第16話 孤独の理由(後編)
「人助け?」
「もともとはカラスのこと、べつに嫌いじゃなかったんだ。むしろあのシュッとしたフォルムがカッコいいくらいに思ってた。でも――あの日、すべてが変わってしまった」
いまでもあの蒸し暑い夏の日のことは鮮明に思い出せる。
夏休みを間近に控えた学校からの帰り道。
希望に満ちた日々を一瞬で絶望に塗り替えたあの日。
「なにがあったの……?」
「……家の前の道路で、親子連れがカラスに襲われてたんだ……」
「カラスに……」
「私はそれを見て、正直なところ……すぐに逃げようと思った。カラスが思いっきり羽を広げて、5歳くらいの男の子を威嚇するその姿が、とてつもなく恐ろしかったから。でもその子のお母さんが、ベビーカーを押してることに気付いて……」
「……あ、赤ちゃんもいたの……?」
「うん」
ベビーカーに覆いかぶさるようにしてカラスの襲撃をしのごうとしている母親を見て、私は思わず飛び出してしまったのだ。
「大声でわーわー言いながらカバンを振り回して、必死にカラスを追い払ったんだ。さっき路地裏でゴミ袋を振り回してた人みたいに。そしたら、よっぽど危ない人に見えたのかな、カラスたちも波が引くようにさーっといなくなってた。正直ホッとしたよ。別にカラスと争いたかったわけじゃないから」
「じゃあ、赤ちゃんたちも無事だったんだ?」
「うん。おかげでベビーカーのお母さんからすっごく感謝されて、赤ちゃんからもニコニコの笑顔を向けてもらって。私は得意になってた。でも――」
「そのせいでカラスに目をつけられちゃったんだね……」
そうなのだ。
あのとき飛び出したことは、後悔していない。
それでもどうしても思ってしまう。
あの出来事さえなければと。
「カバンを振り回す私のことがよっぽど印象に残ったんだと思う。それ以来、学校からの帰り道は、毎日のようにカラスの襲撃に遭うようになったんだ。髪をくちばしでついばまれるなんて日常茶飯事で……だから家にたどり着くころには、いつもボロボロだった」
「……誰にも相談しなかったの?」
「……言いづらかったのもあるけど、でも夏休みが近かったから。あんまり気にしてなかったんだ。もうすぐ長い休みに入る。そうすればカラスも、私のことなんて忘れてくれるって」
今にしてみれば、それは浅はかな考えだった。
あのとききちんと専門家に相談していれば、違う未来が待っていたはず……そう思えてならない。
「……夏休みに入ってしばらくたってから、友達と図書館に行ったんだ。カラスのことなんてすっかり忘れてた。油断してたんだね。でも向こうは違った。図書館からの帰り道――襲撃された。5羽のカラスが上空から急降下してきて……友達は顔をかばおうとして、手を怪我した。血がだらだら流れてて……なんとかその場から逃げ出せはしたよ。でもそれからその子は、私に近付かなくなっちゃった。一緒にいると、また怪我しちゃうからって。萌花ちゃんはカラスに嫌われてるからって。……それ以来、私は友達を作らないようにしたんだ。もう2度と、カラスの襲撃に巻き込んだりしないように……」
「…………」
「結果的に正しい判断だったと思う。カラスの襲撃は、夏休みが終わっても続いたから。それどころか、だんだんと激しくなった。5羽が10羽になり、10羽が50羽になり、そして……」
「……で、でも今は普通に、お家に帰れてるでしょ? もうカラスと仲直りできたってことだよね?」
「仲直りって……」
その素朴な表現に、思わず微笑んでしまう。
きっと田舎暮らしの長かった彼女は、野生動物とも素敵な絆を築いてきたのだろう。
でもここは都会だ。
野生との共存なんて、夢物語にすぎない。
「現実はさ、絵本とは違うんだ。『カラスと仲直り』なんて、子供向けのファンタジーでしか起こらないことだから」
「……そ、それはそうだけど。じゃあ、時間が解決してくれたってこと……?」
「ううん。さすがに何百羽のカラスに襲われるようになったから、そこまでのんびりもしていられなかった。だから私は、あくまでも現実的に動いて、その結果カラスの襲撃を防ぐことに成功したんだ」
「現実的に……?」
「うん。毎日のようにカラスの大群に襲撃されて弱りきった私は……」
