成人の儀(5)

 森の中から少年が汗だくになりながら現れた。老人は目を瞠り、そして少年も同じ表情を浮かべた。

 少年は驚き、何故、と思ったが、今は道草を食ういとまはない。老人を無視して、滝壺へと近づいてゆく。

 一方、老人は少年の姿に驚きながら、その背後に引いたものにも驚いた。目算で一丈二尺、息絶えたクマの姿に言葉を失った。片目は黒く潰れており、首筋も斬られている。血は抜け切ったのだろう、既に垂れてはいなかった。

(この少年が一人で仕留めたのか……!?)

 俄かには信じがたかった。この大きさのクマともなれば、ムラの男衆が十数人がかりで投げ槍を使い、ムラ一番の剛力の者が木の上からクマの体に飛び乗ってとどめを刺すのが通例だ。一人で戦いを挑もうものなら、クマに為されるがままに死を受け入れる外ない。そのクマが、今は死体となって目の前にある。信じがたかったが、それでも、ムラの皆が眠っている今、少年が一人で仕留めた以外に考えられる要因はなかった。

 他のムラの者がこんな夜半に異なるムラの者に手を貸すとは思えないし、第一、少年は未成年だ。どこのムラでも、成人には入墨が入れられる。入墨がなければ、それは未成熟な人間であることの何よりの証左だ。たとえ協力関係を築くにしても、未成年の者にこれだけの獲物を丸々一頭少年に明け渡すとは考えられない。

 老人は、少年の強さに閉口した。

 老人が呆然としている横を通り、少年は滝壺の岸辺までやってきた。そして引いていた紐を下ろし、今度はクマの背に回り、岸の際までクマを押す。そして、滝壺に向かって叫んだ。

「滝壺に住まう魔性よ!我が声は聞こえておりますか?」

 少年の声に呼応するように水面の際まで黒いものが上ってくる。

「ほう、獲物を捕らえてきたか。」

 魔性は静かに言葉を発する。心なしか、舌なめずりをしているように感ぜられる。その様相に、少年は再び恐怖を覚える。しかし、勇を鼓して魔性に言う。

「あなた様に捧げる贄にございます。どうかお納めください。」

「ああ、いいだろう。しかし、本当に良いのだな?これを受け取ってしまえば、お前はもう後戻りは出来んぞ。」

「心得ております。」

 少年と魔性のやり取りの最中さなか、老人は呆気あっけに取られていた己に正気を取り戻す。

(魔性は、本当にいたのか……!)

 老人がさらなる驚愕を覚えている間にも、少年と魔性の会話は進んでいく。

「この獲物に毫も価値がなければ、という話、偽りないな?」

「……はい。」

(獲物?価値とは何だ?)

 老人が疑問を抱き、それに思いを巡らせる中、少年はクマを押して水の中へと落とす。

「お前の捧げ物、確かに受け取った。」

 魔性はそう言うと、大口を開けて一丈二尺の巨体を一飲みに飲み込んだ。少年は固唾を飲み、その様子を見守る。果たして、魔性のお眼鏡に適うのか否か。その結末次第で、己の命もここまでの努力も、滝に流れ込む水泡の如く消える。少年の頬を汗が伝う。

 魔性が、少年の方へと顔を向けた。その目の光が細くなる。少年は死を覚悟した。

 ここまでか、と両の手を握りしめた瞬間、突如として魔性の体が強い光を発する。その光は強さを増し、水面を突き破っそらへと昇っていく。あたりは光に包まれ、突き破られた水の飛沫が舞い飛ぶ。

「これは一体……?」

 少年の背後から老人が声を漏らした。少年にも、何が起きているのか詳しいことは分からない。ただ、魔性が光へ転じ、そらへと昇っていったということは、自分の捧げた贄に験があったということであろう。

 唖然として天へ昇る光を眺めていると、その頭上から声が降ってきた。

「よくやってくれた。剛の者よ。のお陰で、は再びあめへと還ることが出来る。」

 気付けば、魔性の言葉遣いが変わっていた。それを受けて、少年が口を開く。

「それは僥倖ぎょうこうにございます。しかし、お伺いしたいことがございます。」

「何だ?」

「これまで幾年も剛の者を喰らい続けてきたあなた様が、何故、私の捧げたクマ一頭のみで天へと還ることが叶ったのでしょうか?」

 それを聞いて、老人が目を見開く。ムラの前で少年の言ったことは、偽りではなかったのだ。魔性の姿は光に転じるまでついぞ見ることが出来なかったが、少年がクマを滝壺へと落とし、それが突如として光に変わり、そして今、自分にも聞こえている頭上からの声は、少年の物言いが真実であったことを物語るに十分であった。

