第4話:忘れられた旋律(4)


 それから数日。

 カテリナはいつも通りの日常に戻った。患者の包帯を取り換え、食事を運び、中には看取ることもあった。看護婦としての当たり前の毎日を過ごし、数日前の不思議な夜のことは時折、脳裏を掠める程度にまで薄まった。

 カテリナは昼食に大麦パンと鴨肉と野菜のスープを食べて、事務室へと急いだ。休憩時間の合間に雑務を済ませてしまいたかったのだ。

 すでに数名、同じ考えをしている看護婦がいて、彼女らは籠いっぱいに詰められた封筒の山にため息をついていた。

 今、院内で問題になっている大量の手紙仕分け作業だ。

 二か月前にこのシェルハール総合病院で奇跡の再会を果たした夫婦が新聞の一面に取り上げられてから、傷ついた軍人たちが療養しているこの病院にいると各地から手紙が殺到したのである。記事にはご丁寧に病院の住所まで掲載したものだから届いた手紙は毎日箱のように届く。中身は悪戯から生存確認まで様々。兵士の名前と手紙の宛先を照合するので精一杯で、一か月前に届いた手紙すら仕分けできていないのだ。

「ここは病院よ。いつから郵便局になったのかしら」

 ベテラン看護婦は愚痴をこぼし、早速仕分けに取り掛かった。彼女の愚痴にはカテリナも同意見だった。

 戦争が終わって数か月。軽傷の患者は退院しても、それでも仕事が減るわけではない。————手紙を送るくらい気になって本当に会いたいなら、会いに来ればいいのに。

 担当する病棟の兵士の名前のリストを覚えていれば仕分けは楽なのだが、中には認識票も焼け爛れ、喉や手を負傷し、素性を伝えられない者もいるので、特定できない兵士もいる。

 不明(アンノウン)として仕分けされたが箱から溢れてきた手紙を、カテリナはもう一度確認した。早く渡すべき相手に届けねば捨てられるだろう。

「え?」

 カテリナは一通の手紙に、思わず声を漏らした。

 他の手紙とは比べ物にならない上質な封筒、そしてその宛名。


 双子の死神、ノア・ロスマリヌス・ダルドヴェール中尉へ。


 シェルハール総合病院の看護婦は特別休暇とは別に五日に一度の休みが与えられる。カテリナはパブへ昼間のうちに訪れた。昼間も店を開けてランチメニューを始めたらしく、賑わいを見せていた。

 カテリナはひと段落をついてカウンターに座りコーヒーで一服するマスターに話しかけた。

「あの、マスター」

「やあ、カテリナ。今日は休みなのかい?」

「ええ。それで————」

「ああ、配給だろ? ようやく市場が再会してな。元々配給不足は影響を受けなかったんだが、それでも鉄道が復旧したのは大きいよ。その分闇市の取締りも厳しくなるって話だ。でもこっちとしてはランチ営業も再開できて万々歳だけどな」

 マスターは上機嫌で大笑いをした。

「あの、マスター! 今日は、今日はいないんですか?」

 マスターはパチクリと目を丸くした。

「誰のことだい?」

「あの髪の長いピアノ弾きの…………」

「ああ、あいつか。あいつがどうしたんだ?」

「いえ、彼に用があるというか…………」

「気いつけろ。確かにあいつの顔立ちは整っているが、元は腕のいい兵士だ」

 そりゃあ階級は「中尉」なのだ。腕が良くて当然だ。

「それから、噂じゃあな。上官の頭、銃弾でぶっ飛ばしたって話だ。その後から頭がイカれちまって軍を辞めたらしい」

「でも、そんな風には。マスターだってピアノ弾きとして雇っているじゃないですか」

 カテリナの反論に、マスターは肩をすくめた。

「腕はいいからな。それに国のために戦ったことには変わりはない。俺もイカれているようには思えなかったが、ここにくる兵士たちが揃って言うもんだからよ。何人も話すし、近づかねえから噂は事実みたいだぜ」

 マスターはカテリナにもコーヒーを出して、隣に座るように促した。先月孫娘が生まれたというマスターはどうも若い娘に対して心配性になっているらしい。

「悪いことは言わないから、危ない目に遭ってからじゃ遅いんだ。それにあいつはもう来ないだろう」

「どういうことですか?」

 療養が終わり完治すれば皆、故郷へと帰る。シェルハールの駅には帰還兵が汽車に我先に乗車しようと押し寄せているくらいだ。

 家族や恋人、友人が訪れては探し人を訪ね、駅の掲示板から溢れるほど、帰還兵の帰りを待つ張り紙や手紙が貼られていて、シェルハールに残る兵士は次第に減って来ていた。

「ラッキーだったな、カテリナ。あんたが来た夜が、あいつの最後の演奏だった」

「————え?」

 彼がパブで弾いたのは、たったの五回だけだったという。

 

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