縁側にて
駅前の酒屋で、少し上等な酒を購入した。これから向かう場所と、会おうとしている人を思い浮かべて、自分の鼓動が少し早くなっているのを自覚する。
用もないのに訪れるなんて、我ながら気色の悪いことをしている気がする。けれど、無理な理由をこじつけてでも会いたくなってしまった。その心の焦燥が、足取りの速さに現れる。
駅から歩けばやや時間がかかる場所にあるが、そんなことも気にならなかった。
駅から大通りに出て西へと進み、新幹線の通る高架を潜り抜けてすぐの道を右へ折れる。駅からの大通りは街中という雰囲気だったのに、坂道に入って僅か五分で田畑の広がる田舎へと一気に様変わりした。
歩きなれた道。正確には、何度も車で通ったことのある道であるが、今日は酒を持参しているため、徒歩で来た。
坂道を登り、曲がり、平坦な道を歩いてはまた曲がりと、入り組んだ道を歩くこと更に五分、そよ風に吹かれた風鈴の音と蚊取り線香の香りが鼓膜と鼻孔を刺激する。今年の夏も、変わらぬ風情をあの人は漂わせているのだな、とより一層の高揚感を覚える。
目当ての家からは明かりが漏れており、その縁側には、自分が恋うていた人の影が浮かんでいる。
家の周囲に巡らされた背の低い木製の柵越しに声を掛ける。
「こんばんは、瀧さん。」
それまで手元を眺めて俯いていた瀧さんは、僕の声に呼応して顔を上げる。部屋の明かりが逆光となって表情ははっきりしないが、なんとなく、微笑んでくれた気がした。
「こんばんは、月島さん。」
その声は穏やかで、風鈴の音以上に心地よく感じられる。部屋の明かりで気付かなかったが、瀧さんは自分のすぐそばにランタンを置いていた。そして、手元の物に何かを挟み込む仕草をする。ああ。いつも通り本を読んでいたんだな、と思った。
「夜分にすみません。近くまで来たので、一杯どうかと思って。」
そう言って僕は、手に提げた袋を顔の横に掲げて見せる。本当のことを言えば、近くまで来た、というのは嘘だ。瀧さんに会いたくて、仕事終わりにわざわざ車を置いて、電車で最寄り駅までやってきたのだ。お酒はその嘘を隠すめのアイテムだ。自分の行動を顧みれば、つくづく気持ちの悪いことをしていると思う。
けれど、瀧さんはそんな嘘には気付きもせず、もっと言えば、僕の事なんて疑いもしなかった。しかも、夜遅くに訪ねた僕の不躾を責めるでもなく、さっきと同じ優しい調子で答えてくれる。
「いいですね。グラスを取ってきますので、どうぞ中に入ってください。」
「ありがとうございます。」
そう言って僕は瀧さんの厚意に甘えながら門の方へと回り、中へ入って縁側へと座る。瀧さんは、自分の座っていた場所にそれまで手に持っていたもの(想像通り本だったけれど)を置いて、家の奥へと引っ込んだ。
僕は手に持った袋を脇に置き、何を読んでいたのだろうと、瀧さんの置いていった本のタイトルを確認する。そこには、『雨月物語』と書かれていた。
暑い夏には怪談、ということなのだろうか。しかし、大通りから離れ、田畑に囲まれた日本家屋でこんなものを読んで、夜中一人で眠れるのだろうか。オカルトの苦手な僕は、たとえ街灯の多い集合住宅住まいの身分でも、夜にこういった怪談ものの本は怖くて読めない。
まだ二、三年程度の付き合いだが、本当に瀧さんという人の底が見えない。
その疑問は後で聞くことにして、袋から酒とつまみを取り出す。酒は夏の夜でも飲みやすい少し上等な日本酒。一応、この県の地酒だ。精米歩合40%の上等なものを買ってきた。おつまみにはチーズ鱈。瀧さんの好みのすべては把握していないが、とりあえず自分の好みで買ってしまった。
口に合えばいいけど、と心配していると、瀧さんが戻ってきた。グラスを二つと、ナッツ類の入った小皿を乗せたお盆を持っている。瀧さんは僕の顔を見たかと思うと、その視線をすぐ脇の酒とおつまみに移した。
「良かった。おつまみはかぶってないみたいですね。」
そういって笑い、僕との間にお盆を置いて腰を下ろした。
「チーズ鱈とナッツなら、日本酒にも合いますね。」
「ええ。チーズ鱈は、完全に僕の好みですけれど。」
「とんでもない。僕も好きですよ。」
その言葉一つに、胸が高鳴る。おつまみのことを言っているのは分かっているが、“好き”という言葉に過剰に反応してしまうあたり、僕の心は未だに中高生の様な若さを持っているみたいだ。