「私にも分からない。が、憶測を言えば、畢竟ひっきょう、そなたの出した案こそが、私が天へと還る唯一の法であったのかもしれん。」

「と、言いますと?」

「剛の者を喰らうのではなく、剛の者が獲ってきた贄を捧げてもらう、という作法にこそ意義があったのだろう、ということだ。」

 そこまで聞くと、老人にも察しがついた。自分の幼馴染、無二の友が滝壺へ飛び込んで以来、二度と上がってくることがなかったのは、いま光となったかつての魔性に喰われていたのだ。

「待ってくれ!」

 老人は粗暴な言葉で問わずにはいられなくなった。

「ならば、これまで滝壺に沈んでいった者たちは、お前に喰われていたということか!?」

おさ!この方は本来は天上の御神みかみにあらせられて……」

「よい。」

 慌てて老人の言葉遣いを諫めようとする少年に、光となった魔性(いまは神格に位置するが)は、落ち着いて告げた。

「さしずめ、この翁の知己を、私が喰らっていたということであろう。」

「その真偽は分からぬ……。だが、成人の儀より帰ってこなかったということは、お前が喰らっていたのだろう!?」

「……その者の名は?」

「スアラン。」

「ああ、聞き覚えがある。その者が滝壺へ入ってきた折に、そのみたまの色を見て飲んだ記憶がある。」

「やはり……!」

 老人は怒りに震える。己の友が、魔性に喰われていたなど、到底納得しがたい事実だ。そのせいで、自分の友は、成人になる資格なしと、当時の大人たちに落第印を押されていたのだから。死んでも仕方がないと言われていたのだから……。

「スアランが死ぬ前も、その死の後も!数多の者がこの“誓いの滝”で死んでいる!それを、たかがクマ畜生一頭の命でおのれは天へと還るだと?ふざけるな!我らの同胞たちは……我が友は犬死ということではないか!」

 激情を抑えきれない。滝壺に呑まれたのなら仕方ない。人が自然に勝つことはできないのだから。しかし、魔性に喰われたのなら話は違う。俺の友を返せ。老人はそう言いたくて仕方がなかった。

 少年は、老人がここまで感情を露わにするのを初めて見た。十四年、記憶がある範囲になるともう少し短いが、それでも、老人が長となった後の記憶しかない。ゆうに十年の月日、その声に喜怒哀楽の色が滲むことはあれど、こうも叫ぶことは一度としてなかった。それがいまは感情のままに叫び、目には涙さえ浮かんでいる。

 老人の無念を思うと、少年は何も言えなかった。

「そなたの言う通りであろうな。私がしたことは、そなたたちのムラに生まれた剛の者たちを犬死させることであった。」

 老人は何かを叫ぼうとして、その言葉を呑んだ。過ぎたことを責めたところで、自分の友が帰ってくるわけでもない。それに気づいた瞬間、老人の体には、言い表せないほどの虚無感が満ちていった。

「もし……もし、そのことが最初にわかっていたのなら。私たちは畏敬の念を以てあなたを祀っていた。贄を差し出していた。何故、対話もないままに喰らったのです……。何故……」

「私の声は、魔性の身にあってそなたたちには届かなかった。」

「そんな……だからといって……」

 老人はそのまま言葉を失い、その場にくずれおちた。光となった魔性も、それ以降言葉を紡がない。ただ、老人のむせび泣く声だけが聞こえる空間となった。

 少年はその様子を黙って見ていた。そうしながら、何か、いまからでも出来る事はないかと思案していた。魔性を天に還すことが出来たのだ。巨躯のクマを己一人で打ち倒すことが出来たのだ。もう一つ、奇跡を起こすことが出来たっていいではないか。そうして周囲に視線を巡らす。何かいい案はないか、その足がかりだけでも……。

