成人の儀(3)
ムラを出て、夜の荒野を駆け、山へと入った少年は山林の茂みに隠れて息をひそめていた。その茂みの先では、クマが体を横にして休んでいた。傍目にみれば、寝息を立てているようにも見えるが、少年の目には動かず、ただ体を横にしているだけに見えた。要は、起きて周囲を警戒しているのだ。
少年のいる茂みからクマまでの距離は三十五
クマの体長は、横たわっているため正確な大きさの把握は難しいものの、目算でおよそ一丈二尺はある。少年が魔性に魅入られるほどの剛の者とはいえ、未だその齢は十四を数えるばかり。四尺ばかりのイノシシを投げ飛ばしたことがあろうと、今目の前にいるクマにその驕りを持つほど、少年は未熟ではなかった。
(生き物の気配を感じさせてはならない。)
少年はそう思っていた。魔性を目の前にした時ほどではないとはいえ、背中には冷たいものが流れていた。
少年は、極限まで呼吸の音を消し、身じろぎ一つせずに機を窺っていた。木に登ることを悟られてはならないし、自身が先制を仕掛ける折に自分のいる木を悟らせてもならない。実際、遠目にクマが猛烈な勢いで木を登っている様を見たことがある。地にいようと樹上にいようと、居場所を悟られれば一気に距離を詰められる。手にした槍一つで、対敵しようと、クマの剛腕からすれば、この槍の柄など一撃で叩き折られるだろう。
そも、一人でクマと対敵すること自体が間違っているのだが、少年は魔性に捧げる贄となれば、クマほどの大物でないと釣り合いが取れぬと思っていた。
勝負はクマにギリギリまで近づき、一瞬かつ一撃で決めねばならない。少年は固唾を飲む。
茂みから互いに身じろぎしない状態が半刻近く続いただろうか。少年が己を奮い立たせるために槍を握り直した瞬間、強烈な風が吹いた。木々の枝葉が不気味な音を立ててぶつかり合う。
しめた、と思った。少年はその轟音に紛れ、素早く木の上に移動する。掴み、足を掛ける枝やコブ、洞の位置を確認しながらも、クマからは視線を外さずに、地上から七丈ほどの高さまで駆け上がる。
風が吹いたのはほんのわずかの出来事で、少年がその高さの枝に足を掛けるときには風はその勢いを落としていた。当然、周囲の音も止み始める。枝に足を乗せ、身を落ち着けた折に、僅かに足音が出てしまった。
クマの耳が素早くこちらに向く。続いて、クマがその頭を持ち上げた。
(気付かれたか……?)
少年は枝の上で槍を構え、迎撃の姿勢をとる。しかし、クマはその異変を大したものと思わなかったのか、またすぐに両の前足の間に頭を治める。少年は安堵の息を漏らした。
(ここからが正念場だ。)
少年は、再びクマに近づく機を窺い始める。また半刻ほど、枝の上で待った。
そして、再び機会が訪れる。先刻のものほどではないが、風がまた吹き始めた。枝葉が揺れ、音を立て始める。少年は、器用に枝を飛び移りながら、クマの真上にまで移動する。
ここまでくれば、あとは上から一突きにするのみだ。少年は槍を構え、クマの脳天に照準を合わせ始める。少年は息をするのも忘れて、槍の穂先と直線上にあるクマの頭部を見つめていた。
荒くなりそうな呼吸を理性で必死に抑える。これを
意を決して、少年は枝から飛び、クマ目掛けて一直線に下降する。しかし、飛び方が悪かった。仕損る訳にはいかないと思いながらも、少年は心のどこかで勝利を確信してしまっていた。枝は大きく揺れ、風もさほど吹いていない最中では、夜の闇に大きくこだましてしまった。
齢十四。いかに剛の者と言われようと、まだ未熟な若人だったのである。
音が鳴るや、クマはその身の危険を素早く察知したのであろう。弾かれたように身を起こし、頭を周囲へ巡らせる。
クマの頭が横へずれたことで、少年の槍はクマの頬を切り裂いただけで地面に突き刺さり、少年はその反動とともに前方へと投げ出される。クマは痛みに悶え、槍の刺さった場所から数歩後ろへ飛びずさり、自分の身に何が起きたのかを確認するかのように、前足で自分の頬を撫でた。
一方、少年は受け身をとったものの、あまりの勢いに槍から手を放してしまった。素早くクマに対峙するが、地面に突き刺さった槍は自分とクマの中間にある。
(
そう思っても後の祭りである。クマは自分に危害を与えた敵である少年に怒りを露わに歯をむき出している。いつ飛び掛かってきてもおかしくない。
いやな汗が止まらない。近づかれたら、素手やナイフで対抗できる可能性は限りなく低い。出来ることなら、眼前に突き刺さっている槍を回収したいが、先に動けばクマも動くだろう。スピード勝負で勝てる訳はない。
(どうする?)
