成人の儀(1)

 夜も深い静寂の中、一人の少年は、足音を忍ばせながら歩いていた。その右手には黒曜石の槍を持ち、腰には皮を剥いで肉を分けるためのナイフが差してある。

 彼の頭上、ちょうど中天のあたりには皓皓こうこうと光る満月が鎮座している。そのおかげで少年は、松明たいまつを持たずとも、夜の闇の中を惑うことなく颯爽と歩くことが出来た。

 少年は住居が集まった区画を抜け、ゴミの投棄場として使われている谷を飛び越えて、ムラの端までたどり着いた。ムラの外縁部には木を組んで設えた簡素な柵が一列に並び、ムラ全体を取り囲んでいる。柵の外は幅の広い堀が掘ってあり、一度落ちると、登るまでにやや苦労する深さになっている。柵の切れたところには観音開きの扉があり、ムラの内側からかんぬきが差してある。

 少年は扉の前で立ち止まり、閂を静かに外す。扉を開け、ムラからの出入りのために土が残してある部分を歩き、堀の外側まで来た。少年は月光を反射して光る槍の穂先を一瞥いちべつし、深呼吸をした。

 息を吐ききり、すわと意気込んだ一歩目を踏み出した瞬間、背後から鋭い声が飛んできた。

「どこへ行く?」

 少年が振り返ると、そこには一人の老人が立っていた。老人は、鳥の羽飾りがついた冠を頭にかぶり、生きた年数を表すかのような深いしわを顔中に刻んで、あごには若いころの勇壮さを示すかのような傷跡が残っていた。目尻には入墨をいれ、耳にはイヤリングを着けていた。この入墨とイヤリングは、どちらも少年たちが暮らすムラにおいて、男性が成人したことを示す証であった。

 一方、少年は入墨とイヤリング、そのどちらも有してはいなかった。

「狩りに行くのです。」

 少年は静かに答えた。

「狩りに行ってどうする?成人の儀の汚名をすすごうとでも言うのか?」

 成人の儀。それは、老人と少年が住むムラに伝わる成人のための儀式である。

 ムラから北西へ半刻ほど歩いた場所にある滝へ、成人を迎える男子たちが飛び込み、無事生還した者のみ、成人として大人の男の仲間入りを果たすのである。己が未熟さを滝壺へと沈め、ムラにおいて成人としての責務を果たすことを誓うのだ。その儀式に使われることから、この滝は“誓いの滝”と呼ばれていた。

 少年は前日に行われたこの成人の儀で、滝壺へと飛び込めなかったのだ。

 少年はその言葉を聞き、表情を曇らせる。しかし、あくまでも冷静に老人と相対していた。

「狩りに行ったところで、成人の儀を通過できなかった汚名は雪げはしないでしょう。」

「ならば何故、こんな夜分に狩りへ、それも一人で出向こうとする?」

みたまの心を鎮めるためです。」

「ならぬ。」

 老人は厳しくいさめた。

「飛べなかったという不出来は、お前が臆病風に吹かれたという証左だ。心の不穏も飲み込んで、翌年に再度挑め。」

「……私は臆病風に吹かれたわけではございません。」

「ならばなぜ飛べなんだ?」

 老人は眉根を寄せ、なおも厳しく問い詰める。少年はわずかに唇を噛み、月明りに照らされた老人を見据えて言う。

「あの滝壺の底には、これまで命を落としてきた数多の者のみたまが沈んでおります。その声が聞こえたのです。故に……」

「それを臆病風に吹かれると言うのだ。」

「違います。」

「違わない。」

「飛ぶことが怖かったわけではございません。」

「声が聞こえた、などという些末な事で足をすくませただけであろう。」

「私は彼らに拒絶されたのです。」

 それまで冷静であった少年の声に僅かに熱がこもる。意図せず、気分が高揚していたらしい。老人は眉根を寄せ、呆れたようにため息を吐いた。

「飛べなんだ言い訳に斯様かような世迷言まで言うか。」

「本当です。」

「本当なら、無念に散った者たちの魂は、己が屍を踏み越えて成人の儀を果たせというであろうよ。」

「あの滝壺には、魔性が巣食っております。」

「その口を閉じろ。」

 老人の声に暗い圧がこもる。激昂しそうになる己を律するかのように、強く、されどムラの住居に届かぬよう静かに努めた熱い声であった。

「あまつさえ自身の未熟を言い訳した挙句、成人になれなんだ無念の同胞を魔性と言うか。」

「違います。」

「いいや。お前が言っていることはそういうことだ。」

「同胞たちの魂の下に、どす黒い何かが沈んでいるのです。巣食っているのです。それを指して、私は魔性と……」

「もういい!」

 老人の声が森閑とした夜空へこだまする。期せずして荒げてしまった自身の声を顧みて、やや気まずそうな顔をするものの、老人は厳然とした顔を少年へ向ける。

「ムラへ戻れ。」

「お断りします。」

「却下だ。ムラへ戻るのだ。」

 老人は力づくで少年を連れ戻そうと、素早く歩み寄る。そして少年の手をつかもうと右手を伸ばした。しかし、手は虚空をきり、老人は驚いて顔を上げる。すると、7間ほど離れた位置に、少年はいた。

 老人は目をみはった。自分の右手が少年の手を掴み損ね、そして顔を上げるまでの一瞬で、少年がそこまで離れた位置に遠ざかっていることなど、想像だにしなかったからだ。

「私が狩りへ行くのは、とった獲物を魔性に捧げ、滝壺の底を浄化するためです。同胞の魂を暗い水底からあめへと返すためです。」

 少年は、真っすぐな目を老人に向けて言った。そして一礼し、そのままムラの東の原野に向かって走って行った。

 老人は尚も少年に向けて何か言っていたが、老人の声が少年の背を捉えることはなかった。声が届くより先に、少年は何町も先を駆けていたからだ。

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