第23話 なだらかな丘陵

「いまのうちに確認しておきたいんだけど……」


「なに?」


 鏡に映る成瀬さんは、妙に落ち着きが無い。

 もっとも私自身が落ち着かない気分だから、そう見えるだけかもしれないが。

 

「お腹を洗ってるときに『事故』でお胸に手が当たっちゃうかもしれないけど、それは大丈夫……? ほら、さっきの萌花ちゃんみたいにさ」


「大丈夫だよ」


 私は即答した。

 だって、成瀬さんと私とでは胸のボリュームが違いすぎて、そもそも当たるはずが無い。


 お腹を洗っていたのに胸に手が当たるという驚異の人体構造の持ち主は、世界広しといえども成瀬さんくらいのものだろう。

 だから、心配ご無用だ。

 

「そ、そっか……それなら……うん……じゃあ確認も済んだしお腹を洗わせてもらうね……」


 妙に緊張感を漂わせている成瀬さんの両手が、背後から伸びてくる。


「…………」


 お腹を洗われるのを待つというのは、なんだか変な気分だ。

 首や背中ほどにはくすぐったくないだろうけど、それでも成瀬さんに触れられるというだけでこちらまでドキドキしてきた……。


 そんなことを考えていると、ひんやりした成瀬さんの手の平が、私のお腹にピトッと張り付く。

 

「……ふっ!?」


 口から吐息が漏れた。


 なんかこれ……思いのほかゾワゾワするというか……。


 この段階で結構くすぐったい。

 ここから成瀬さんの手が動き出すというのは、ちょっとまずいかもしれない。


 だが、まずかろうとなんだろうと私には時間稼ぎという最優先事項があるわけで。


 とにかく全身全霊で耐えよう。

 それしかない。


 私が覚悟を決めると同時、成瀬さんの手が私のお腹を這いずり始める。


「……っ」


 声が漏れそうになるのを、必死に我慢する。

 くすぐりに弱いからといって、ここで負けるわけにはいかない。

 いやもちろん勝ち負けではないのは分かってはいるが、でもここで声を出してしまうのは、なんだか恥ずかしい。


 そうやって私が懸命に耐えていると、成瀬さんがこちらの顔を覗き込んできた。

 

「どう?」

 

 聞かれても困る。

 あえて言うなら異常なほどにくすぐったい。

 いや、くすぐったいっていうか……なんか……なんか……このお腹を撫でまわされる感じ……なんていうかこれものすごく……。


 えっちな感じだ……!


 絶対に成瀬さんには言えないけど、なんかこれすごくえっちだと思う……!


「……もうちょっと上のほうも洗うね……?」


「…………」


 言葉を発する余裕もなく、うつむいたままの私。

 その反応を消極的な肯定と解釈したのか、成瀬さんの手がスーッと私のお腹を駆け上がっていく。


 ぞわぞわとした感覚が最高潮を迎える中――私の胸が、ふにっと持ち上げられた。


「……!?」


 声がでなかったのは、奇跡としかいいようがない。


 成瀬さんの手が……私の胸に触れている……!?

 っていうか、持ち上げられている……!?

 絶対にありえないと思っていたのになぜこんなことに……。


 ……はっ!? まさか……!


 そこで私はようやく、自身の判断ミスに気付いた。


 ――胸が無さすぎたからだ……!


 私の胸は成瀬さんと違ってお腹と地続きになっている。

 そのせいで、胸のスタート地点が分からなかった成瀬さんの手は、お腹の範囲を超えてどこまでも上昇してしまい、その結果私の胸を持ち上げるという最悪の事態を招いてしまった!


 さすがにこれは考えてなかった……。


 成瀬さんとは真逆の意味ではあるが、私も驚異の人体構造の持ち主だったのだ。

 もう少し自分の身体に興味を持っていれば、こんな失敗をすることはなかったのに。


 しかしいまさら後悔しても、もう遅い。


 成瀬さんは私の胸を持ち上げたまま、こちらの反応をジッとうかがっている。

 

「どう?」


 だから聞かれても困る……!


 視線を少し下げれば、私の胸に触れてしまっていることくらいすぐに分かるだろうに、彼女はこちらの顔ばかり見ていた。


 胸を持ち上げられた状態で、なんて答えれば……。


「わ、わからない……」 


「わからない……?」


 聞き返されてしまったが、でも実際に頭が混乱していて、なにもかもが分からない。

 だからそれが素直な気持ちだった。


「……わからない……」


「えっと……」


 成瀬さんは困った様子ではあったが、このままだと話が進まないとでも思ったのだろう、私の目を見つめながら優しく微笑んでくれた。


「とりあえずもうちょっと続けるから、イヤだったら言ってね……?」


 この状況で、続行……!?


