第3-1話 白秋公園①
気温は20度弱、雲量は二割五分、時折吹く風は未だ肌寒いが、花見にはもってこいの天気だ。そういう予報だったからこそ聡子は今日という日に設定したのかもしれないが。
私はベッドから降りて一つ伸びをする。家の中がやけに静かなのは、妹の杏が部活の練習試合のために両親と一緒に出払っているからだ。新年度早々からご苦労なことだと思ったが、一方で私にとっては、家に誰もいないのは都合が良かった。寄せられてラップがけされた朝食を食べ終えると、自分の部屋からウィッグとメイク道具一式をリビングに持って来る。これに何パターンかあるうちの適当なレディースの洋服を加えたものが、私が『白中ルナ変身セット』と呼称しているもので、不測の事態に備えて柊野翠として生活しているときも常日頃持ち歩いている。
私は慣れた手つきでカラーコンタクトとウィッグを装着しメイクを施していると、インターホンの音が家中に響き渡った。不意を突かれて驚いた私はモニターで外の様子を確認する。映っていたのは近隣に住む中年女性だった。宅配便くらいであればこの格好で対応しても良かったが、近隣住民となると話は別だ。彼女には申し訳ないが居留守を使わせてもらおう。
家の中に誰もいないと判断したその中年女性は、持っていたものを郵便受けに投函して去っていった。彼女が完全に去ったと確信できるまで心の中で秒数を数えた後、物音を立てないように忍び足で確認しに行ったところ、そこには町内会の回覧板が投函されていた。
そう、未だに回覧板という前時代的なシステムが成立している程度には田舎なのが、私の住む河澄町なのである。
ミステリー小説などで舞台となるような、世間と隔離されたムラ社会というほど田舎ではないが、旧態依然とした住民同士の相互監視や閉鎖的な選民意識が全くないとは言えなかった。そんな田舎で、ルナの格好をした私が来客の対応をしたらどのような噂が立てられるかわかったものではない。もちろん、そこに万全を期すならば二ツ谷に着いてから着替えれば良いのだが、家で準備をすることのストレスフリーさには代え難い。仮に外にいるところを目撃されたとしても、どこぞのギャルがいる程度の話でしかなく、それくらいであれば特に騒ぎ立てられることもないはずだ。
河澄町は隣接する二ツ谷市へのベッドタウンという位置づけであり、最寄りの河澄駅から待ち合わせ場所の二ツ谷駅までは電車で20分ほどの距離にある。一時間ほどかけて白中ルナの格好を完成させた私は、ほとんど混雑していない電車に乗った。
電車は二ツ谷駅の一つ隣、土浦駅に到着する。ホームに見覚えのある影を見かける。
「あ、おはようございます」
電車に乗ってきた千景が私の姿に気づいて隣に座る。
「おはよ。今日それ着て来たんだね」
彼女のオーバーサイズのシャツに細身のデニムを合わせたファッションは、遊びに行くのに着る服がないと言う千景のため、春休み期間中に皆で選んだものだった。そのときは皆スカートを推していたが、身長が低めの千景はロング丈はあまり似合わず、ショート丈は履く勇気が出ないとのことで、結局購入したのはパンツスタイルばかりとなった。
「ふふ、そうなんです。オシャレするのって楽しいですね」
その格好が本当に千景のしたい格好なのかはわからない。一緒に服を選んでいても、自分が着たいと思う服よりも、その服を着ても悪目立ちしないかばかりを気にしていた。だから、彼女がそう思えたというのは、肯定的な意味合いで他人の目を意識することができたという表れなのだろうか。千景の反応を見てルナの格好をするようになったばかりの頃を思い出す。柊野翠としてはもともとファッションという分野に興味の薄かった私だが、ルナを創り上げるにあたっての必要性から、その分野に足を踏み入れた。そのときは、ルナの姿を借りるという歪な形であったにしても、眼前に広がる無限の可能性に目眩を覚えながらも、心踊った記憶がある。
『次は終点、二ツ谷駅、二ツ谷駅です。降り口は右側です。お忘れ物のないようご注意ください』
