成人の儀(2)

 少年は、ムラの中でも指折りの剛の者であった。齢十四にして、その力は並の大人たちよりも強く、勢子せことして参加した狩りでは、不測の折に襲い掛かってきたイノシシを素手で投げ飛ばした。また、走る速さも尋常ではなく、距離も、十里を走ることが出来た。

 ムラの大人たちは、みな少年に輝かしい将来を見ており、それだけの期待も寄せていた。

 “これならば成人の儀においても、何ら問題はないだろう”。誰もがそう思った。少年ならば、臆することなく滝へと飛び、そして勇壮な生還を果たすだろう。そう信じて疑わなかった。少年自身、滝の中へ飛ぶことを何一つ恐れてはいなかった。

 そして成人の儀当日、少年は周囲の期待から一番手に選ばれた。少年を引き留めた老人、つまりこのムラの長が、少年を推薦したからだ。

「彼の者は他の若者たちの手本となる。」

 それに、他の大人たちも同意した。

 成人の儀が始まり、祈りの言葉と、川での禊を終えて、滝が流れ落ちる崖まで皆が移動する。若者が無事飛び降りるのを、ムラの大人たちが見届けることで、成人となるのだ。未成年の者たちは、飛び込んで生還した瞬間から大人として迎えられることになる。

 さて、少年は一番手である。周囲の期待のまなざしの中、堂々とした立ち振る舞いで崖の先へ進む。そしてこれから自分が飛び降りる場所を除いた瞬間、少年は硬直した。

“こちらへ来るな”、“剛の者ほど魅入られる”、“お前だけは飛ぶな”。

 そんな言葉が、口々に聞こえた。滝の流れる音など無視して、少年の耳に直接響くかのように鮮明に聞こえてきたのだ。

 声に驚いていると、覗いた滝壺の底には、その声の主たちの隙間から、舌なめずりをするかのようにニヤけた瞳の光が見えた。

 少年は固唾を飲み、一歩、また一歩と後ずさりして、静かに崖から離れた。

 この様子に、誰もが失望した。

 ムラの大人たちは野次を飛ばし、父親は怒鳴り散らした。自分の番を待っていた他の若者たちからも揶揄やゆされた。

 家に帰ってから、少年は父親に拳骨を何発も食らった。母親は父を宥めてくれはしたものの、その失望が、食事の粗末さに現れていた。

 それでも少年が考えていたことは、滝壺の底のことであった。聞こえてきた声は誰のものだったのか。聞こえてきた言葉の意味はなんだろうか。そして、水底に見えた瞳のような光は一体何だったのか。

 その夜、少年は人目を忍んで、成人の儀以外では近づくことを許されていない“誓いの滝”へ赴き、滝が流れ込む窪みの方へ降りて、その岸辺から水底を覗いてみた。

 崖の上からは判然はっきりと見えた声の主であろう、過去の挑戦者たちの魂も、その隙間からのぞく瞳の光も見えなかった。代わりに、水底でうごめく黒い物が見えた。

 飛び込んだ者たちは、誰もこの蠢くものに気付かなかったのだろうか。それに、先人たちの魂にも……。

 少年は意を決して、滝壺に向かって声を掛けた。

「私に声を掛けてきた方々よ、そこにおられるか?」

 すると、水底で蠢いていた黒いものがこちらを向いた。岸辺へ近づいてきて、少年を品定めする様に瞳を開き、頭の先からつま先までじっくりと舐めるように見てきた。少なくとも、少年にはそう見えた。

「お前は、此度飛ばなかった剛の者だな。」

 黒いものが喋った。少年は息を呑み、頷く。本当は、そうだ、と答えたかったが、突然のことに声が出なかった。目は痛いほどに開き、目瞬きが出来なくなる。自分の体が微かに震えていることを感じ取った。少年は、人生で初めて、恐怖というものを味わっていた。

「何故、飛ばなかった?」

 黒いものが尋ねる。

「……来るなと言われたからです。」

 少年は口ごもりながらも、辛うじて震えのない声で答えた。

「来るな、か。私が食ったこの者たちからか?」

 水の中で黒いものが僅かに動くと、崖の上で聞いた声が聞こえてきた。来るな、止めておけ、早く逃げろ、口々に同じような意味のことを繰り返していた。少年の震えは、俄然大きくなる。先ほどまでは片手だけのものだったのに、今では、全身に波及している。背中を伝う冷たい汗が止まらない。

