱり――」


「嫌っていうか――ご褒美すぎない……?」


「…………」


 ご褒美すぎる……?


 どういう意味だろう。

 

 私の聞き間違えだろうか。

 だって、私が身体を洗うことがご褒美になるわけが無い。


「それはどういう――」

 

 私が聞き返そうとすると、成瀬さんはハッとしていた。


「あ、ちがうちがう! 萌花ちゃんにとってご褒美って言いたいんじゃなくて、私にとってご褒美すぎるって意味だから! 誤解しないでね!」


「うん、分かってる」


 などと言いつつ、ほんとは分かってない。

 というかそもそもそんな誤解してない。

 

 なぜ私が成瀬さんの身体を洗ったら、彼女にとって「ご褒美」になるんだ……?


 もしかして意外と甘えん坊?

 子どもの頃お母さんと一緒に入ってた頃を思い出すとか、そういうこと……?


 そういえば、抱き枕がないと眠れないとか言ってたし、本当にそうなのかもしれない。

 だとしたらかわいい。

 いかにも成瀬さんらしくて、こんなときなのに思わず笑いそうになる。


「と、とにかく萌花ちゃんが身体を洗ってくれるっていうのなら、もちろんわたしは大歓迎だから! よろしくお願いします!」


 椅子に座った成瀬さんが、ガバッと頭を下げる姿を、私は鏡越しに見つめていた。

 

 やるべきことは単純。

 私は、娘を愛する母親のような広い心を持って、成瀬さんの身体を洗えばいいわけだ。


 このお泊まり会を成功させるためにも、ゆっくりじっくり丁寧に頑張って、成瀬さんにたっぷり喜んでもらおう……!

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