車内アナウンスが響き渡り、やがて電車は二ツ谷駅へと到着する。待ち合わせ場所としていた中央口の改札を出てすぐのベンチには、既に聡子と麻美の姿があった。
「おはよー!」
こちらに気づいて激しく手を振る聡子は、黒いサロペットに薄手のニットとベレー帽を合わせている。その隣にいる麻美は、ロングワンピースにカーディガンを羽織った服装をしている。
「あ! こないだ買ったやつ着てるじゃん! かわいいー!」
聡子が千景の服装に気づいて声を上げる。聡子の大げさなリアクションに、千景は気恥ずかしそうに顔を赤らめる。
20分後、四人は白秋駅へ向かう電車に乗っていた。電車通学ではない聡子や麻美はもちろん、通学に電車を利用している私や千景も、この路線の電車には普段乗ることがなかったため知らなかったのだが、どうやらボックスシートになっているようだった。電車の中に乗客はほとんどおらず、ボックスシートが四人分空いているところを探すのは造作もなかった。私の隣に聡子、向かいに千景、その隣に麻美が座る。
「じゃーん! これ、みんなで食べようと思って!」
麻美は持っていた袋からお菓子を取り出す。チョコ、クッキー、スナックと次々に三人の前に出される。
「えっ、こんなに用意してくれたんだ。ありがとう……あ、『マカダミアサブレ』あるじゃん! これ美味しいよね!」
私はつい、小学生の頃の遠足のような気分になり、柄にもなくはしゃいでしまった。なんだったら小学生の頃よりも純粋に楽しめているような気さえする。目的地に着いてさえいない、道のりは序盤も良いところであるというのに。
「あんた露骨にテンション上がりすぎ。そんなに美味しいのこれ?」
聡子がやや呆れたような表情で言う。平常運転でテンションの高い聡子が言うのもどうかと思ったが、そんなことは問題ではない。
「いや絶対美味しいから! 騙されたと思って食べてみなって」
私は過剰なまでにそのお菓子を推す。聡子は訝しみながらもそれを口に運んだ。
「んー……まぁ美味しいっちゃ美味しいけど、言うほど……?」
聡子の反応に、一瞬の間を置いた後で三人が同時に笑い声を上げた。なにが可笑しいのかはわからなかったが、彼女の感想がなんであれ、私は何故だかそのリアクションを受けて笑える確信があった。
「そう? いらないなら食べちゃうけど」
そう言って手を伸ばす素振りをすると、聡子が慌ててそれを咎める。
「え、ちょっと待って! ダメ、私も食べる!」
その様子を見て麻美と千景が吹き出す。続いて私と聡子が互いの顔を見て笑う。女子高生は箸が転げても可笑しい歳頃というが、我ながら下らないことで笑っていると思う。かつて、教室の隅でクラスメイトの会話を聞いていたときは、なにが面白くてそんなに笑っているのか、他人に合わせて楽しくもないのに無理矢理笑顔を作っているだけではないのか、そのような人間関係ならこちらから願い下げだと自分に言い聞かせていたが、今では私自身がそれを体現してしまっている。
「ところでさ、今日行く白秋公園って聡子とルナは行ったことあるの? 私らは行くの初めてだわーって話してたんだけど」
麻美は自身と千景を指して言う。
「私はないかな、白秋市自体たぶん行ったことないはず。聡子は?」
「私もない……あ、行ったことないくせに誘ったの? とか思ったでしょ。いーじゃない別に。あそこの桜有名だし、いつか見たかったんだもの」
「そ、そんなこと思ってませんよ……! 誘ってくださっただけでありがたくて……」
膨れる聡子に千景が弁解すると、その様子を見て麻美が口を出す。
「千景……そんな真面目に返さなくていいんだよ。聡子のこの面倒くさいノリに付き合ってたら過労死しちゃう」
「え……あの……その……」
「ちょっと麻美! 千景に変なこと吹き込まないでくれる!? ねぇルナ、あんた笑ってないでなんか言ってやってよ!」
右手には黒松林、左手には耕運された圃場が広がる。その間を走る鉄の塊は、風を切って四人を運んでゆく。
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