第10話 かき氷
眼前には穏やかに流れる河が広がる。水の流れは穏やかにどこまでも続き、やがて地平線で空と交じる。対照的に、向こう岸の雑木林は青々と茂っていてほとんど先を見通せない。手には草木を編んだリースを握っている。
「────────」
隣で少女が囁く。その声は私の耳に届かない。少女は悪戯っぽく笑うと、やがて遠く離れて見えなくなった。
終業を告げる鐘の音と椅子を引く音が私を現実に引き戻す。考えごとをしているうちに夢を見ていたのか、どこまでが夢でどこまでが思考の続きなのかが曖昧だ。
その日の授業はいつにも増して頭に入らなかった。授業だけではない。HRも休み時間も、気がつけば終わっていたという感覚だ。だから、危うく携帯電話に入っていた一通のメッセージに気づかずに帰るところだった。メッセージの内容は、最近話題になっているかき氷を食べに行こうという聡子からのお誘いである。もちろん、お誘いと言ってもそれはクラスメイトの柊野翠ではなく、白中ルナに対してのものだ。
二ツ谷駅南部にある甘味処『茶房園庭』。冬季はあんみつや和風な味付けをしたカフェラテで賑わう店だが、最近は夏季の目玉として、綿雪のように細かく砕いた氷にきなこやあずきをトッピングしたかき氷を始めたようだった。
「すごーい! 可愛い! っていうかこんなに大盛りなんだ」
かき氷が運ばれて来ると、聡子はそう言ってSNSに上げるための写真を撮っている。私は特にSNSに上げるつもりもなかったが、聡子に倣って一枚だけ写真を撮る。
「てかさ、今日誘っといてなんだけど、かき氷って8月の食べ物ってイメージない? たぶん子どもの頃、夏休みに食べた記憶からだろうけど。7月はアイス、8月はかき氷……みたいな?」
聡子は今し方撮った写真を加工しながら話す。
「あーわかるかも。そういうのってさ、実際に食べてた記憶もそうだけど、カレンダーの絵とかで印象づけられてる気もする」
私はそう言いながら、果たして自分の場合はどうだっただろうかと、幼少の頃の記憶を辿る。
そうして浮かんできた景色は、今日夢に見たせいか、学校の西側にある件の秘密基地だった。真綾も私もほかの同級生も、真夏の日差しの中、汗をかくことも気にせずに走り回ったあの夏の日を。目の前にあるようなお洒落なものではなく、どこにでもありそうな荒削りの氷に原色のシロップがかけられたかき氷を食べた帰り道を。
「────────ねぇルナ、なんかあった?」
下から覗き込むように聡子が切り出す。おそらくは彼女がここに誘ったのもそれが本当の理由だろう。聡子からしたら、柊野翠のことは毎日学校で目にしているのだから、もし私の様子がいつもと違っていたとしたら、それを気に留めることに不思議はない。
少なくとも聡子の目にそう映る程度には、あの日の出来事による影響は私が思っているよりも私の所作に表れていたのかもしれない。
「前に聡子を誘ったイベントあったでしょ、楢崎の。あれ結局私一人で出たんだけどさ……」
「え、そうだったの!? それならそう言ってよ! 応援しに行ったのに……!」
「はは、ありがと。気持ちだけで嬉しいよ」
膨れてみせる聡子を宥めつつ話を続ける。
「それで、そのイベントが終わった後に声をかけてくれた女の子たちがいたんだ。その一人がね、うーんと……翠の幼馴染だったの」
「うわ、それ絶対めんどくさい展開になるやつじゃん」
聡子は眉を顰める。
「そのときはちょっと話して終わりだったんだけどね……後日、その幼馴染……真綾っていうんだけど……そのコにバッタリ遭遇しちゃって……それで色々話が弾んじゃってさ……」
「それで仲良くなったと……まぁ、邪険にするわけにもいかないもんね。柊野くんを介した繋がりがあるなんて向こうはわからないわけだし」
それは真綾の立場では当然そうだし、ルナの立場でもルナと翠が別人であるならば本来はそうなのだ。だけど、そう話す聡子の言葉には少し棘があったような気がした。
「それで、なんやかんやあって私が翠の彼女だっていうことがバレたんだよね。いや、隠してるつもりもなかったんだけど、敢えて言うのもアレだったから黙ってたの。そしたら、『どうして言ってくれなかったんだ』って怒っちゃって……」
「え……そこで真綾ちゃんが怒る理由ってなに? あっ……もしかして……!」
言葉の途中でなにかに気づいた様子の聡子。
「……そのコはね、翠のことを好きだったんだって」
私はそう言って斜め下に視線を落とす。
本来、こういう話は聡子の大好物だ。だが、“柊野翠がルナを演じていることによって生じた確執”をおそらく彼女は良く思わない。昨年、ルナの正体が柊野翠だとバレた際に険悪になったのも、なに食わぬで両者としてそれぞれ接するその二面生が原因だった。だから、あのときのことを掘り起こしてしまうような気がして、できればこのことは聡子の耳に入れたくはなかった。
「えーっ! 三角関係じゃん!」
聡子が両手を口元に当てて大きな声でリアクションする。実際には三角ではなく二点間の関係である。だが、彼女は三角関係だと言った。それはすなわち、この会話において彼女が、柊野翠とルナを同一視していないという現れでもある。それなら、私もルナに徹することができる。
「そうそう……ん? 三角関係……?」
私は大きく頷きながらある違和感に気づく。真綾が私を好きだったのは中学時代の話だ。時間軸が異なっていても三角関係と呼称するのだろうか。
「────でもまぁ、そりゃ怒るよね。だってそのコ、今でも柊野くんのこと好きなんでしょ?」
その言葉に私は思わず思考停止する。
「え……? あ……いや、中学まではそういう気持ちもあったみたいだけど……今は恋愛自体気分じゃないって言ってたから、もうそういう気持ちはないんじゃ……」
すると、聡子は小さく溜息をついて言う。
「はぁ……そんなわけないじゃん。ルナはさ、モテる側の人間だからわかんないかもしれないけど……それって、ほかの人にはいけないくらい未練があるってことでしょ」
また聡子の言葉にほんの少し棘を感じる。だが、そんなことは気にならないくらいに頭をガンと殴られたかのような衝撃が走る。もしかすると、第三者視点では誰しもがその考えに思い至るのかもしれない。真綾が今でも柊野翠に好意を抱いているという可能性に。
私がそれに思い至ることができなかったのは、やはり好意の対象が
そして、私がそういう選択をとってしまったのにはもう一つ理由がある。
ルナとしてならば、柊野翠では成し得なかった真綾との友人関係が築けるのではないかと思ってしまったのだ。思春期的ないざこざに囚われることもなく、互いにクリーンで対等な相手として。
真綾にとっては『幼馴染の居場所を奪ってしまった』という悔恨が呪いのように足を絡め取っていた。それと同じように、私にとっては『当たり前に幼馴染として過ごすことができたかもしれない可能性』がいつまでも心の中に穴を空けていた。そのことに気づかず、或いは気づかないふりをして今日まできたツケが先日の祭の一件だったのだ。
顔を上げて虚空を仰ぐ。ちょうど店の窓から恨めしいほど青く澄んだ空に小さな綿雲が一つ浮かんでいるのが見えた。
「聡子、ありがとう。私一人じゃこんな簡単なことにも気付かなかった。今日誘ってくれなかったらずっと勘違いしたままだったかもしれない」
「な、なに急に……私は別に……!」
戸惑いと照れの入り混じった表情をする聡子。
せめて真綾には謝ろう。その結果として、彼女とはもう友達に戻れなかったとしても。
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