第18話 ピンチはチャンス
成瀬さんとふたりきりのリビングは、重苦しい空気に包まれていた。
ソファに横並びに座ってはいるものの、互いに伏し目がちのまま、沈黙が続く。
そんな気まずい状況の中で……。
私は、成瀬さんの足元に置かれた、可愛らしいリュックをぼんやりと眺めていた。
――ちょっと着替えを取りに家に戻ってもいい?
お泊まり会の開催が決まった直後、成瀬さんがそんなことを言い出したときには正直なところヒヤリとした。
なんだかそのまま戻ってこないような気がしたのだ。
とはいえ、彼女の主張は当然だし、ダメなどと言えるはずもない。
だから私にできることは、妙に挙動不審な態度で立ち去る彼女を見送ることだけ。
……けれどピンチはチャンスというのは本当だったらしい。
寂しさを紛らわすため、冷蔵庫に入っている材料で適当に晩ごはんを作って待っていたところ、これが驚くほど大好評。
私服に着替えリュックを背負って現れた成瀬さんは、我が家のテーブルに並んだ料理を見て大喜びしてくれた。
当然のように食事のあいだも話が弾み、このお泊り会は早くも大成功といってよかったくらいで……。
なのに、それからわずか数十分後――つまり、今だ。
変化と言えば2人そろってテーブルからソファに移動したくらいなのに、先ほどまでの盛り上がりから打って変わって、このリビングから笑い声が消えてしまった。
どうしてこんなことに……。
いや、理由なんてわかり切っている。
すべては私のせいなのだ。
この沈黙を破りたいだけなら、ちょっとリモコンに手を伸ばして、テレビの電源を入れればそれでいい。
大事なゲストである成瀬さんを、私のつたない話術で楽しませようなんてそもそも考えていなかったし、文明の利器の力を借りることにいささかの躊躇いもない。
でもダメなのだ。
今回ばかりはそれではダメ。
だって私には、なすべきことがあるのだから。
――成瀬さんをお風呂に誘う……!
そのためには、テレビの力なんて借りるわけにはいかない。
彼女がテレビに見入ってしまったら、声を掛けづらくなってしまう。
音楽の力を借りるのも、スマホの力を借りるのも同じ理由でNGだ。
そもそも同意は取れているのだから、「お風呂に入ろうか」と私がつぶやくだけで、「そうだね」と成瀬さんが返事をしてくれるはず。
けれど、簡単なはずのその言葉が、今はなかなか言い出せない。
すべては、私に下心があるせいだ。
一緒にお風呂に入るとなると、当然裸の成瀬さんとご対面するわけで。
成瀬さんは貧弱な私の身体になんて興味ないだろうが、私のほうは当然違う。
……というか、なぜあのときの私は、一緒にお風呂に入ろうなんて大それたことを言ってしまったんだ。
その場の勢いって本当に怖い。
「……ねえ萌花ちゃん」
沈黙に耐えかねたのか、成瀬さんが話しかけてきた。
彼女は顔を伏せたまま、ちらちらと横目でこちらを見てくる。
「そろそろお風呂にする?」
「……!」
その言葉に、私の肩がビクリと震える。
正直、まだ覚悟はできていない。
けれどここでまごまごしていては、下心を悟られてしまう。
「うん、そうしようか」
可能な限り軽く頷いて見せた私は、いまさらながら不安になって、成瀬さんの顔をのぞきこむ。
「……お風呂、一緒に入ってくれるんだよね?」
「うぅぅん!」
ギュッと目をつぶった成瀬さんは、元気いっぱいに唸り声のような返事をしてきた。
『うん』なのか『ううん』なのか極めて判断が難しかったが、リュックからお風呂用と思われるポーチとバスタオルを取り出しているところをみると、一緒に入ってくれるらしい。
まあ当然か。
成瀬さんにしてみれば、私と一緒にお風呂に入るくらい、どうってことないんだろうし。
でも、やっぱり私にとっては違うんだ。
ソファから立ち上がって、成瀬さんと共にお風呂場へ移動しながらも、なんだか足元がふわふわしている。
……ここから先は、本当に気をつけないといけない。
特に成瀬さんの脱衣後は要注意だ。
視線を彼女の顔から動かさないようにしよう。
彼女の身体は、これは決して見てはいけない。
