第2話 君が夢だというなら 中編

生活は一変した。

視界が真っ暗だから。余計に気が滅入りそうだ。

夜のトンネルを、明かりを付けずにずっと歩いているような……そんな気分。


「こっちだよ」


手を握ってくれる彼女は…夢を諦めた。

そして今も、僕の目となって傍にいてくれる。


僕たちは、新しい約束をした。一応“お互い“になんて言い方をしたが、彼女へのお願いみたいなものだ。


無理はしないこと。


彼女のことだ、ずっと僕の面倒を見るつもりなのだろう。けれど縛りたくはないというのが本音だ。辛いと感じたら、すぐに実家に戻って休養すること。それでもダメだったなら僕のことなんか忘れて生きてほしい。



「ねぇ、 明日久しぶりに二人で行きたいところがあるんだけど……」


ある日の夜、唐突に彼女が言い出した。

彼女がそう言うなら、もちろん僕に断る理由など一つもない。


翌日の夕方、彼女に手を引かれるようにして向かった先は、なんとも騒がし場所のようだ。

無数の人々の足音、何か小型エンジンの音まで聞こえてくる。行き交う人々はみんな声を弾ませていて、デート、あるいは友人グループ、あるいは家族で何かを楽しみしここへと来たのだろう。


羨ましさもあり、恥ずかしさもあり、申し訳なさもあり、幸せでもある。


彼女にリードされるまま、人の波を掻き分けて先へ先へと進んでいく。

………すると、僕の鼻腔に便りが届く。そして僕の頬は勝手に緩んでしまう。


「ここ、初めてのデートで来たフラワーパーク……だよね?」

「ふふ……正解っ」


全身を駆け抜けていく様々な香りを体で感じていると、昔彼女とここに来た時のことが鮮明に思い出される。

あの時は友人たちに言われとはいえ、僕の頭の中はどうやってキスをすればいいのか…と、そんなことばかりで花を楽しむ時間はなかった。


「……ん? 何か燃えてる?」


花の香りに混じる焦げ臭さに、僕は鼻をクンクンと動かす。

その次の瞬間にはドーンっ、大きな音が僕たちを包み込んだ。

見えないはずの僕の目に、花火が見えていた。


「あの時はちゃんと見れなかった気がするから」


どこか照れたように言う彼女に、僕も思わず頬が熱くなる。

彼女も初めてここに来た時のことを思い出したようだった。


「あの時はっ……僕たちも若かったから……」


そうして僕たちは、もう一度あの頃の気持ちを確かめ合うように、再び唇を重ねた。


僕たちは更に年を重ねていく。

彼女が僕の目となって、時には笑い、時には肩を寄せる日々。


お互いが30歳の誕生日の歳、肩を寄せてきた彼女の体がこわばっているように感じた。


「……子供、欲しい」

「えっ……」


子供を産むなら早い方がいいとは聞いたことがある。女性としても、肉体的な負担があるのだから。


戸惑っている僕に、彼女はすぐ「ごめんね」と言う。

そんな彼女に、僕は何も言えないままだった。


昔───目の見える時には欲しいと思っていた子供。

今度は僕が拒否とも取れる行動を取ってしまった。


産まれてくる子供の顔を見ることができず、すぐ近くで何か危ない行動をしたとしても止められない自分が。親としての責任を何一つ全うできない自分が。そんなことばかりが頭を過ぎて……。


ただ、この時の僕の迷いは彼女を幸せにするモノではなかったけれど、結果としては良かったと思えた。


僕が彼女に拒否とも取れる行動をしてしまった日からほんと数ヶ月、お腹が痛いと言った彼女が医者へと向かった。

大したことはないけれど……と言葉を足した彼女。ついでに日用品と僕の昼食の希望だけ聞いた彼女が、声を弾ませて家を後にした。

声の感じからして本当に大したことはないのだろう。そう思った僕は彼女が帰ってくるまでの間に軽く掃除をしておくことにした。

手探りで雑巾の置いてあっる場所まで向かい、雑巾をたっぷりの水で濡らす。あとは左手でゆっくりと物の位置を確認しながら右手でそれを追うようにして拭き上げる。その後はもう一度左手で。ちゃんと拭けているかの確認。


体感的に、目が見える頃と比べてしまうと10倍くらい遅いのでは? と感じてしまうけれど、それでも何もしないと言うのは考えられない。けれど彼女の前でこれをしようとすると、彼女が不満げな声を漏らすのだ。それがまた、僕に何かあったら危ないというのだから、僕の体は自然と動くのをやめてしまう。幾分過保護すぎないかとも思うけれど、彼女のその言葉はジレンマでもあり、嬉しくもある。