少年は焦っていた。クマは呻りながら、槍を中心にしてゆったりと動き始める。思考はまとまっていないが、距離を詰められる訳にもいかない。クマと対角線上を維持しながら、同じ速度で槍の周囲を回る。
突如、クマが槍を避けるように迂回しながら少年目掛けて走り出す。少年も同じように、弾かれたように走り出す。ただし、少年の方は槍に向かって最短距離で走った。クマからは視線を外さず、それでも槍に焦点を合わせて駆け、掴み、前方へ飛び込む。少年の僅か数寸という距離で、クマの鉤爪が空を切った。
(取り乱すな……!)
少年は自分に冷静でいるよう言い聞かせながらすぐにクマの方を向き直り、槍を構える。クマの方もすぐに方向を変えて少年に向かって猛然と近づいてくる。
こと、ここまできたのなら真っ向勝負より打つ手はない。少年はクマを見据え、永遠にも思える数秒を過ごした。クマとの距離が二丈五寸に迫ったとき、少年は思い切り槍を突き出した。
死を目するほどの極限の状況下で、少年は不思議なほど心の凪を味わっていた。眼前に迫ってくるクマの顔は鮮明に映り、狙うべき場所も
槍の穂先はクマの目を正確にとらえ、穂先が突き刺さっていく。自身の体に異変を感じる、その間もないまま、猛然と走る勢いに任せて、クマの目に槍が深々と刺さった。クマは痛みを感じつつも、その勢いを殺せず、そのまま前進を続ざるを得なかった。
少年は槍がクマに刺さったのを感じると、すぐさま横へ飛び、ごろごろと転がった。その直後、どん、という轟音が鳴り響いた。クマが木にぶつかり、その場に倒れ込んだ音だった。
少年はすぐに立ち上がり、クマの方を向く。腰に差したナイフを手にして、クマに駆け寄り、首を裂く。少年の突き刺した槍が目から脳にかけて刺さっており、クマは既に絶命していたが、もし万が一、槍が浅かったなら、骨に引っかかって即死させられていなかったら、という不安が少年の胸に満ちていた。
首を裂き、木にぶつかった衝撃で折れた槍の柄を掴んで更に深く刺し、そこでようやく、少年はクマの死を確認した。たしかに死んでいた。
少年は安堵の息を漏らし、その場に座り込む。それまで忘れていた荒い息が、耳に大きく響いた。ほんの一瞬気を抜けば、確実に死んでいた。いや、クマが地面に突き立った槍を恐れて迂回していなければ、死んでいたのは自分の方だった。
初手の失敗こそあれ、自分は運がよかった。
今更になって震えがやってくる。魔性を前にしたのとは別の、死を目前に感じた恐怖であった。足に力が入らず、少年は立てるようになるまで、しばらくの時間を要した。
ようやくのことで立ち上がり、クマに近づいて、少年は合掌した。
* * *
月は傾き、東の空が少しずつ明るくなってくる。黎明が近い。少年は、疲れた体と、紐で縛ったクマの重い巨体を引きずりながら焦る。
夜が明ければ、ムラの者たちが目を覚ます。それまでに、魔性に贄をささげねばならない。ゆうに百五十貫はあるクマの巨躯を引きずっているのだ。その歩みは牛歩というほかないが、そもそも、単身で運べること自体がおかしな話ではある。しかし、そこは少年の剛力がものをいった。
(あと少しで“誓いの滝”だ……。)
少年は己を鼓舞し、心持ち歩みを速める。一歩一歩と進み、やがて木々の隙間が開けてきた。
(ようやくだ……!)
少年は安堵の色を浮かべる。しかし、森を抜ける前に、その先に立っている人物を見て驚いた。何故、あの人がここにいるのだ……?
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