それは成瀬さんのためであり、自分自身のためでもある。
裸に興味津々な変態として、成瀬さんに嫌われるのは絶対に嫌だ。
「ここが脱衣所。奥にお風呂があるよ」
脱衣所のドアを開けながら、見れば分かるような説明をしてしまったが、成瀬さんは脱衣所に足を踏み入れながらフンフンと興味深げに頷いている。
そんな彼女の手には、相変わらずポーチとバスタオルが握られていた。
おそらくポーチの中に下着やお風呂用具が入っているのだろうが、大きさ的にパジャマが入ってるようには見えない。
「もしかして成瀬さん、パジャマは持ってきてない?」
「え? ああうん、でも平気だよ。いま着てるのをそのままパジャマ代わりにするつもりだから」
「そっか」
成瀬さんの格好はごく普通のTシャツに短パン。
まあたしかにパジャマ代わりになるか。
「もしあれなら、私のパジャマを貸そうかとも思ったけど、それなら問題ないね」
「え!?」
成瀬さんはびっくりした様子でこちらを見たあと、もじもじとし始めた。
「貸してくれるんだったら、借りたいかも……」
「そう……?」
「うん。萌花ちゃんが持ってるパジャマって、可愛いよね。お部屋のハンガーに掛かってたやつとか、すごく好み。あのモコモコしたやつが2着あるんだったら、お揃いで着たいくらい」
「……」
黙ったのは、褒められたからではない。
いまさらながら、サイズが合わない気がしてきたのだ。
特に胸のあたりが……。
まあいい。
フリーサイズのパジャマだったはずだし、なるようになるだろう。
「色違いだけど、2着あるよ。お揃いで着ようか」
「わーい!」
無邪気な返事に思わず吹き出しそうになりながら……。
しかしここからが問題だと、私は気を引き締める。
ついに洋服に別れを告げるときがやってきたのだ。
とにかく成瀬さんの裸はぜったいに見ないようにしないといけない。
私は、成瀬さんに背中を向け、パパっと服を脱いだ。
突然の私の動きに慌てたのか、背後でも服を脱ぎだした気配がする。
「……」
なんかすごい緊張してきた。
私のすぐ後ろで、成瀬さんが裸になってるのか……。
「萌花ちゃん……堂々としてるね」
「うん?」
全裸で壁を見つめること数十秒、成瀬さんも脱衣が終わったらしく背後から声をかけてきた。
振り返るとそこには、バスタオルを身体に巻き付けた、色っぽい成瀬さんが立っている。
ちょっとホッとした。
そこはかとないエロスが漂っているが、これならなんとか理性を保てそうだ。
「タオルとか使わないんだなあって思って」
「ああ……」
私は成瀬さんと違って、タオルで身体を隠していない、ごく普通のノーマル全裸。
別に仁王立ちしているわけでもないが、もじもじしている成瀬さんより堂々としているのも確かだろう。
というか、もしかして私もタオルを巻くべきだった……?
相手に裸を見せないという配慮くらい、必要だったかもしれない。
けれど、自宅のお風呂でタオルを巻くという発想がなかったのだから仕方が無い。
「別にいいかなって。相手が成瀬さんだし」
「……ふ、ふーん……」
「なに?」
奇妙な反応を不思議に思い聞き返すと、成瀬さんは頬を赤くしながらフフフと笑った。
「それってさ――わたしのこと大好きだから、そんなわたしになら裸を見られてもいいよってこと?」
「まあそうだね」
「まあそうだね!?」
「なんで驚いてるの……」
「ツッコミを入れてもらうためにボケたのに、まさか肯定がかえってくるなんて……」
「いまのボケになってた……? そもそも裸を見られるのが嫌だったら一緒にお風呂なんて入らないし」
「いや、そこじゃなくて……まあ、たしかにそこもなんだけど……」
「……? とにかくお風呂に入るよ?」
「あ……うん……!」
妙にアワアワしている成瀬さんに首を傾げつつ、浴室のドアを開け――違和感。
いつもならモクモクとした湯気が出迎えてくれるが、今日はそれがない。
そこで気付く。
――私、お湯張りをしてない……!
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