それは屈辱の思い出。
でもだからこそ成瀬さんにはきちんと伝えたかった。
私は、ベッドに横たわったまま山の方角を見つめ、暗い気持ちでつぶやく。
「――山奥に住むカラスの王様に、手作りの指輪を渡しに行ったんだ」
「ファンタジーなことやってる!」
「だから、ファンタジーとかそういうことじゃないんだって。カラスは光るものが好きだから、要は貢ぎ物だよね。現実的で、世知辛い話だよ」
「た、たしかにカラスの習性は知ってるけど、でも『カラスの王様』って単語がだいぶファンタジー感が強くて……」
変なところにこだわる成瀬さんに、私は思わず笑ってしまった。
「かもしれないけど、それは別に私が言い出したことじゃないから。専門家の人がそう呼んでたの」
「専門家の人? カラスの?」
「うん」
私に差し出された救いの手。
彼女の柔らかな微笑みと、真っ黒な服装を思い出しながら、つぶやく。
「――カラスババアがそう言ったんだ」
「カラスババア……!? カラス好きのおばあちゃんってこと!? な、なんか呼び方が失礼じゃない!?」
「でも、本人が『あたしのことはカラスババアと呼んどくれ』って言ってたし」
「自称カラスババア!? 大丈夫なのその人!?」
妙にリアクションの大きい成瀬さん。
その理由にふと思い至る。
カラスババアのいちばん大事な説明を忘れていた。
たしかに今の私の表現だと、自称専門家の不審者としか思えず、だいぶ怪しく聞こえたはずだ。
「ごめん、私の説明が下手だった。カラスババアはね、市役所の
「鳥獣対策課……? 市役所の人……?」
「うん。カラスが好きで、この街のカラスのことを調べるうちに専門家として雇ってもらえたんだって」
「な、なんだ……びっくりした。でもそっか、たしかにそれならちゃんとした専門家の人だね。その人からのアドバイスなら、カラスの王様に貢ぎ物を持っていくのも現実的な対応かも……?」
「うん、ファンタジー要素なんて欠片もないよ。彼女との出会いだってそうだもん。私がカラスに襲われてるところに黒いローブを着たカラスババアが
「は、廃屋……?」
「うん。それでカラスババアは、廃屋を取り囲むカラスの群れに怯むことなく、ひび割れた窓から外の様子を
「いや、だいぶ怪しいよ! 黒いローブを着たカラスババアがカラスの襲撃から匿ってくれるのは、ファンタジーに片足突っ込んでるよ!」
「別にそんなこと無いと思うけど。そもそも貢ぎ物を渡すとき、カラスの王様のところまで案内してくれたのもカラスババアだし。『アポを取ってあるから、今日はカラスに襲われないよ。安心しな』って言われて、実際その通り王様のところまで無事にたどり着けたんだ」
「ごめん、やっぱり片足どころじゃなかった! カラスの王様との
叫ぶ彼女だったが、なにかを諦めたかのように首を振った。
「ま、まあいまは、その人のことはいいや。すっごく気になるけど、話が進みそうにないし。とにかく、そうやって貢ぎ物を持っていったら、カラスの王様が許してくれたってこと?」
「さっきも言ったけど、現実は許してもらうとかそういうわけにはいかないから。カラスと話して、『貴様を許す』なんて言ってもらえるわけもないし」
「カラスババアが一緒にいても……?」
「カラスババアをなんだと思ってるの……?」
「……うん、単なる市役所の人だもんね。たしかにそうだけど、なんだろうこの釈然としない感じ。……で、でも、とにかく、そうやって王様のご機嫌を取ったら、それ以降カラスの襲撃はなくなったんでしょ?」
「うん。だからまあ、なんとかなったのかなと思ってたんだ……」
「きっと大丈夫だと思うよ。さっきのカラスも萌花ちゃんに襲いかかる感じじゃなかったし。……もし心配だったら、カラスババアさんに連絡を取って、カラスたちがどんな状況なのか確認してみたら?」
「……実はこの前、市役所まで会いにいったんだけど……」
「いなくなってた?」
「ううん。『そのような者は、職員におりませんが……』って鳥獣対策課の人が困ってた」
「どこまでもファンタジー!」
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