第2-2話 新学期 -side S- ②
翌日、千景は自席で春休み中の宿題を整理していた。全体の進捗状況は八割程度ではあったが、未だ完了していないものについては、ほとんどが提出日に余裕があるものである。本日が締切となっている宿題の中で未完のものは、今机の上にあるテキストの最後の1ページを残すのみであった。
これら春休みの宿題も、自分一人ではここまで進まなかっただろう。ルナたちが引き続き家庭教師をしてくれたからこのペースでこなすことができたのだ。本来ならば、この最後の1ページも昨日の夜にちょうど終わる計算だったのだが、昨夜、聡子から送られてきたメッセージに気を取られ、思うように進まなかった。とはいえ、それは聡子のせいでは全くなく、メッセージの内容に舞い上がっていた自分自身に起因するのであるが。
そんなことを考えつつ千景が宿題に向かっていると、華恵が話しかけてきた。
「あれぇ? 千景、まだ宿題終わってなかったの?」
「あ、うん……昨日最後のページやろうとして寝落ちしてしまって……」
華恵は千景の返答にはあまり興味がなさそうな様子で話を始める。
「ふーん。……ねぇ、それより聞いてよ! 私、昨日駅でやたら男の人に声かけられちゃってさ!」
昨日あんなことを言っていたのだ。さぞかし迷惑だったのだろうと、千景は彼女に寄り添うような言葉をかける。
「それは……大変……でしたね」
見知らぬ異性から一方的に声をかけられる恐怖感は嫌と言うほど知っている。自分の場合はナンパではなく、ストーカーという形ではあったが。
かれこれルナから勉強を教わるために定期的に会うようになってからというもの、自身のストーカー被害はぱったりと途絶えてはいたが、もし再発したらと考えると身の毛もよだつ思いだった。
だが、そんな彼女の想いとは裏腹に、華恵は精神的に滅入る様子も見せずに言う。
「でしょ? しかもコレがなかなか離してくれなくて困っちゃうのよね〜。こっちは急いでるんだっつーの!」
なんだろう。彼女からは困っている様子が微塵も伝わってこない。そう感じさせないように敢えて気丈に振る舞っているだけなのだろうか。そう考えた千景は、いつだったか、ルナから教えてもらったストーカー対策を話し始めた。
「あ、あの……! これはナンパとは少し違うかもしれませんが……私がストーカー被害に遭ってたときに教えてもらったんですけど……どうしても一人で帰らないといけないときは電話しながら歩くのがおすすめですよ! あ、なんなら電話するフリだけでも効果的だって……」
「へ? ストーカー? へ……へぇ〜可哀想。ストーカーするやつなんて絶対キモいでしょ。私に声かけてきた人たちは今流行りな感じだったけどね」
その言葉に千景は一層混乱した。どういうことだろう。ナンパされて困っているのではなかったのか。何故そこで彼女が自慢気にナンパ男の肩を持つのだろうか。それに心なしかイライラしているようにも見える。またなにかおかしなことを口走ってしまっただろうかと不安を覚える。
「あ……あの……私、なにか変なこと言ってしまったでしょうか……? もしかしたら、その……嫌なことを思い起こさせてしまったとか……」
千景がそう言うと、周りで会話を聞いていたと思われる複数名の生徒がクスクスと笑い出した。
周りの生徒から笑われている気がする。やはりおかしなことを言ってしまったのだ。千景はそう思って恥ずかしそうに肩を窄める。こんなことでは華恵からも呆れられてしまうだろうかと、彼女の顔を伺う。すると、そこには顔を紅潮させ、険しい表情で肩を震わせる彼女の姿があった。
「知らない! ちょっとトイレ!」
そう吐き捨てて勢いよく教室を飛び出す華恵。千景は自分の失言で彼女を怒らせてしまったに違いないと狼狽える。後を追いかけて謝るべきだろうかと逡巡していると、先程笑いを零した生徒の一人が呟く。
「なにあれ、ちょーウケる。……っていうか感じわるくない?」
すると、その生徒は千景の方に来て話しかける。
「松橋さん……だっけ? あんたも大変だねぇ。クラス替え早々、あんな変な奴の相手しなきゃいけないとか」
“変な奴”とは話の流れ的に華恵のことだろう。華恵は彼女たちからそういう風に認識されているらしい。
「それにしても、さっきの松橋さんの返しヤバかったよね。ウチだったらあんな返し思いつかないわ」
その生徒と話していたもう一人も千景の方へ来て言う。千景には彼女たちがなにで盛り上がっているのかがわからなかった。
「えっと……どういうことでしょうか? 私、華恵ちゃんを傷つけるようなことを……」
千景の質問に、二人の生徒は信じられないといった表情をする。