火照りそうになる感情を拭うように、日本酒の瓶を持ち上げて蓋を外し、お盆の上のグラスに、日本酒を注ぐ。
「駅前の酒屋さんで買ってきた地酒です。お口に合うかは分かりませんが、精米歩合40%なので、美味しいとは思います。」
「40%ですか。また奮発しましたね。」
そんなに気を遣わなくてもいいのに、と瀧さんはカラカラと笑う。
「いえ、夜分に訪ねることの迷惑料込み、といいますか……。」
「いいんですよ。僕もちょうど、話し相手が欲しいと思っていた時分でしたし。」
「そうなんですか……?」
心臓が強く鼓動を打つのがわかる。おそらく、瀧さんに他意はないんだろうけれど、それでも、何かを期待してしまいそうになる。瀧さんの感情と、自分の感情が一致することなんて、ないと分かっていても。
「それじゃあ、ひとまず、お疲れ様です。」
そう言って瀧さんがグラスを掲げる。乾杯だ。
「お疲れ様です。」
カツン、と軽くお互いのグラスをぶつけて、日本酒を口にする。爽やかな香りが鼻に抜け、甘く滑らかな味が舌先を滑る。飲み込んだ後の喉ごしも悪くない。安酒によくある、後を引くようなえぐみはその面影すらなかった。
「ああ……。美味しいですね」
隣で瀧さんが呟く。
「お口に合って良かったです。」
「こんな上等なお酒をありがとうございます。」
そう言って瀧さんは二口目を
味見できないので良いか悪いかは運だったが、日本酒に設定される値段は味への信用度だと痛感した。四合瓶で約2,500円の出費は、間違っていなかった。
「そういえば、これ、読んでいたんですよ。」
そう言って瀧さんは、傍らにある本を手にとって見せてくる。
「『雨月物語』ですね。」
「ええ。夏ですし、風物詩と言われる怪談でも読もうかと思いまして。」
「僕なら、夜に怪談は読めないですね。」
「おや、意外と怖がりなんですか?」
「まぁ、ホラーとかそういうのは苦手な口で……。」
「それは残念。読んでいて思いついた怪談話でもしようかと思ったのですが。」
「やめてくださいよ。帰れなくなっちゃうじゃないですか。」
瀧さんは楽しそうに笑う。瀧さんの職業は、塾の講師をしながら執筆活動をしている兼業作家だ。賞をとったことはないものの、書いた作品が書籍化されていたりするため、そこそこ稼いでいるらしい。ただ、それでも生活のすべてを賄えるほどではないらしく、塾講師のアルバイトもして食いつないでいると、以前聞いたことがある。
ただ、瀧さんが作家活動だけで賄えない、と言っているのは、家を埋め尽くすように居座っている本たちの購入費に、その収入を充ててからではないだろうか。
「そういえば、読んだ本の話はよくするのに、月島さんがホラーが苦手、というのは初耳ですね。」
「あれ、そうでしたっけ?」
「ええ。いつもは文学作品とか、最近の流行ものの話をすることが多いですから。」
「ああ、そうでしたね。」
「あとは月島さんの仕事の話。」
「それは、面目ないです……。」
「いいんですよ。私にとっては、それも楽しい話ですから。」
こんなことを、何気なくいってくる。ああ、こういうところだ。
初めは、縁側で本を読んでいるのを見かける程度だった。けれどある時、僕の好きな絵本を読んでいるのを見かけて思わず話しかけてしまった。話してみると思った以上に気が合って、外回りの仕事で近くを通るたびおじゃまして、気付けば、好きになっていた。
「瀧さんからは、あまり仕事の愚痴とか、聞いたことないですね。」
「話すほどの愚痴もないですから。」
「作家の方は言いづらいでしょうけど、塾講師のバイトの方は、ほら。たしか中学生がメインでしたっけ?」
「ええ。」
「生意気だな、とかないんですか?」
「あまりそういった態度をとられないので、生意気と思いようがないんですよ。」
「あー……。わかる気がします。」
「何がですか?」
「中学生が瀧さんにそういった態度をとらない理由。」
「……僕って、怖いんですか?」
「この人を困らせちゃいけないな、っていうオーラがあるんですよ、瀧さん。」
「頼りないってことじゃないですか。」
「いや、そういうわけじゃなくて……その、良心の
「はぁ……?」
瀧さんはいまいち納得のいかない顔をしていたが、年齢のわりにおっとりとしているこの人に、荒っぽい態度や言葉遣いは出来ない、という不思議な雰囲気があるのだ。憶測になるが、生徒である中学生たちも、それをなんとなく感じ取っているのだろう。
