#3 開幕の狼煙
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照明が落ちると、カヨコはスマートフォンの電源を落とし、鞄の中へしまい込んだ。
少し前、カヨコは二つ離れた駅ビルの中にある新しいシネコンで映画を観たことがある。たまには新作映画を観てみよう、フライヤーもチェックしてみよう…と行ってみたのだが、すぐにカヨコは後悔した。鑑賞中にマナーの悪い客の、光の柱が何本も立って集中して観れなかったのだ。
それ以来、カヨコはきっちりと電源を落とすことにしている。
すると、緞帳が翻ると同時にブザーの音が鳴り響いた。
(…これ、もしかして開幕のブザー?)
今までブザーが鳴ったことは一度もなかった。ほぼ毎週のようにムーンライト・シネマに来ているカヨコでも、この音を聞くのは初めてだった。
昔、ここがまだ“月光座“だった頃はブザーを使用していたという話を聞いたことがあるけれど…
──今回の『木曜17時の月光祭』はね、今までとは少し違うんだよ。
コーヒーミルクを受け取る際、邦じいは言った。
てっきり廃館が決定したことを含めての言葉だと思っていたが、もしかして趣向を変えてきているのだろうか。
朗らかに見えて悪戯好きの邦じいのことだ。こうしてカヨコや、常連のお客さんなどを喜ばせる仕掛けをしているのだろう。そう捉え、あまり深くは考えなかった。
そして、先ほどの大きめのブザーの音にも前の席の青年が目を覚ますことはなかった。よっぽど疲れているのやら、それとも神経が図太いのやら…
まあ、寝ちゃった人のことなんて気にすることないか。と、カヨコは改めてワインレッド色の椅子に座り直した。
照明が落ちて暗くなると、スクリーンに映像が浮かび上がる。黒のピックアップ・トラックが、何もない荒野の道路を走っている………
カヨコはこの瞬間が好きだ。
これから物語が始まるというわくわくと、どんな作品なのかとうすら怖さが混じる、この感じ。劇場スクリーンのこの四角の画面を、まるで別の世界を小さな窓から覗き込んでいるような、そんな気持ちになる。
その魔法の窓の外では、時に宇宙船が飛んだり、激しい銃撃戦が行なわれたり、夢のような恋模様を描いたり、誰かの悲しみや喜びを映したり──その世界では、時として生まれも境遇も違うのに、突然想いが心に近づく時がある。
不思議だが、満たされた気持ちになるのだ。
しばらくして物語が進んだ頃。画面から目を離さないまま、カヨコがコーヒーミルクを口にしようとした時だった。嫌な匂いが鼻をくすぐった。
焦げ臭いにおいだ。コーヒーの匂いに紛れても、それはすぐに臭ってきた。
だんだんと濃くなり、何かが焦げているような臭いへと変わってきた。
「火事…?」
天井を見上げる。火災報知器は何も反応していない。だが違和感は拭えず、カヨコは座席から立って出入り口へと向かった。
邦じいに報告しよう。もしかしたら、前のお客がタバコをこっそり吸っていたのかもしれないし…
上映中、邦じいは映写室にいるはずだ。7番スクリーンは売店の裏手の階段で映写室まで繋がっているので、上映中はそこを行き来しているはずだ。どちらかに行けばおそらく会える。
足元の照明を頼りに階段を上がり、劇場ドアのノブに手を掛けた。しかし、どんなに押しても引いても扉は動かない。
「あれー…?カギ掛けてるのかな…」
上映中、トイレに行きたくなった客のために空いているはずなのに…とカヨコは首を傾げる。
すると異臭が更に強く漂ってきて、思わずカヨコは咳き込んだ。ひどい臭いだ。何かが燃えている臭い。肌に刺すような熱い空気が頬に触れ、思わず振り返ってカヨコは驚いた。
いつの間にか、劇場内は黒煙が満ち火の海になっていたのだ。
「!」
早すぎる。さっきまで、少し臭うくらいの違和感でしかなかったのに。
カヨコは慌てて屈み口元を覆った。火災現場では火よりも煙の方が危険、なので安易に吸っては肺が燃えるという防災訓練で学んだことを思い出したのだ。
とにかく逃げないと。でも扉は開かない。スプリンクラーも火災報知器も動いている様子がない。
(逃げなきゃ)
(でも、でもどこに)
(邦じい、気づいてないの?こんなに燃えているなら、外まで臭いがしているはずなのに──)
「おい!」
階段で蹲っていたカヨコに誰かが声を掛けた。口元を袖で覆いながら、どうにか顔を上げるとそこには学ランの青年がいた。
そうだ。もう一人、ここには客がいた。煙が充満して視界が霞んでいるせいで、よくは見えなかったが、彼もこの火災に驚いて慌てているようだった。
「立てるか!?」
カヨコは頷く。だが、足が震えて動かない。
「逃げるぞ!」
腕を掴まれ、引きずられるように歩き出す。途中靴が脱げたような気がする。しかし、それを拾おうとは思わなかった。ただ闇雲に足を進めた。
青年と共に炎から逃げるが、背後の扉は開かず窓はない。7番スクリーンの非常口は劇場内の左右に設置されているが、大きな火柱が上がってとても近づくことができなかった。
「くそっ、どこも行けねえ…!」
「ま、え…」
「あ!?」
「すくりーん…」
カヨコは意識が朦朧としながら指を差す。黒煙を防ぐため口を覆っているせいで、酸素を奪われて脳が働くなってきていた。
青年も苦しげに眉を顰め、カヨコを肩で支えながらも足元はふらついている。
「スク、…リーン…後ろ、裏口が…」
スクリーンの裏側にはスピーカーが設置されており、音響設備の点検を行っているため業者が入ることがある。それにスクリーンの交換などもあるので、そのための裏口があるのだ。数年ほど前、カヨコはそのスクリーンの点検を邦じいに誘われて見学した際に見たことがあった。
スクリーンは下から燃え、幕は火の粉が舞っている。そして火が走り、破れて大きく真ん中に裂けていた。
カヨコの途絶え途絶えの言葉を聞いた青年は、彼女の腕を持ち直すとその切れ目に走っていった。
「しっかりしろ!」
青年の声が聞こえたはそれが最後だった。いつの間にかカヨコの瞼が落ちて、そのまま意識を手放してしまった。
もう一度目を開けると、そこには眩い光が満ちていた。
目がチカチカする。日光が顔面にぶつかって、しかめっ面をしながら瞬きをした。それに、風に巻き上げられた砂が顔にぶつかって気持ち悪い。
全身に気だるい痛みを感じながら重たい体を起こして、ようやく気づいた。
カヨコは荒野に来ていた。
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