 それでも、少年は黒いものに尋ねた。

「食った、と言いましたが、何故生還できている者がいるのでしょう?飛び込む者すべてを食らっているわけではないと?」

「左様。剛の者の御魂みたまでなければ私の贄には成り得ない。」

「贄、ですか……?」

「ああそうだ。」

「何のために?」

「私が再びあめに還るためよ。」

「天、でございますか?」

「左様。」

「すると、あなた様は地を這う魔性ではなく、天上の御神みかみだったのでございますか?」

「天上に在れば、な。地に落ちては魔性と差はない。故に、剛の者を贄として喰らわねばならぬ。」

 そこまで言うと、魔性は大口を開け、光る瞳をさらに細くした。

「なればこそ、口惜しい。お前を喰えなんだ事が、口惜しいのだ。」

 少年は大きく身震いをした。滝壺の底の先達せんだつたちがいなければ、飛び込むなと忠告してくれなければ、自分はこの魔性に喰われて死んでいた。その実感が、寒気と冷や汗に変じて全身を包んだ。

 しかし、冷や汗のとめどなく流れるのを感じながらも一つの疑問を抱いた。

 そこまで剛の者を求めながら、何故この魔性は水面より顔を出して岸辺の自分を喰いに来ないのだろうか。口惜しいと言いながら、水面の際で自分を喰いたいと切望するのであれば、襲ってきてもおかしくない。むしろ、そうしないことの方が不自然にさえ感じられた。

 少年は魔性に尋ねた。

「それほど贄を求めながら、何故、今ここにいる私を喰いに水より出ることをされないのですか。岸辺まで来たのなら、私はあなた様に喰われてもおかしくないでしょう。」

「そこが魔性となった我の難儀なところでな。水面より顔を出せば、我は塵となって霧散する。そういった軛を、天より落とされた折に身に刻まれたのだ。」

「成程。たしかかに難儀ですね。」

 魔性が目を見開く。己を喰おうとしている魔性に同情を寄せる少年の言葉に驚いたのだ。

 しかし、少年はその魔性の驚愕の様相には目を向けていなかった。右手を口に当て、思案にふけっていたからだ。

「お前は不思議な奴だな。己を喰い殺そうというものに同情するというのか。」

 魔性の問いに少年はこたえない。いまだ考えに耽っている。魔性が少年を見つめていると、おもむろに右手を口からはなし、口を開いた。

「一つご提案がございます。」

「ほう?」

 魔性は興味深げに息を漏らす。同情を通り越して提案と来たか。この少年は、自身の死の危険に際して、それより先を見据えたのだろうか。ムラの成人の儀については魔性も把握している。何十年と“誓いの滝”の滝壺の底に巣食い、数年に一人の天性の剛の者を喰い続けてきた。また、流れ落ちる滝の音の隙間から聞こえるムラの者たちの話声から、年に一度、大人になろうと少年たちが何人も飛び込んでくるのだから、その儀式があることを把握するのは、この魔性にとってそう難しいことではなかった。

 そして、この少年にとっては、翌年もやってくる通過儀礼だ。成人の儀の当年に飛べなかったのなら翌年、それでも飛べなかったなら翌々年。滝壺に飛び込めるまで、何度も繰り返さなければならない。それを、ムラの仕来りや周囲の視線を無視して永遠に飛ばないということは不可能であろう。

 魔性は少年が紡ぎ出す言葉に耳を傾ける。

「私が仕留しとめた獲物を、あなた様の贄にすることはできないでしょうか?」

「お前が仕留めた獲物を贄に、か?」

「はい。」

「獲物といっても、所詮は獣の類であろう。」

「左様でございます。されど、剛の者である私が血と汗を流し、生死の狭間にこの身、この魂を賭けて得たものであれば、その魂の欠片が獲物に宿るのではないかと、そう思いました。」

「魂の欠片だと……?」

「はい。」

 魔性はしばし考え込む。事実、少年は魔性の推測通り、翌年以降も成人の儀に参加しなければならない。その度に飛べない、では、ムラに居続けることが難しくなる。

少年が思案の結果導き出した、自分が喰われないための代替案であった。

 どうか、これで魔性が納得し、願わくばそれを以て天へと還ることが出来たなら、それに越したことはない。祈る気持ちで、少年は魔性の答えを待つ。

「よかろう。お前の気概に免じて、試してみようではないか。」

 少年は安堵の息を漏らす。

「しかし、お前がとらえた獲物に、ごうも価値がなければ、その時はお前の身を我に差し出せ。」

 少年は固唾を飲む。ここが少年の考えの甘いところである。一頭、大物を狩ってきて、それで終わりにできると思っていた。それを、自分自身を差し出せとは……。いや、待て。“毫も”ということは、価値がいくらかでもあれば、自身にも生存の機会はある。

 少年は、そこに賭けるしかなかった。

「承知いたしました。必ずや、ご納得のいただける獲物を狩って参ります。」

「納得するかしないかはその獲物に剛の者の魂に足る価値があったときのみよ。」

 少年は頷き、失礼します、と述べてその場を離れた。

「楽しみにしておるぞ……。」

 離れていく少年の後ろ姿を見送りながら、魔性は目を細くし、少年の姿が見えなくなっても、水面下から暗い笑みを浮かべて少年の立ち去った方角を見続けていた。

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