日本酒のグラスが空く。自分のグラスに日本酒を注ぎながら、瀧さんのグラスを確認し、あと一口程度の量しか残っていなかったので、そちらにも注いだ。
風が吹いて風鈴が鳴る。
「いい風ですね。」
瀧さんが呟く。
「僕ね、この山の中腹にあるお寺をモデルにした怪談を考えたんですよ。」
さっきの話題を瀧さんが再び持ち出してきた。
「話さないでくださいよ?」
「気付かれちゃいましたか。」
「どさくさに紛れて、っていう魂胆だったんでしょう?」
「いやぁ、考えた話が語り口調のものだったので。話し相手が欲しいと思ってたって言ったでしょう?」
「そう言えばそうですね。」
「だから……」
「僕、
「ああ、それはさすがにかないませんね。」
そんな冗談を言い合いながら、酒は進み、夜はふけていく。小皿のナッツや、袋から出したチーズ鱈の数も徐々に数を減らしていき、やがて、四合瓶の酒は三分の一以下にまで減っていた。
この時間が続けばいい、と願いながらも、冷静な自分が時計を確認する。急に押しかけて、まさか泊まっていくわけにもいかない。それに、もし瀧さんの家に泊まった時、自分はこの気持ちを秘めたままにできるのかもわからない。
時計の針は夜十時半を少し過ぎた頃。終電まではおよそ一時間くらいしか残っていない。就職する前は首都圏に住んでいたので忘れそうになるが、地方の電車は終電が早いのだ。
「そろそろお時間ですかね。」
瀧さんが言う。どうやら時計を見る仕草で、時間が迫っているのを察したらしい。
「そうですね。」
「では、駅まで送っていきましょう。」
「いえ、そんな、悪いですよ。もう遅いんですし。」
「全然。むしろ多少は運動しないと、体に良くないですから。」
「バイトの通勤の時とかにしているんじゃないんですか?」
「車がありますからねぇ。」
「ああ、なるほど……。」
それ以上食い下がると、瀧さんの厚意を無下にすることにもなるので、そのやり取りはそこまでにして僕は帰り支度を始めた。本当のことを言えば、瀧さんとはまだまだ話していたかった。もう少し一緒にいたかった。送ってもらえると聞いて、遠慮しながらも、内心ではガッツポーズをとるくらい喜んでいた。
瀧さんはグラスをお盆に乗せ、チーズ鱈の空の袋とお盆を持って素早く奥の方へ消えた。すぐに戻ってきて、僕を門の前で待つよう促し、自分は縁側の窓を閉めて、玄関の方へと回った。
瀧さんが合流するのを待ち、玄関のカギを閉めてやってきた瀧さんと並んで歩き始めた。
歩きはじめると、瀧さんはおもむろに口を開く。申し訳程度の街灯に照らされた瀧さんの表情は、どこかイタズラ少年のような笑みを浮かべていた。
「駅まで僕が一緒なら、怖くないですよね?」
やられた。瀧さんはどうやら、自分の考えた階段を直接話すことを、まだ諦めていなかったみたいだ。
お互い酒も回っているし、走って逃げたところで、ケガをするだけのような気もする。それに、瀧さんに送ってもらうという後ろめたさもあり、僕は観念して聞くことにした。
瀧さんは嬉しそうに怪談を話し始めた。
結局、駅に着くまでには終わらなくて、駅前のベンチに座って最後まで聞かされることになった。
話し終わるのを聞き届けて、僕は改札へと向かった。
「それでは、気を付けて帰ってくださいね。」
「はい。今夜はありがとうございました。」
「いえ、こちらこそ。怖いのにお付き合いいただいてありがとうございます。」
瀧さんが無理やり聞かせたんですよ、という言葉をぐっとこらえ、帰ったら感想をメールで送ると伝えて別れた。
改札をくぐり、ホームで電車の到着をしばらく待つ。
瀧さんの話した会談の内容は、本当に怖いものだった。やはり、書いた小説が書籍化されるだけに、その構成力や内容の巧妙さは素晴らしかった。販売されている書籍を読んで、その実力は知っていたが、瀧さんの考える怪談は初めてだったので、意外な新鮮さを覚えていた。
けれど、話をする瀧さんは、まるで自分のテストの点を親に自慢する子供のように無邪気で、その話口調のせいで怖さは微塵も感じられなかった。これなら、あの縁側でも聞けたぐらいだ。けれど……。
(もしも自分が女性だったなら。)
瀧さんへの好意も、家に泊めてもらって夜通し話がしたいという欲求も、素直に言えただろうに……。
瀧さんに会ってから、僕は男に生まれた自分を、恨み続けていた。
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