「マジ!? あんたあのホラ話信じてるの? どう考えても嘘でしょ!」
「そうそう、あんなのがナンパされるわけないじゃん。大方、キャッチに声かけられたことをナンパとか言ってるだけっしょ。要はあんた、マウント取るのに使われたってコト」
そう言って千景の額のあたりを指差す。たしかにそう考えたら、自分の華恵に対する返答は、悉く彼女の意に反したものだったはずだ。だが、だとすれば、どういう返答をするのが正解だったのだろう。千景はますます人付き合いの難しさを感じることとなった。
「ねぇ、千景いる────?」
不意に教室前方の出入口の方から自分の名前を呼ぶ声があった。それと同時に教室内の空気が一変する。振り向いた千景の目に飛び込んできたのは、すらりと伸びた手足にキューティクルの輝くアッシュブラウンのセミロングヘアと薄くメイクを施した端正な顔立ち。まるでキラキラしたオーラが具現化して制服を着て歩いているかのような存在がそこにいた。
「あれ? 麻美じゃーん!」
麻美の知り合いと思われる何人かのクラスメイトが声をかける。麻美は彼女たちへの挨拶もそこそこに、千景の姿を視認するや否や、彼女の席の方へ近づいて来て言った。
「昨日、千景にも聡子からのメッセージいってたよね? 花見に行こうっていう」
「ええ、白秋公園……ですよね。私、あちらの方はあまりわからないですけど……」
白秋公園は、二ツ谷駅から南北に伸びる路線を快速電車で南へ一時間ほど走った位置にある白秋市の観光スポットの一つであり、全国的にも比較的有名な桜の名所であった。
「私も行ったことないからさっぱり。こっちはまだ六〜七部咲きなのに、あっちの方はもう咲いてるんだねぇ……。あ、そうそうそれでさ、今日の放課後おやつ買いに行こうよ」
しんみりと呟いたと思ったら一転して無邪気な子どものような提案をする。どちらにせよ、その見た目に似つかわしくない言動に千景は笑みを零す。
「ふふっ、なんだか遠足みたいですね。わかりました、放課後、玄関口で待ってます」
麻美は約束を取り付けると、満足そうに教室を後にした。買い出しの約束だけなら、そうメッセージを送れば済む話だ。麻美にとっては、買い出しの約束はただの口実で、千景の様子を見に来るのが本来の目的であった。
麻美の姿が見えなくなった後で、クラス中の視線が自分に向けられているのがわかった。
「……あれ?」
千景が呟くと、先程話しかけてきた生徒の一人が言う。
「あんた、葉山さんと友達だったの? やたらと仲良さげだったけど」
「あ……はい、子どもの頃近所に住んでたんです。私が引っ越してからは暫く疎遠だったんですけど、最近はまた遊ぶようになって……あなたも麻美とお知り合いなんですか?」
「ばっか! 一方的に知ってるだけだよ。ウチらの学年ならみんな知ってるでしょ、“クールビューティー”だの“カリスマモデルJK”だのって」
そういう評価がなされることに全く異論の余地はないが、仰々しい異名が浸透していることが千景にはなんだか可笑しく思えた。前に麻美がぼやいていたのを聞いたことがある。高校の同級生は自分に幻想を抱いている。窮屈で仕方ないし、その期待を裏切らないように動いてしまう自分自身にも嫌気が差すと。
「ねぇねぇ! 松橋さんも麻美と友達だったんだ? もう、だったら早く言ってくれたら良かったのに!」
唐突に話しかけてきたのは、先程麻美に声をかけていた生徒たちだった。教室の後ろの方でたむろしていたと思ったら、いつの間にか千景の背後には人集りができていた。
「あ、あたし眞子っていうの! よろしくね!」
「ねぇ、松橋さんって去年何組だったの?」
今まで自分のことなど眼中になかったであろう生徒らが、次々と自分に声をかけてくる。それほどまでにこの学校における麻美の影響力は大きいのだろう。彼女たちは自分の人間性ではなく、麻美の友達という肩書きにしか興味はない。だが、別にそれを哀しいと思うことも憤りを覚えることもない。だってそれは自分が一番わかっていることだから。虐めの対象にならなければ、できれば友達と言わないまでも事務的な会話だけでもできる生徒がいれば良いと考えていた千景にとっては、むしろ出来過ぎていて怖いくらいだった。
彼女たちは千景を引っ張って話の輪の中に加える。なされるがまま連れていかれる千景の目に映ったのは、教室後方の出入口付近に立つ人影。トイレから帰ってきたであろうその生徒は、苦虫を噛み潰したような表情でこちらを見つめていた。
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