ただ、こういう時くらいしか動くことができないので、彼女に心配をかけないように慎重に掃除に勤しむのだ。


それに、彼女は僕がこういうふうに掃除をしているのを知ってるのだろう。

だって物の位置が何一つ変わっていない。これも飽く迄も体感の話になるけれど、多分1m mも変わっていないんじゃないんだろうかって思うほど。

………それだけ、日々僕の事を気遣ってくれているのだろう。

僕も、何か彼女に\してあげられないだろうか。感謝してもしきれないけれど、正直な気持ちを言ってしまえば、与えられるばかりでは申し訳なさで心が潰れてしまいそうだ


しばらくして掃除もできる範囲は終わりにして一息つくと、たまにしかできない掃除の爽快感と心地よい疲労感で、僕は意識が遠のいていくのが分かった。

ああ……、この疲労感が体から抜けていく感じが心地いい……。

まぁ、目が見えなくなってから圧倒的に運動不足のせいなんだけれど。


再び意識が戻ったのは、多分夜だろう。昼間よりも低い気温に湿気の増した空気。寝起きの体には優しい外気……の、はずなのだけど。

あたりを見渡すようにして首をゆっくりと左右に振る。

僕の感覚は少しおかしくなったのかもしれない、いや、久しぶりに体を動かしたせいで体の感覚でズレたのだろうか。

僕の感覚では、夜の7時くらいだと思うのだけど……彼女がいない。


そんなこと考えていると、玄関の開く音が聞こえてくる。彼女だろう。


「おかえり」


そんな僕の言葉に反応は無く、足音だけが近づいてくる。

その足音も彼女のものとは違うようだった。


「いきなりだけど、今日から少し家に戻ろうか?」


どこかで聞いたことのある足音だと思ったら、声は僕の母のものだった。


いきなり来て、何をいうのかと不思議がっていると母が教えてくれる。


「彼女、検査入院しなきゃいけなくなったんだって。電話しても出ないからって私の方に電話くれたの」

「検査入院って……、何日くらい?」

「一週間だそうよ」


何か悪いところがあるから検査入院なのだ。それなのに僕は。


「何か悪いところあったの? どこが悪いの?」


早口で捲し立てるように言ってしまう。

当然、母からは若干呆れたような声が耳に届いた。



「………懐かしい匂いだな」


実家に帰ってきたのは結婚して以来だった。

迎えに来てくれた母に礼を言い、僕は記憶の中の家を歩き始め───大きな音を立ててひっくり返る。


「いってぇ……」

「あらあら、そんなところで躓いて……。手を貸しなさい」


何かに躓いたようで、僕は床の上を手で撫でて原因を探ろうとした。


「少し前にお父さんが棚を作ったのよ……。趣味はいいけど片付けもしてくれると助かるんだけどね~」

「へぇ……」


再び呆れたような、諦めたような声音で話す母。今度は父に向けられた物らしい。


「何も趣味がないよりはいいんだけど、不必要な物ばかり作られても困っちゃうのよね……」


母の言う通り、手の感触から木材を使った棚だと分かる。

父がいつからそんな趣味に目覚めたのかは分からないけど、今はDIYにハマってるようだ。


立ち上がった僕は、再び壁に手を当てて歩き始め───何も分からなくなる。

久しぶりに帰ってきた家に、僕の知らない物で溢れているだろうことを意識してしまったから……だと思う。


真っ暗だった。

誰が悪いとかそんな事じゃない。本来はこの中で生きていか無くてはいけなかったのだ。彼女がいるからこそ、この暗闇とも無縁でいられただけ。これが本来の僕の住む世界なんだ。


僕はベッドの上で大半の時間を過ごした。

なぜだろう。僕と彼女の家ならば、ご飯は作れないにしても少しだけできたこと。それが今は何もできないでいる。トイレだけは行かない訳にいかなかったけれど、それまでの廊下がとても狭く、長く感じる。歩くたびに不安に駆られる、ぶつかってもいないのに、無駄に足に力が入る。