 そして、一柱の光が突き立っている水面を見た瞬間、一つ、思いついた。

「……祭事を執り行います。年に一度、ムラの者たちで、獲物をとってきてこの滝へと捧げます。ムラでもあなた様のことを、守護神としてお祀り申し上げます。ですので、その祭事一度につき、あなた様が喰らった者を、村へお返し願えませんか?」

 老人が顔を上げる。表情こそ見えないものの、光となった魔性も驚いた様子であった。

「私は、滝の上で犠牲となった方たちの声を聞いております。その者たちの魂は、まだあなた様の中に在るのではございませんか?」

「……たしかに、その者たちの魂は、未だ私の内にある。」

「であれば……」

「しかし、死した者の魂は、輪廻の輪に還さねばならん。」

「そんな……」

 少年は愕然とする。長である老人には世話になっている。しかも、これまで感情を露わにしなかった老人が、ああも取り乱したのだ。ここで少しでもその恩返しができればと、願わずにはいられなかった。

 落胆する少年に、光となった魔性が言葉を継ぐ。

「輪廻の輪に還さねばならんが、その魂が我が内にあるのは私が原因であるのも事実だ。だから特例として、一人だけルビを入力…、翌年の成人の儀の折に、そなたが言った事を実行してくれるのならば返そう。」

 少年と老人の顔に、希望の色が灯る。それを制するように、魔性はまた言葉をつなぐ。

「だが、ゆめゆめ忘れるな。それをするということは、生き返る者の命を、選別するということだ。それは、げに業の深いことでもある。その罪を背負えるか?救われなかった者たちの怨嗟を一手に引き受けられるのか?」

 少年は頷く。老人も、力強く頷いた。

「その怨嗟は私が引き受けます。救うものとして選ばなかった者たちの魂も祀り、我が死後の安寧も捨てましょう。スアランの命と引き換えであれば、私自身の事など、安いものです。」

 それまでの激情とはうって変わって、老人は落ち着いた物言いで魔性に言った。少年は己も背負うと言いたげに口を開くが、老人はそれを制した。

「ダンシェン、一時はお前のことを疑いもしたが、お前の言うことの方が真であった。お前は、私の願いを汲んでくれたのだろう?ならば、願いの代償は私が背負うべきだ。」

 そう言って老人は魔性に向き直り、再度、願いを明確に発する。

「あなた様の言う通り、翌年の成人の儀では獲物を捕らえてこの滝へと捧げましょう。その代わり、私の友、スアランを蘇らせてほしい。それ以外の魂の怨嗟は私が一手に引き受けます。その魂たちのことも、しかと弔います。なので、スアランのことを、どうか……。」

「相分かった。それで、本当に良いのだな?」

「構いません。」

「承知した。ならばそのように取り計らおう。」

 そういうと、頭上の声はそれきり聞こえなくなり、光もその光彩を徐々に弱め、大きな一つの柱だったものは次第に細い線となって消えていった。

 少年は、光が消えるのを見届けながら老人に問うた。

「長、本当によろしかったのですか?責任の一端は、この考えを提案した私にもあります。」

 老人はかぶりをふり、優しい表情で少年にこたえる。

「いいのだ。お前のお陰で、我が友スアランは、再度その人生をもう一度歩む機が得られた。生い先短い我が身より、お前がその力と勇気を以て、スアランとこのムラを支えていってくれ。」

 老人はそう言って優しく微笑む。

 そして、夜が明け、朝がやってきた。鶏鳴の音が、二人の耳に届く。気付けば、ムラの皆が起き出す時刻であった。


   *   *   *


 “誓いの滝”。成人の儀で使われていた滝がそう呼ばれていたのは、過去の話になった。

 今では“光験こうげんの滝”と呼ばれている。

 その滝では、毎年、森で狩った獲物を捧げるという祭事が催されている。滝の呼び名の由来は、その祭事が元になっているとされている。

 曰く、その滝に贄を捧げた折に、贄が光り輝いて天に昇ったとも、剛力無双の益荒男に転じたとも言われているが、諸説あって定かではない。

 ただ、その滝の近くには祠があり、幾柱かの神が祀られている。祠のすぐ近くに建てられた石碑には、こう記されている。

天津滝昇之命アマツタキアガリノミコト”。

 そして、

“剛力無双ノ王□ダンシェン”。

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