 まずい。とてもまずい。


 成瀬さんは、私の胸に触れていることに気付いていないのだ。

 お腹を洗うつもりで、私の胸を撫でまわしてしまう可能性はじゅうぶんにある。


 さすがにそれは耐えられそうにない。

 くすぐったさのあまり気を失うかも……。


 ここまで追い詰められてしまったのだ、状況がこれ以上こじれてしまう前に真実を伝えるべきだろう。

 つまり、「成瀬さんがお腹だと思って触れているのは、実は私の胸なんだ」ときちんと説明する必要がある。


 それはまさに残酷な真実。

 まあ、誰にとって残酷かといえば、もちろん私にとってなんだけど。

 

 逆に成瀬さんにしてみれば、触れているのが私の胸だろうとお腹だろうと正直どうでもいいことだとは思う。


 だって、感触の違いに気付かないくらいだし。

 「萌花ちゃんのお腹、意外とぷにぷにしてる……」くらいにしか思ってないんだろう。

 

 けれどそれも仕方が無い。

 私の胸は、成瀬さんと違ってボリューム感に欠けている。


 本当に成瀬さんの胸はすごかった。

 むにゅっとしたあの触り心地はまさに至高で、『おっぱい』の名を冠するに相応しい。

 もし成瀬さんの許可が下りるのなら、一生触り続けていたい逸品だ。


 一方で『ふに』程度の感触しか生み出せない私の胸は、胸界でも最弱の存在。

 おっぱいの面汚つらよごしと言っても過言ではない。 


 ――などと成瀬さんの胸に想いを馳せつつ、くだらないことばかり考えていた私。

 結果的にその時間の無駄遣いが致命傷となった。


 成瀬さんの手は宣言通りさらに上昇を続け、気付いたときには私の胸全体が彼女の手のひらにすっぽりと収まっていたのだ。


 そして――もぞもぞと動きだす彼女の手。


 反射的に歯を食いしばり、その衝撃に備えたが……伝わってくるのは淡い刺激だけ。決して不快ではない。


 ホッとすると同時、少しだけ不満を感じた。

 

 成瀬さん、なんでこんなに優しい触り方なんだろう?

 もっと激しくてもいいのに。

 ぜんぜんイヤじゃないのに。


 ………………。


 いやなに考えてるの私!?

 変態なの!?


「……む、むりかも!」


 慌てたせいか、私の口からはなんの脈絡もなくギブアップ宣言が飛び出ていた。


「え……?」


「ごめん、成瀬さん、これむりかも!」


「む、むり? イヤってこと?」


「イヤとかじゃなくてむり! その……」


 一瞬躊躇したが、いまの私に言葉を選ぶ余裕なんてない。


「胸! 気づいてないと思うけど成瀬さん、私の胸に触ってるから! なんかいやらしいことになってるから!」


「え!?」


 成瀬さんはやはり気付いてなかったようで、私の胸から勢いよく手を離していた。


「え~っとぉ……」


 しばらくは動揺した様子で自身の髪の毛をいじっていた成瀬さんだったが、私がそれ以上反応を示さなかったことで落ち着いてきたらしい。

 私の背後に立ったまま、なにかを誤魔化すかのようにパンと両手を打ち鳴らした。


「い、いつの間にか、わたしの手、萌花ちゃんの胸にまでたどり着いてたんだねぇ~。ぜんぜんまったく欠片も気付いてなかったなぁ~」


「う……うん……」

 

 もちろんそれはそうだろう。

 成瀬さんがわざと胸を触ってきたなんて思うわけがない。


 なんにせよ問題はそこではない。

 成瀬さんに胸を触られて、でも私は全然嫌じゃなかったのだ。

 むしろ、その優しい触り方に物足りなさすら感じていた。


 それってつまり――。


 成瀬さんの顔をまともに見ることができない。

 恥ずかしいというか、照れくさいというか……。


 ――ティロロン、ティロロン


 そんなとき、お風呂場に軽やかな電子音が響き渡った。

 そして、抑揚のない女性の声が続く。


「――お風呂が沸きました。お風呂が沸きました」


 天の助けだ!

 

「お、お湯が沸いたみたい! あとは自分で洗うから、もう大丈夫!」


 こういうときはぐずぐずせずに、即断即決するに限る。

 私は自身の身体を手早く洗うと、お湯がたまったばかりの湯船に大急ぎで逃げ込む。


 浴槽の中で身体を縮めた私は、天井へと上がっていく湯気をぼんやり見ていた。


 成瀬さんは気を遣っているのか、鏡の前で身体をゆっくりと洗っている。

 そんな彼女に視線を向けず、シャワーの音に耳を傾けながら、私はひとり考える。


 成瀬さんのことを友達として好きな自覚はあった。

 でもなんかそれだけじゃないっていうか……。


 もしかして私って――成瀬さんと恋人になりたいのかな……?

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