なんとかトイレから戻ると、とても寒く、暗闇はもっと深くなったように思えた。


そんな生活を一週間。

彼女が退院してきた。

僕は家に帰ることになった。

彼女が僕を迎えに来てくれて、僕は玄関へと向かう。

階段を降り切ったところで、片足をちょっと前に出して左に右に。

大丈夫そうなら反対の足を前に出して右に左に。

大丈夫そうなら………。


「はい」


壁に当てている手が、暖かい感触に包まれる。

後半歩、段差だよ───と。

たった1週間。

気付けば、僕は泣いていた。


僕にとって彼女がどんな存在なのか。

そう聞かれれば、僕にとっての人生であり、家だ。それだけは自信をもって言えるだろう。



そんな彼女は今日も僕の隣で、僕と手を重ねてくれていた。

ただ買い物は基本的に彼女が一人で済ませてくれているので、その手が離れる時間、24時間のたった数%で、僕の心が体から飛び出そうとするのを必死で抑えるようになった。

僕は少し、彼女に依存し始めている気がする。………違うね。依存していることにやっと気づいたんだね。



「────少しよろしいでしょうか?」


そんな彼女のいない、ほんの少しの時間。

僕のスマホが着信を告げて、出てみるとそんなことを言われた。


「すいません、両目が失明していますのでお名前を頂いてもよろしいでしょうか? どうしてもスマホの画面が見えないもので……」


着信音は彼女に決めてもらっている。家族ならさざ波の音、知人ならクラシック、そして登録していない電話番号からは学校でよく鳴るようなチャイムの音だ。この電話hチャイムの音だったから、事情説明をしないと名前の一つも分からない。


驚いたように「あぁ…」と声を上げた電話越しの女性は、失礼しましたと告げて言葉を続けた。


「奥様の検査入院時に担当させて頂いた者です。先ほど奥様の方にお電話させて頂いたのですが電話に出られないようでしたので、連絡先に記載されていた電話番号にかけさせていただきました」


お医者さんか。

────と、そんなふうに思っていると電話越しに淡々と説明する声が聞こえてくる。


「入院はいつになされるか決まりましたか? ご夫婦でご相談されていることとは思いますが、医者の立場からして入院をされることを勧めています。癌は今では治らない病気でもありませんし、もちろん全部が完治するとも言い切れませんが、諦めるにはまだ早いと考えていますので」


…………え?

今、この医者は何を言っているのだろうか。


「入院……? 癌?」

「……もしかして、奥様から何もお伺いになっていませんか?」

「………はい」

「そうでしたか………。それは余計な事を申し上げました。ただ奥様を責めないでください。患者であれば誰もが不安や悩みを抱えているものです。できる事ならば旦那様からも奥様に入院を勧めてみては頂けないでしょうか?」

「責めるなんて………、分かりました。まずはちゃんと話し合ってみます」


僕は静かに電話を切った。

そしてその日、僕は彼女に何も言えずにいた。

帰ってきた彼女もいつも通りで、癌については何も触れずにいた。


医者の口ぶりでは、彼女は入院しなければいけないらしい……けど、それを僕に言わない理由を考えてしまったから。

そして、それにも関わらず……彼女の足音は踊るように元気だったから。


その日の夜、彼女が寝静まるのを待って僕は一人縁側へと向かう。

腰を降ろし、撫でるような夜の風を体で感じながら、理不尽な思いを夜空へと投げかける。

もちろん星がどこに浮かんでいるのか、月は僕らをどこで嘲笑っているのかなど、目の見えない僕には見当などつかない。


「なんで僕たちばかりなんだろう……」


僕の目が見えなくなって、彼女に夢を諦めさせて一緒に暮らして。

罪悪感は全部消えないけれど、お互いがお互いを必要として、僕たちは今を歩いていたはずなのに。

今までは彼女が僕のスピードに合わせてくれていた。だけどこれから、彼女の歩くスピードは僕よりも遅く、あっという間に止まってしまうのだろう。

そうならない可能性──つまり治る可能性だってあるだろう。でも治る可能性があるのなら、彼女はどうして僕に何も言わないのだろうか? もう、彼女自身が諦めてしまったのだろうか?


ただ、もし、本当に。

悪い方にばかり転がっていくのなら、僕たち二人の時間なんてあっという間なのかもしれない。


そう思うと、自然と体は動いていた。

元からゆっくりな足取りは彼女を起こすことはなく、スマホを手に持つと再び縁側へと戻る。

僕にできる精一杯なんてない。誰かの力を借りなきゃ、僕には何もできない。

………あぁ、こんな親不孝な話はないかもしれないね。



翌日の朝、おはようと挨拶を交わした彼女の手に、僕の手をそっと重ねる。


「癌……なんだって?」


柔らかな朝日が差し込む開口一番。

そりゃ彼女の目も丸くなる、そして逸らす。


「昨日、僕の方に電話来たんだ。全部じゃないけれど……話は聞いたよ」

「……言えなくて、ごめん」


僕の手の中で小さくなっていく手を、僕は上から包み込むようにして。


「ぜんっぜん気にしてないし謝らないで。でもその代わり、君がどうしたいのか教えて?」





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